2018年10月28日 安川氏あてメール
このテキストについて
平山氏より安川氏に次のようなメールを送信したとの連絡がありまし た。平山氏の依頼により掲載します
本文
安川 寿之輔 様
その後いかがお過ごしでしょうか。
前のメールでお伝えしたように、10月20日に北海道網走市東京農業大学オホーツク校舎で開催された韓国日本近代学会で、「福沢諭吉のアイヌ民族観-朝鮮人観と比較して」という題目の発表をしてきました。
発表要旨・資料・音声は、
にありますので、よろしければご照覧ください。
発表後、全南大学校の林永彦教授より次のような質問がありました。
著作権の関係で音声をアップロードすることはできませんが、その骨子についてお知らせします。
- (問1)なぜ福沢は「野蛮」「半開」「文明」という3分類を諸国家(諸民族)に適用しようとしたのか。
- (問2)文明が西洋文明にかぎられるのはなぜか。中華文明というのはあり得ないのか。
- (問3)西洋文明の移入を最も強く唱えた福沢が、近代日本のアジア蔑視観の源泉になっている可能性はないか。
以上3問についての私の答えは次の通りです。
(答1)『文明論之概略』(1875)に影響を与えたギゾーの『欧州文明史』(1830)に倣っている。それだけでなく、福沢は幕末期に外国方(外務省)に所属していて、西洋の外交官が上記3分類に基づいて諸国家への対応に差をつけていることを知っていた。西洋文明を導入してその段階を引き上げることには安全保障上の要請もあった。
(答2)福沢はいわゆる中華文明(儒教文明)を認めていない。それは自身の経験から、儒教が個人の能力を抑圧する傾向があることを実感していたためである。福沢は中華思想に基づく限り、日本・朝鮮・清国はいずれも半開段階にとどまると考えていた。
(答3)アジア蔑視ということなら、日本の国粋主義者のほうにより責任がある。福沢は日本を相対化していて、自国を半開国と認めていた。いっぽう国粋主義者たちは日本が世界のどの国よりも優れていると主張し、その立場からアジアばかりか西欧諸国をも下に見ていた。1930年代以降の日本の国策は彼らの影響下にあって、その時期の福沢は批判の対象だった。
なお、本発表の準備にあたり、安川さんに関わることとして、次のような重要な発見をしました。
それは1875年10月7日に『報知新聞』に掲載された「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」で、安川さんが批判している「野蛮なる朝鮮人」とか、朝鮮は「小野蛮国」とかいった表現が、じつは福沢の意見ではなかったことです。
というのは、この不適切表現がある部分を少し広く引用するなら、
「近日世上に征韓の話あり。一と通り聞けば伐つ可き趣意もなきに非ず。野蠻なる朝鮮人なれば必ず我に向て無禮を加へたることもあらん。道理を述て解すこと能はざる相手なれば、伐つより外に術なしと云ふ説もあらん」
とか、
「抑も此國を如何なるものぞと尋るに、亞細亞洲中の一小野蠻國にして、其文明の有樣は我日本に及ばざること遠しと云ふ可し」
とあって、先の引用では、「野蛮なる朝鮮人なれば」から「外に術なし」までが、また、後の引用では「亜細亜州中の」から「及ばざること遠し」までが福沢が批判する征韓論者のセリフだったのです。
安川さんもご承知のように「亜細亜諸国との和戦は我栄辱に関するなきの説」は、征韓論者の意見に反対して、アジア諸国と戦争をするべきでない、と主張する社説ですから、そこでの征韓論者の意見というのは福沢の見解とは真逆のものであるわけです。
この不適切表現を批判している安川さんの著書『福沢諭吉のアジア認識』(2000)などが今後改訂されることがありましたら、ぜひとも訂正をお願いします。
季節が移り替わって、朝夕はひんやりとしてきました。時節柄お体にお気をつけください。
では。
平山 洋