2018年12月18日 安川氏あてメール
このテキストについて
平山氏より安川氏に次のようなメールを送信したとの連絡がありまし た。平山氏の依頼により掲載します
本文
安川 寿之輔 様
お世話になっています。
『さようなら!福沢諭吉』第6号(2018年12月刊行)をお送りいただき、大変感謝します。本年7月下旬から取り組まれた機関誌購読者の拡大活動の結果、11月下旬現在で新たに127名の購読会員を得られ、全部で959名となったこと、お祝い申し上げます。
さて、10月に韓国日本近代学会で口頭発表した「福沢諭吉のアイヌ民族観-朝鮮人観と比較して」を論文化しました(https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/on-ainu/)。ご照覧いただければ幸いです。
口頭発表の後に調査を進めた結果、新たなことがわかりました。以下で箇条書きをします。
- (1)福沢によるアイヌ民族への言及は、明治8年(1875)と明治15年(1882)の2つの時期に合計5回しかないこと。
- (2)アイヌ民族に教育を施しても無意味である旨の発言は、イザベラ・バードの『日本奥地紀行』(1880)中の一節と類似していること。
- (3)明治5年(1872)から明治7年までの2年間、福沢邸から北に1キロの東京芝増上寺境内に設置された「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」で20名以上のアイヌ民族の青年が教育を受けていたこと。
そもそもアイヌ民族を野蛮と評価するのは当時の常識であり、だからといって福沢を批判するのは手厳しすぎます。また、アイヌ民族という呼び方はまだなかったため、当時の正式な呼称である「北海道土人」を使ったとしてもそれを差別とすることもできないと思います。
また、比較の対象とした朝鮮人観についても、国としての朝鮮は一貫して半開と評価していたことが確認できました。民族としての朝鮮人については、とくにその体格のよさについて、福沢は「羨ましい」と述べているほどです。
今回の研究の目的は、主として杉田聡さんの指摘への検証にありました。結論的には杉田さんの見解は完全に否定されてしまいましたが、それはそれとして、安川さんや杉田さんの研究が学界からまったく無視されていることを残念に思っています(http://pubspace-x.net/pubspace/archives/3197を参照)。
先週の土曜日に開催された飯田泰三先生主宰の研究会で月脚達彦さんともご一緒しましたが、苅部直さんと同様、お二人とも安川さんや杉田さんの研究や批評に反応する気はないようでした。
このままだとせっかくの活動も、959名の会員と、さらに活動を薦められるであろう451名以上の方に知られることはなくなってしまいます。これは私のホームページを訪問している方々の数10分の1にも及びません。
ご存知とは思いますが、現在ネット上での福沢に関する言及のほとんどは、私の研究に基づいています。また、全国の大学で福沢を課題とするレポートが出された場合、私の研究からのコピペが横行しているのが実情なのです。
安川さんの機関誌形式による活動を否定するものではありませんが、その方法に限界があるのはもはや明らかでしょう。そこで老婆心ながら、刊行後時期を見計らってからのネットでの全文公開をお勧めするものです。
それでは今後の活動について、一層の盛り上がりを期待しています。
では。
平山 洋