自著を語る・『福沢諭吉の真実』(文春新書)について

2015-03-13

一、安川・平山論争のことなど

ここでは『福沢諭吉の真実』(以下本書)の由来と、そこで新たに明らかになったこと、さらに出版後三ヶ月を経過した時点で寄せられた疑問への応答を試みたい。

「あとがき」にもあるように、安川寿之輔氏の論説「福沢諭吉ーアジア蔑視広めた思想家」が本書を書く契機となった。安川論説の内容は同氏著『福沢諭吉のアジア認識』(高文研二〇〇〇)を要約したものである。

安川氏の福沢批判は、現行版全集(一九五八~六四)の「時事新報論集」所収論説を主な対象としていた。私には安川氏がそれら無署名論説を無条件に受け入れているのは不自然に思われた。そこで私は、現行版の全集は弟子の石河幹明が編纂した大正版と昭和版の正続全集を再編集したもので、その「時事新報論集」も石河が無署名論説を紙面から選んだにすぎない旨の反論を試みたのだった。

それに対し安川氏は、現行版全集第八巻の「後記」(一九六〇)に依拠して、石河の論説選択は確実であり、侵略的・差別的思想家としての福沢像にも揺るぎがないことを重ねて主張した。私には安川氏が、無署名論説は石河が選んだのだから正しい、と言っているとしか受け取れなかった。そこでこのあり方を「石河への盲目的愛」と名付けたのである。

この二〇〇一年五月から六月にかけての安川・平山論争のうちに本書の構想はほぼ固まったといえる。とはいえ当初の私には石河が故意に福沢像をねじ曲げようとした、とまでは思い至らなかった。安川氏への反論は、主に井田進也氏が編み出した文体と語彙による起筆者推定の方法(光芒社『歴史とテクスト』二〇〇一)に基づいていて、安川氏が批判している論説の大部分は石河が執筆したものである、としたに過ぎなかったのである。

そもそも「時事新報論集」に石河起筆の論説が多数含まれていることは、昭和版続全集(一九三三)の「付記」(本書七五頁に転載)において石河自ら明言していることである。福沢執筆ではないとしても、全体として福沢を体現した論説が収められている、と石河は主張しているわけだ。「時事新報論集」が福沢の思想を正しく伝えているなら、安川氏の主張にも一定の正当性があることになろう。

二、本書において新たに明らかとなったこと

ところが二〇〇一年夏に行った調査によって、石河が意図的に福沢像を歪曲したことが判明したのである。

福沢には全集未載の論説・演説集『修業立志編』(一八九八)があることは従来まで知られていなかった。石河はこの『修業立志編』所収の論説・演説全四二編のうち九編を全集から落としている。しかもそのうち「忠孝論」「心養」の二編は、はっきり福沢の真筆と確定できる論説なのである。石河は『福沢諭吉伝』(一九三二)を執筆するにあたって、彼が思い描いていた侵略的絶対主義者としての福沢像にそぐわない真筆論説を自ら編纂した正続全集に入れなかったのである。

こうして、安川氏による福沢批判の根拠は根底から覆されてしまった。「時事新報論集」所収の論説の多くが石河の執筆であり、そこに採られている論説が福沢を体現するものではなく石河の見解であるとしたら、安川氏は福沢ではなく石河を批判していたことになるからである。

富田正文編の現行版全集は、厳密な校訂をもって定評があり、一九六五年には学士院賞さえ受賞している。この権威ある全集に疑義をはさんだ者は、この四〇年近くの間に一人もいなかった。しかし石河への疑問はそのまま富田編の現行版全集にも当てはまる。全集への疑問を解くべく、二〇〇二年四月から一年をかけて本書の原型を書いたのだった。

そこで本書で明らかとなったことは主に以下の三点である。まず第一点は、現在なおも対立したままとなっている二つの福沢評価、すなわち福沢を市民的自由主義者とする見方と、侵略的絶対主義者とする見方のうち、後者は石河による『福沢諭吉伝』と昭和版続全集が完結した一九三四年以降に新たに付け加えられた評価であったということである。

大正版全集が刊行された一九二五年まで、福沢の思想とは明治版全集(一八九八)に収められた署名著作とその後死去までに出版された『福翁百話』(一八九七)や『福翁自伝』(一八九九)などに限られていた。無署名の時事新報論説は未公刊だったのであるから、そもそも侵略的絶対主義者としての福沢の姿など創り出せるはずもなかったのである。

ついで第二点は、石河による福沢像が彼の虚構であった、ということである。石河は自分で執筆した論説を大量に大正版・昭和版の正続全集に盛り込み、それらをもとに『福沢諭吉伝』を書き上げたのであった。

さらに第三点は、この二つの福沢評価をめぐる、第二次世界大戦後間もなくして始まり今なお尾を引いている論争において、そもそも両陣営が間違った場所を戦場としていることを示したことである。

福沢は市民的自由主義者であるとする、慶応義塾の出身者と丸山真男率いる東京大学法学部出身者たちを主力とする研究者たちは、石河の仕事を尊重しつつ、侵略性よりもむしろ個人の自由と経済の発展の追求に福沢の本質を見いだすことで福沢を弁護してきた。

一方東京大学文学部とその他の大学の文学部・教育学部出身者を主な構成メンバーとする研究者たちは、石河の主張を積極的に受け入れて、侵略的絶対主義者としての福沢を批判していたのであった。今日まで大きな影響を与えている遠山茂樹氏の『福沢諭吉』(東京大学出版会一九七〇)でさえ、その骨子は石河の伝記に依拠しているのである。

現行版全集の「時事新報論集」がまったく信用できないものである以上、福沢の時事的思想の研究は未だ開始されていない、とさえいえるほどなのである。

三、寄せられた疑問への応答

本書が八月に刊行されてから、いくつかの疑問が寄せられている。その第一は、無署名論説の起筆者認定が石河へ不当に辛いものになってはいないか、ということである。第二は、福沢と石河に立場の相違があったとするなら、なぜ福沢は石河を罷免しなかったのか、というもっともな問いである。第三は、福沢は市民的自由主義者であるとする私の規定はやや一方に偏しているのではないか、ということである。順に答えて行きたい。

第一については、無署名論説の認定にあたって私は井田氏の判定基準を参考にした一覧表を用いたのだが、そこに恣意性がまったく排除されているか、と聞かれれば答えに窮せざるをえない。米原謙氏よりその点についての指摘(ネットの同氏HP「政治学・政治思想の研究動向」一〇月一〇日)があり、他人の身びいきには気づいても自分の身びいきには気づいていない可能性があることを痛感した。無署名論説の起筆者推定の試みに多くの人が参加することを希望する次第である。

第二は、脳卒中に倒れる一八九八年九月以前にも問題論説(たとえば「台湾の騒動」一八九六)があるが、それらを福沢が書いていないとしても、掲載を許した責任は免れないのではないか、ということで、栗原俊雄氏(毎日新聞「ウイークリー文化・批評と表現」八月二九日掲載)から寄せられた。その点については本書一七九頁以後に大まかな答えがある。要するに、今日の目からは読むにたえない論説であったとしても、当時の状況下では、論説担当を外すというほどの卑劣作とは考えられていなかった、と推測するのである。

第三は、鷲田小弥太氏が呈された疑問(同氏HP「読書日日」一〇月二二日)であるが、これは市民的自由主義の意味する内容に、鷲田氏と私では差があることから生じたように思われる。すなわち私は、またおそらく丸山も、市民や自由主義を古典的な意味で用いていて、現代では一般的となっている、市民を国民全般と、自由主義を政治的リベラリズムと同様に見なす使い方をしていない。

福沢が士流と呼び、丸山が市民と名付けたのは、庶民(人民)とははっきり分けられたミドルクラスのことである。また、自由主義とは一九世紀英国の政治的・経済的自由を尊重する立場のことで、国民全般の福祉向上を主目的とする現代のリベラリズムとは異質なものだ。福沢は、民権(現在の用語では民力)の拡大が国権(国力)の増大に繋がると常に主張していたのであるから、一貫して英国流の市民的自由主義者といってよいのである。

こうしたことを踏まえた上での安川氏による本書の批評をぜひとも知りたく思う。

(ひらやま よう 静岡県立大学)