『洋行之奇禍』 その31

last updated: 2013-01-23

其三十

一不幸は他の不幸を惹起し、一病は他病の因と為る、僕は今此経験を嘗めつつある、僕が病は昨年の八月一たびマラリヤ熱の因と為りしが今や再び他病を惹起すに至れり、一月の末僕は突然烈しき熱病に捉えられしが之れは丹毒と称する伝染病である、傷持つ病者に伝染する病なるが故に直に伝染病者の隔離室に送られて特別看護の下に附せられた、二週間許り過ぐれば熱は退きしも未だ一歩も家外に踏み出すことは出来ない、

二月八日に一友尋ね来て君は本日の号外を見たかと問うた、僕は号外は見ないが大方戦争の事だろう、此頃はもう屹度始って居るぞと言えば、彼は然り已に昨夜我が水雷艇が旅順の攻撃をやって敵艦三艘を滅茶滅茶に破壊したとの号外が出て市中は何んとなく活気を帯びて見ゆると話聞かせた、あアとうとう戦争は始まった、如何に戦争の風聞が長かりしよ、 僕は病床僅かに外字新聞を手にして其概要を摘み(注1)居りしが、昨年の六七月頃初めて日露交渉の記事が現われし以来戦争熱は日に日に生長し膨張して何れの新聞も之が為めに大活気を帯びた、 東京より倫敦より巴里より露都より矛盾衝突の電報は見る者をして殆んど五里霧中に墜らしめしも早晩破裂を見ることは何人も疑なきことと思うた、 我国に於ては民間の志士等は大活動を始めた様子であった、対露同志会の運動より河野議長の奉答文事件の如きは外字新聞中尤も著しき記事であった、 国民の特性は国家の大事に当て初めて発揮せらる、国家の大事は国民の特性を示すべき好機会である、この好機会を捉うる能わざる国民は特性なき国民である、 特性なき国民は滅ぶ、日本国民は戦争中は無論の事、戦争前に於ても世界に向ては十分に其特性を発揮したることは疑ない、唯々談判の遷延せしが為めに国民憤激の頂点に達せしも当局者の心意を察すれば大に同情を寄すべきものがある、 外交の事は軍備と並行す、而して軍備なるものは一朝一夕に整うものでない、軍備整わざるに早くも外交談判を破裂せば其結果は言うを要せない、僕は堅く当局者を信ぜり、 談判の遷延するは遷延するの理由あることを確信せしが、今日か明日かと思う間に半歳は過ぎて遂に破裂の声を聞くに至った、大破裂、実に空前の大破裂である、 地球は其響に依て動揺し万物は其音を聞て顛覆せり、而して其動揺は何時に止むか、三年か五年か果た十年か、敵も知らねば味方も知らず、世界広しと雖ども之を知る者は一人もなし、をを国家空前の大事件!国家危急存亡の秋!而して僕の病は如何、依然として元の如し、

或る日僕は病床に横わりつつ考え始めた、考えざるを得ない、僕が前途に付て大に考えざるを得ない、而して其考は遂に一の決心に到達した―冒険的決心に―今日は二十日、もう八日過ぐれば三月の一日である、三月の一日は入院の一週年紀である、 僕は昨年の三月一日に前病院に入院して以来引続いて今日まで一日も病院以外の生活を為したことはない、明ても暮れても薬臭き病院の一室に引籠って猛烈なる病魔と戦いつつあった、 其間有りと有らゆる苦痛に堪え不便を忍び怒を押え愉快と云うことは一点の露ほども得なかった、 此は畢竟何が為めである、言わずして此病より脱れんが為めである、此の病より脱れて再び目的地に向て進まんとする一導の希望があったからである、然る処が此の希望の綱は何つしか全く断ち切られてある、 今に至て之に気付かざれば僕は甚だしき不明の譏を免れない、見よ病は少しも治らないではないか、一年を過ぎたる今日に於て其間に三回までも命を捨てての大手術を為しても治らないではないか、 医者は最早此上の手術は要せない此儘にて日々の手当を施せば大概治ると言うなれども僕は之を信じない、其証拠には最後の手術から三ヶ月半も過ぎたれども此傷は少しも治らない、医者の言は信ずるに足らず、之を信じて此処に居た時には二年は過ぎ三年は過ぎて終には死するか、否らざれば回復すべからざる悲境に落ちねばならぬ、 去りとて此上他の手術は医者も為さないであろうが僕も之を欲せない、尤も確かに治ると云うことが分って居れば今迄辛抱したのであるから、此から先三ヶ月や五ヶ月の辛抱は我慢しなくてはならぬが、 此辛抱を為したからとて其効能が現わるる当途は更に見えない、 無用有害の辛抱と為って終るに相違ない、左様な辛抱を為すは不明の至り愚の極である、然らば此場合に於て何んと為すか、日本に帰るだけの事である、 日本に帰って日本第一の名医に思い切った治療を為さしめ、此病の運命を試めして見る、而して治らざれば何をか為さんや、どうも仕方はないではないか、人事を尽して天命を俟つ、思い残すことは更に無し、好し帰るべし、断然帰るべし、何に僕が此地に来たのは僕が目的の本体ではない、 僕が目的を達する手段である、而して絶体的に必要なる手段ではない、他に取るべき手段は幾多もある、況んや学校には彼れ是れ二年も通ったから事情は能く分って居る、 此上学校生活を為すの必要はない、究めんと欲する事は僕自身の力にて十分である、少しも他人の力を借るを要せない、身に落ちた不幸は此は仕方がない、去りながら此不幸をして益々不幸と為すか果た之を転じて幸と為すかは僕の心得如何に依て決せらるる問題である、 何に一年や二年何れに違うが構うものかい、此位な事に出遇って辟易(注2)する様では到底駄目である、 世の中には僕より一層も二層も甚だしき不幸に出遇う者は数多ある、好し帰るべし、而して帰るべしと決めたら速に帰るべし、

併しながら待てよ、心だけ帰ったとて身体が帰らなくては幽霊の抜殻である、一体此身体にて帰れるだろうか、医者に問えば無論帰れないと言うに相違ない、そんな事なれば聞かない方が可い、 最早斯く為っては何人の意見も当には為らない、僕の事は僕自身の心の問うて決めるより外には途はない、 夫れで誤ったら安心が出来る、併し未だ一歩も戸外に出ない、戸外は一面に雪を以て蔽われ寒風刺すが如くである、 一たび出たら復もやマラリヤ熱に攫まれなくてはならぬ、然るに三十日の長旅、汽車や汽船に揺られ揺られて、所々にてまごついて、而して傷の手当ては如何にするか、 ハハア此は全く一の空想ではないかな、否な空想にしては可けない、実想にしなければならぬ、夫れにしても亜米利加通いの日本船は何れも戦時徴集に為ったと云うことであるが其が事実であるなれば、実に困った訳である、 尤も外国船はあるが此の病を負て外国船に乗れば何れ程の困難と不便を感ずるか知れない、何は兎もあれ帰ると決まれば一寸紐育まで行て来なくてはならぬ、 紐育に行けば船の事も能く分かる、種々の買い物もある、殊に一度帰れば再び渡米することは仲々免到であるから成るべく沢山に書物を集めて持ち帰らなくてはならぬ、兎に角紐育迄行こう、然る後に於て委細を決めよう、窓外を眺むれば降雪盛なり、

翌日早朝医者や看護婦が止めるを可い加減に胡魔化し勇気を鼓舞して戸外に跳び出した、電車に乗じて停車場に至り汽車に投ずれば二時間余にして紐育の中央停車場に着いた、夫れより一直線に日本領事館に至り汽船の事を問合わすれば戦時徴集は確かであって日本船は通わないが、 唯一つ郵船会社の伊予丸が来月の初めにシアトルに着し八日出帆の日取なることが分った、 此船が去った後には何つ迄日本船は通わないのか少しも当途はない、一寸考えた、来月の八日、遅くとも一日に此地を出立せねばならぬ、今日は二十一日、後一週間の間がある、頗る可なり、天が与えたる好機会、是非共此船を捉えんと決心し直に歩を転じて「マクミラン」書店に至り漸くにして百冊余の書籍を集めて即刻病院に向て送るべきことを命じ、 更に歩を変えて名高き「ワナメカ」会社に至り物品を買わんとせしが忽ち眩暈を起して倒れそうになったから傍らの腰掛に寄りて暫く両眼を閉じしも身体頗る異状を感じ鼓動の烈しさを覚えた、 斯んな場所にて倒れたら夫れこそ大変と思い一物を手にせずして戸外に出で寒き空気に打たれたる勢を以て電車に跳び乗り一哩許り隔りたる或る宿屋に至り直に床中に横わりしが幸にして大事と為らざりし、 一夜を其所に明かし、翌朝近傍の医者を訪うて繃帯を取り変え、再び「ワナメカ」会社に至り出でて数軒の店を見舞いたる後に停車場に至り汽車に乗て病院に帰れば日暮れた、看護婦は驚き僕は笑う。

僕は来月一日に出発して日本に帰ると言えば案の如くに医者が来て思い止まるべしと勧告した、此寒中に於て其病体を以て迚も無事に旅行が出来得る訳がない、 途中如何なる変事が起るかも知れない、殊に六日間の汽車中誰に傷の手当を為して貰うか、少くとも一日に一回は繃帯を取変えざれば液体の始末が付かない、 之が因と為りて熱を起すから頗る危険である、左様なる危険を冒すよりもモー二三ヶ月経れば患部も癒ゆるであろう、 時候は温かになる、其時を俟て旅途に上れば万全の策ではないか、自分は此病院には二十年来勤務して居るなれども此迄病人に向て斯る言を吐いたことは一度も無い、 退院せんと欲する者は如何なる病人でも又何時にても之を留めたことはないが、独り君に付ては病院は特別の関係を有して居る、遙々と外国より此地を指して来り業央ばにして此不幸に出遇われたるは実に同情の念に堪えない、 夫れゆえに常に注意を怠らざれども、未だ其効果を見る能わざるは甚だ遺憾なる次第である、 兎にも角にも自分は安全なる旅行を保証することは出来ないから今一度熟考の上にて思い止まるることを希望すと述べた、 医者が去った後で看護婦も親切に忠告した、此等の忠告は彼等の言として尤も適当である、殊に前病院の医者や看護婦等の処置とは同日の話ではない、併しながら僕が当時の事情は此親切なる忠告を容るることが出来なかった、 病気は此から二三ヶ月過ぐるとも決して治らない、日本第一の名医の治療を受けたい、八日の伊予丸に乗らねばならぬ、此確信の為めには如何なる情実も顧みるの暇がなかった、

翌日傷の手当に要する一切の道具と二週間分の繃帯を買い入れたる後、人を雇うて荷物の用意に取り掛りしが頗る免到、此免到も漸くにして終ればまだ一の大免到が残って居る、 夫れは前病院に対する談判事件である、用事があれば遠慮なく此処に来れと言伝を為したれども一回も出て来ないは何故であろうか、 一体米人は商売敵の念が甚だ強い、殊に此病院の者等が常に前病院を悪く言う点から考えると何か軋轢を生じて居て夫れが為めに出て来ないのかもしれない、 去りとて此方から出て行くことは迚も出来ない、此儘にして去ることは尚更出来ない、仮令病を強めても此殊だけは是非其始末を付けて帰らなくてはならぬ、 死すとも卑怯の名を残すことは嫌である、何うしたが可かろう、已むことを得ない、退院して三四日宿屋住居を為そう、而して彼の監督者を呼び寄せてやろう、 併し其間の傷の手当に困る、一たび退院したら最早此病院にて手当を受くることは出来ない、此れも仕方がないから外医の手当を受けることとしよう、

斯様に決めたる上にて二十五日に退院して宿屋に移転し直に書を前病院の監督者に寄せて僕は来月一日出立して日本に帰るから此書面を一見次第直に此宿まで来て呉れよと申し遣した。

脚注

(1)
原文では「撮み」と表記されている。
(2)
原文では「避易」と表記されている。