福沢健全期『時事新報』社説における移民論
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福沢健全期(注1)『時事新報』社説における移民論
平山 洋
1.はじめに
この論文は福沢諭吉が脳卒中の発作に倒れるまでの『時事新報』社説における移民論の論調の変遷を明らかにすることを目的とするが、その場合注意しなければならないことは、それだけでは福沢本人の移民論の究明にはならない、ということである。というのは、『時事新報』社説は福沢を含む複数の社説記者によって執筆されているため、全集非収録を含む社説の論調を追究することから分かるのは、法人としての『時事新報』の主張の変化にすぎないからである。
本論文の主目的はあくまで『時事新報』社説の分析にあるので、大部分の記述は福沢健全期の新聞社説に関するものになるが、読者によってはそれでは物足りない、と感じることがあるかもしれない。というのは、多くの読者にとっての関心の中心は福沢の移民論にあって、『時事新報』のそれではないであろうからである。
そもそも福沢の移民論だけを抽出することは可能なのか。追々述べることになるが、論者は可能だと考える。明治版『全集』(1898)(注2)に収録されている署名著作については、慶應義塾による「デジタルで読む福沢諭吉」の語彙検索を使えば、移住・移民・殖民・植民・帰化・移植などを含む著作を選び出せる。また、それらの語彙を題名に含む社説一覧を作るのも容易だ。さらにそこから福沢による社説をより出すことも、論者の立場によれば可能だからである。
そこで本論文は、『時事新報』社説における移民論の全貌を明らかにしつつ、福沢本人の移民論を追究するため、1882年3月以前の『時事新報』創刊前期の著作も、社説以外の署名著作も考察の対象に加えることにする。その展開は以下の通りである。次の第2節では福沢署名著作における移住や殖民の用例を紹介する。第3節では福沢健全期『時事新報』中の移民論関連社説を一覧する。さらに第4節では福沢が影響を受けたと思われる英国の経済学者ウェイクフィールドの植民論について概説する。第5節では新たに発見された移民論関連全集非収録社説について扱う。そうして第6節では移民論関連社説の論調の変遷を概観する。そうして最後に本論文で新たに明らかになったことを項目化し、『時事新報』の論調と福沢本人の主張の異同を確認する。
2.福沢署名著作における移住・殖民の用例
福沢本人が移民についてどのような考えをもっていたのかを知るために、まず福沢署名著作における移住・移民・殖民・植民・帰化・移植の用例を「デジタルで読む福沢諭吉」によって抽出する。まずはどの著作にどの語彙が何例あるかを一覧によって示す。その結果は以下の通りである。
移住 | 移民 | 植民 | 殖民 | 帰化 | 移植 | |
---|---|---|---|---|---|---|
西洋事情初編(1866) | 6 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 |
文明論之概略(1875) | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 |
瘦我慢の説(1877) | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
民情一新(1879) | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 |
民間経済録二編(1880) | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
通俗外交論(1884) | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
実業論(1893) | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
福翁百話(1896) | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
見ての通り、結果はあまりにシンプルである。福沢本人には移民を主題とする署名著作がないばかりか、語彙としての移民の使用さえただの1例もない。『西洋事情初編』中の移住6例と『文明論之概略』中の殖民1例はいずれもヨーロッパ諸国の状況説明において使われている。また、『民情一新』中の植民2例は、エドワード・ギボン・ウェイクフィールド(Edward Gibbon Wakefield)の『植民方法論』(“A view of the art of colonization”(1849))からの引用部(注3)に現れていて、やっぱり海外の事例に関してのことである。ウェイクフィールドについては第4節で詳しく触れる。
日本のこととして移住が使われているのは『民情一新』からだが、そこでの唯一例は、「譬えば永年他国に移住する人が、頻に故郷を慕い」(⑤20)(注4)というごく一般的なもので、この引用文中の「他国」とは外国のことではなく日本国内の別の地域のことである。次いで『民間経済録二編』の4例は本州から北海道への移住が進まないことについて記述した部分に現れている。初出は『時事新報』社説として発表された『実業論』での唯一例は、「人口の年に増加するは識者の夙に注意する所にして、之を海外に移住せしむるは苗を分けて植ゆるに異ならず、その他方に繁殖するは即ち自国の勢力を増すの好方便なりとて議論する者なきに非ざれども、曾てその辺の企てなく」(⑥149)と、福沢ではない第三者が海外渡航を奨励しているという文脈で使用されている。さらに1895年から翌年にかけて書かれた『福翁百話』での使用例は、大部分は単に日本国内での移住について触れている部分にあるが、注目するべき記述として、海外移住を推進する場合には同時に娼妓の渡航も許すべきだという「人事に裏面を忘る可らず(四十八)」(⑥285)がある。
第2次世界大戦後に広められた帝国主義者・植民地主義者福沢諭吉というイメージとは裏腹に、署名著作における植(殖)民の使用は1879年までにわずか3例で、しかもいずれも欧州での事態の説明においてである。今日では帝国主義とは離れてごく一般に使われている移民の用例さえ署名著作には1つもない。また、日本人の海外移住について触れているのは『実業論』と『福翁百話』の各1例で、しかも福沢本人がとくに移住を奨励しているという書き方にはなっていない。
徳富蘇峰など福沢の論敵ともいうべき人々は、急速な人口増加に危機感を強めて、勢力圏としての日本の拡大を主張していたのだが、福沢は日本の領域としての拡大には無関心で、どうしても出て行きたい人はどうぞというスタンスだったのである。
もちろんホスト国に迷惑をかけるわけにはいかないので、現地女性の安全のために娼妓の渡航も認めるべきだ、という提案をしているわけだが、そればかりでなく、福沢には日本人の海外移住に関して、一定の目算があったように思われる。それがウェイクフィールドの組織的植民論で、それに基づいた移民論が社説のうちには存在するのである。ウェイクフィールドについては後に語ることにして、先ず福沢健全期『時事新報』社説における移民論全般について概説したい。
3.福沢健全期『時事新報』中の移民論関連社説
前節で触れたように、福沢の署名著作で日本人の海外移住について言及しているのは、『実業論』(1893)と『福翁百話』(1896)の各1例と、ごくわずかにとどまっている。
『時事新報』社説全般に視野を広げてもその傾向は変わらず、題名に移住・移民・植民・殖民・帰化・移植を含む社説は31編36日分、福沢健全期全5338号(おおよそ日分に相当(注5))の0.7%弱にすぎない。以下にその一覧を掲げる。
福沢健全期移民論関連社説一覧
掲載日 | 題 名 | 全 |
---|---|---|
18821204 | 日本人布哇国移住(五日まで計二回) | × |
18840412 | 移住論の弁 | 昭 |
18850423 | 政治上の移住民(二四日まで計二回) | × |
18860609 | 日本人の海外移住 | × |
18860610 | 日本人の米国に帰化の事 | × |
18870111 | 内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何 | 昭 |
18870228 | 我士民に海外移住を勧告す | × |
18870301 | 海外移住に適する者甚だ多し | × |
18870311 | 移住の気風 | × |
18870413 | 移住は我国に利益ありて弊害なし | × |
18870531 | 移住論(六月二日まで計三回) | × |
18890904 | 北海道移住 | × |
18891119 | 十津川郷士民の移住 | × |
18910417 | 移住保護 | × |
18910527 | 移住日本人の評判(三〇日計二回) | × |
18920311 | 植民省の設置を望む | × |
18930329 | 宗数的殖民に就き | × |
18950502 | 台湾殖民会社を設立す可し | × |
18950503 | 新領地の移住を自由ならしむ可し | × |
18960104 | 人民の移植 | 昭 |
18960105 | 植民地の経略は無用なり | × |
18960107 | 日本人は移植に適するや否や | 昭 |
18960117 | 移民と宗教 | 昭 |
18960118 | 人民の移住と娼婦の出稼 | 昭 |
18960125 | 移民と航海 | 昭 |
18960126 | 移民の保護 | 昭 |
18960305 | 中央亜米利加の移住 | × |
18970411 | 布哇移住民拒絶事件 | × |
18970415 | 移住民拒絶は無法なり | × |
18970425 | 移住殖民 | × |
18980515 | 朝鮮移民に付き僧侶の奮発を望む | 昭 |
全体が31編であるばかりか、現行版『全集』に収録されている社説は9編で、しかもそのうち6編は1896年の、残る1編は1898年の掲載となっている。福沢が新聞社説に強く関与していたのは、中上川彦次郎主筆が退社した1887年3月から1892年頃までだが、なぜかその期間の社説の収録はなく、かえって1896年以降のものが多く採録されている。
全集収録済9編のうち現在広く知られているのは「人民の移住と娼婦の出稼」(18960118)(注6)であるが、本編は先に触れた『福翁百話』「人事に裏面を忘る可らず(四十八)」の社説版ともいうべきものである。ただ、『福翁百話』は全部が福沢の直筆であるのに対し、この社説は論者の判定では石河幹明の執筆である。内容は日本人が海外移住する際には性風俗の女性の渡航も認めるべきだ、というもので、その理由はホスト国(地域)の女性に迷惑をかけないようにするため、とされている。
それまで『全集』以外のいかなる評論集にも収められていなかったこの「人民の移住と娼婦の出稼」が有名になったのは1990年代初頭のことで、いわゆる(従軍)慰安婦問題とのからみで、福沢は慰安所の制度を先取りしていた、というかなり無理筋な批判であった。「脱亜論」(18850316)と同様、福沢を批判するために探し出された社説で、そのフレームアップがどのようになされたかについて、論者はすでに別のところで論じている。(注7)
31編36日分を主に執筆者推定の観点から見渡すなら、創刊から日清戦争終結までの移民論に大きな主張の変化は見られない。人口拡大にいくらかの懸念を示しつつ、対応策としてまずは北海道移住を奨励し、ついでホスト国に迷惑がかからないような範囲での海外移住についても賛意を示している。
創刊10年までの社説には福沢の意向が強く反映されているというのが論者の見解であるが、語彙・文体判定の立場からは、日清戦争までの移住論社説に、福沢自身が全部執筆したものは、書簡体の「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)以外はないように見受けられる。それ以外の「日本人の海外移住」(18860609)から「移住論」(18870531)までの7編は、この時期以降慶應義塾生とともに米西岸への移住に関する調査を試みた井上角五郎の起案であるようだ。
創刊10年を経過した後の「宗数的殖民に就き」(18930329)・「台湾殖民会社を設立す可し」(18950502)・「新領地の移住を自由ならしむ可し」(18950503)の非収録3編は、同時期の署名著作である『実業論』(1893)と『福翁百話』(1896)での見解と矛盾するわけではないものの、直接の関連性もないため、誰の考えであるのかは判然としない。
創刊以来13年間、海外への移民については入植者は現地に同化するべきという主張がなされてきたのに、「人民の移植」(18960104)において突如としてその立場が捨てられ、入植地においても日本の言語や文化を維持するべきだという立場に変更されている。同編を含む以後の全集収録済7編は石河の執筆と推定できるのだが、いずれもその立場である。
ところが非収録もあわせて調べると、他とは異なる立場の社説が掲載されていることが分かる。それが「植民地の経略は無用なり」(18960105)で、その詳しい内容は第5節で紹介するとして、ここで簡略に言うならば、自国の勢力圏拡大のために入植者にもとの文化の維持を強いるなどばかげたことで、どんどん同化をすすめるべきだ、植民地の維持のために軍事力を配置するのも経費の無駄で、本国との良好な関係を維持しながら事実上の独立を認め、後はもっぱら経済的な利益を図る必要がある、というのである。論者はこの社説は福沢の手になるものと推測する。
1896年1月には移民奨励キャンペーンが張られていて、この「植民地の経略は無用なり」以外の6編は「人民の移植」と同じ日本民族の海外拡大を主眼とする論調となっていて、それゆえ「植民地の経略は無用なり」の特異性が際立っているわけである。同年3月以降なお5編の関係社説があるが、非掲載の4編は移民に関する一般的報道、昭和版全集収録の「朝鮮移民に付き僧侶の奮発を望む」(18980515)は移民団の指導者としては僧侶がふさわしいという社説で、1896年1月の全集収録社説と同一歩調をなす内容のものである。
以上が主として執筆者の観点からの福沢健全期移民論関連社説一覧を解説したものだが、論調の変遷についての概観は第6節で行うことにする。
4.ウェイクフィールドの組織的植民論
ここで、英国の経済学者エドワード・ギボン・ウェイクフィールドの組織的植民論について説明したい。というのは、第2節でも述べたように『民情一新』(1879)にウェイクフィールドの著作『植民方法論』(1849)が引用されていて、福沢が確実に同書を読んでいること、また、福沢書簡とおぼしき「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)と、1896年1月掲載分の移民論社説のうち唯一全集に採録されていない「植民地の経略は無用なり」(18960106)が、おおむね同書の影響下にあることによっている。
福沢研究史においてJ.S.ミルの思想との影響関係についてはしばしば論じられているが、11歳年長の経済学者としてミルも重要視していたウェイクフィールドについては触れられたことがなかった。1796年3月20日にロンドンで生まれた彼は、著名な測量士兼土地代理人であるエドワード・ウェイクフィールドの長男だった。ロンドンのウェストミンスター校とエジンバラで教育を受けた。1827年に少女誘拐事件に関与したかどで裁判にかけられ、弟のウィリアムと共にニューゲート監獄で3年の刑を宣告された。刑務所にいる間にオーストラリア流刑地の情報を得たのであろう、植民地問題について関心を向けるようになった。
出獄後の1831年に刑罰制度の研究のため罪人植民地としてのオーストラリアに渡航し、後には南オーストラリアの植民地化を促進するためのさまざまな計画に関与するようになった。彼は、英国の社会問題の多くは人口過多が原因であると信じており、植民地への移住は有用な安全弁であると考えた。そこで彼は、労働者・職人・資本を組み合わせることによって組織的に植民地化を推進しようとしたのである。この計画の肝ともいうべき発想
は、貧困層出身の移民の生活を安定させるためにまずは資本家へ土地を売却し、資本家は入植者を賃金労働者として雇用して開拓事業を進めることで彼らの没落を防ぎつつ、資本家・入植者双方の利益を模索しようとするところにあった。その方法はといえば、まず英国の貧困層を救済・防止するために貧しい若いカップルを植民地に大量に移住させる。それにより本国の「過剰人口」は解消されるが、それには移住する貧困層が、植民地では裕福な労働者になる展望がなければならない。そしてそのためには、これまでのように、未開拓地を所有する国家が、野放図に入植者に土地を下付し、かれらを分散させてしまうのではなく、国家が未開拓地に例外なく一定の価格を設定して、人口の集中を確保し、とくに入植者の土地取得を制限して、かれらに雇用労働を余儀なくさせる必要がある。そうすれば、分業に必要な雇用労働は確保され、植民地の蓄積と発展が保障される。このように、未開拓地の売却代金をもっぱら若いカップルの渡航費用化することによって、また、入植の拡大による植民地の発展そのものを基盤として、植民は、本国に負担をかけないどころか、「植民を植民によって支払う」ことを可能にするのである。
この組織的植民の仕組みが詳しく説明されている『植民方法論』が出版されたのは1849年のことであるが、それより前の1830年代にはすでにこのウェイクフィールド・システムは英国の植民政策の基本になっていた。ウェイクフィールド本人はオーストラリアの開発に携わったのちカナダとニュージーランドでも活動して1844年には帰国し、その後1862年5月16日に66歳で死去した。ちょうどその時27歳の福沢諭吉も幕府の遣欧使節団の一員としてロンドンにいたのである。
ウェイクフィールドの死は大々的に報じられたので、ロンドン滞在中の福沢の耳にも届いたであろう。福沢にとって本国の財政に負担をかけずに入植を進めることを可能にするウェイクフィールド・システムの理解は容易だったはずだ。なぜならそれに似た開墾の方式は、すでに日本国内で実施されていたからである。すなわち、町人請負新田の開発というのがそれである。
人口過多による貧困層の増大に悩んでいたのは英国ばかりでなく日本についても同じことで、その解消法の一つが新田の開発であった。余剰となっている人々が未開拓地の開墾を行うことで、開発後は晴れて新たに作られた田地を耕すことができる自作農となるというのがその骨子であるが、問題なのは開墾から収穫が軌道に乗るまでの期間の生活費をいかにして工面するかということにあった。
17世紀後半までは主流だった代官見立新田(注8)の開発の場合は、その地域の公共事業として実施されたため開墾労働者への賃金については管轄する藩や幕府が支払っていたのだが、それには必然的に増税が伴なっていた。直接自分たちの土地が広がるわけでもないのに税負担のみ重くなることに、開発によって救われる人々以外の納税者は不満を抱きがちだったのである。(注9)
そこで17世紀末の元禄期に考案されたのが町人請負新田という開発方法で、この方式では金主はその土地とは無関係な資本であった。資本家は新田開発のために開墾のための労働者を募り、開発までの間の賃金を保証する一方、入植後には開墾費用の回収と利益のため藩や幕府に収める年貢以外に一定の間開発費と利益分に相当する地代の支払いを求めた。その期間がすぎれば入植者は自作農となるというのが当初のありかただったが、後には恒常的に小作料を収める小作農となることもあった。
町人請負新田の開発方法は江戸時代後期には周知のことになっていたため、『植民方法論』を読んだ福沢も、ウェイクフィールド・システムを理解するのは容易だったと推測できるのである。
5.移民論関連全集非収録社説の紹介
さて、移民論社説31編36日分を通読すると、その後の論調を律する基準社説とも呼ぶべき社説が2編あることが分かる。貧困層の海外移住を奨励し、かつ現地での同化を促している「移住論の弁」(18840412)と海外移住地を日本民族の橋頭保とするべきだという「人民の移植」(18960104)がそれであるが、いずれも全集に収録されているのでここでは触れない。全集収録分を含む全体の論調の変遷については第6節で扱うことにする。
論者の見るところ、全集非収録分でとくに重要と思われる移民論社説は、「日本人の海外移住」(18860609)と「植民地の経略は無用なり」(18960105)の2編である。いずれも容易に読むことができない社説であるので、全文を掲載する。
初めに紹介する「日本人の海外移住」(約2100字)は米国内でにわかに高まった日本人排斥の動きに対する反論である。
「日本人の海外移住」(18860609)日本人は外國に遊ぶことを好まず否外國に遊ぶことを好まずと云はんより外國に遊ぶこと を知らずと云ふ方寧ろ事實を寫すに適當の語ならん。古來絶海の孤島に閉居して世界を知らず、輓近二百五十年の無事太平全國の人心は封建専制の積弊の下に萎縮して郷關の外に馳するの餘裕なく、一山一水の小天地に跼蹐して籠鳥の生涯を以て自から樂しむの外に工風なかりしなり。然るに明治維新の一擧國民始めて心身の自由を逞しうするを得て、天地の廣きこと復た昔日の一山一水にあらず。日本全島到る處として皆我居ならざるはなきのみならず、日本島外世界何れの地を問はず處として往くべからざるはなく、處として住すべからざるはなし。籠鳥籠を出で池魚海を見るの愉快も、明治の日本國民が濶天地を得たるの喜びには敢て増すことなかるべし。左れば日本國民も此機會を空しうせず近年漸く遠遊の志を起し、他國に移住の企を爲すものも少なからず。近くは米國サンフランシスコ地方の如き、今より三年前まで居留の日本人は僅かに百餘名なりしものが、三年後の今日に於ては既に六百名に達したりといへり。亦以て人心の一斑を窺ふに足るべし。其他布哇島の移住民の如き、東洋各港の出稼ぎ男女の如き近來日本人が外國に移住する人数は、一年既に千を以て數ふるに足るの勢を成したりといへども、此際我輩の尚ほ甚だ不滿意なるは、日本國民が二十年の久しき未だ封建の餘習を脱する能はずして蟄居主義を固守し、偶ま開明有爲の志を抱いて四方に徃來せんとする者あるも、其人數を聞けば一年僅かに千を以て數ふるに過ぎずといふは、日本國民の爲めに謀て唯落膽するの外なき有樣なり、と云はざるを得ず。獨逸の如き又英國の如き、其人口の多寡を聞けば孰れも四千萬内外にして、日本の人口に伯仲するものなるに、此両國より米國濠洲等に移住する者は年々各廿餘萬人なりと云ふ。日本人の現状を以てこれを英獨両國人に比すれば、冒險企業移住外遊の念の乏しきこと両國の百分一にも及ばずと云はざるを得ず。世界を横行するものは世界の富を掌握し、一郷に蟄居する者は一郷の富をも守る能はざる今の日進の時勢に當り、他人の百分一にも及ばざる小智勇を養ひ、頼て以て永く他人と比肩對峙の榮を全うし得べし、と信ずるが如きは愚の甚だしきものと云ふべきなり。
我輩は常に日本人の外遊の志なきを歎じて措かざる折柄、何の過慮間違に出でたるにや、近來米國にては就中太平洋岸の地方にては、日本人の外遊する者の漸く増加したるを見て、俄かに恐怖の念を生じ、今に及んで早く日本人の米國に侵入するを防止せずんば米國の富は悉く日本人の爲めに攫み去らるゝに至るべし、とてサンフランシスコの新聞紙等には往々これに論及するものあり。而して最も米國人の注意を促がしたるは、両三年以來三千人の日本農夫が布哇島の甘蔗畑に出稼ぎしたるの一事に在るが如し。盖し米國人が日本人を恐るゝは、先づ日本人の性質を審かにし果して其恐るゝに足るべきものあるを見てこれを恐るゝにはあらず。唯從來太平洋岸の地方に移住し居る十萬の支那人が廉價の勞力を以て白色の米國人と勞働市塲に競爭し、着々勝利を占めて跋扈至らざる所なきを見て、米國人は遺憾に堪えず、如何にもして支那人等と米國の勞働市塲より放逐せん、と百方其工風を求めて工風を得ず、果ては腕力に訴へて理不盡の所業さへある折柄、偶ま東洋の一國民たる日本人が群を成して布哇島の甘庶畑に侵入したり、と聞き支那人と日本人との間には何等の相違あるものにや、其邊の詮索は後に廻はし又も一派の東洋人種が太平洋の半まで攻寄せ來りたるが早く門戸を鎖すべし、彼の支那人の例の如く初めに防禦の用意を怠りて大に後來に悔を遺すの愚を再びするなかれ、とて狼狽奔走するものに外ならざるが如し。羹に懲りて膾を吐き、夜乾しの浴衣を見て幽靈と爲す等、天下に其の例少なからざれば、今米國人等が支那人に懲りて日本人の影を怖るゝも、亦強ち無理と云べからずといへど、去りとは米國人にも不似合なる粗忽の振舞にして、米國と日本と海こそ隔つれ隣國同士往來の便も澤山なるに、一たび日本の事情を詮索するの勞を取らず、專ら自己の臆測を實事視して、風聲鶴唳に狼狽するとは扨扨笑止なる人々か、と云はざるを得ず。今度日本人の布哇島に移住したるは、内外國人の既に熟知する如く、全く日本布哇両國政府の周旋盡力に依りて漸く行はれたる事にして、決して農民自身等が興奮自働して此移住を企てたるものにはあらず。近年社會一般の大不景氣坐して衣食の道を得ざるよりして、甚だ好まざる事柄ながらも、唯政府の保護を杖柱と恃み、涙ながらに居村を去りて布哇とやらへ住む迄の事にして、聊かも頼母しき所あるにはあらず。若し此等三千の農民をして政府の諭告保護を待たず、自から志を立てゝ郷關を出で廣く利益を世界に求めんとしたる程の者ならんには、日本國民も少しは恃むに足るべく、我輩世の識者と共に平常日本國の維持を心配すること左まで大なるを要せざるならんかなれども、哀しいかな日本國民は未だ實際米國人等の膽を寒し、同朋憂國者等の任を輕くする程の智勇あるものにあらず。今後若し日本米國両政府の保護奨勵の厚きものあらばイザ知らず、唯永く日本國民の銘々自働するに任せ置く限りは、米國太平洋岸の地方に五千の日本人を見んとするは、今より尚ほ十年の月日を要するならんと考へらるゝなり。米國の杞憂者等も少しく其膽を大にして聊か枕を高うして可なり。(句読点平山)
以上が「日本人の海外移住」の全文である。福沢語彙が見当たらないため福沢の筆ではないのは確実で、文体からいって当時朝鮮から一時帰国していた井上角五郎の作と論者は推測する。井上は実際にも翌年カリフォルニア州へ日本移民の実地調査に赴いている。
サンフランシスコの新聞が危惧するきっかけとなった日本の農民3千人のハワイへの入植とは次節で触れる創刊初年の「日本人布哇国移住」(18821204)で主題とされたハワイ政府の募集に応じた人々のことで、本社説において、日本人は中国人とは違い嬉々として外国に移住するわけではない、という反論がなされている。その終結部には、「今後若し日本米國両政府の保護奨勵の厚きものあらばイザ知らず、唯永く日本國民の銘々自働するに任せ置く限りは、米國太平洋岸の地方に五千の日本人を見んとするは、今より尚ほ十年の月日を要するならんと考へらるゝなり」とあって、日本人の海外渡航意欲の低さをある意味嘆くものとなっている。
次に紹介する「植民地の経略は無用なり」(1500字)は移民論社説31編のうち、書簡文である「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)を除けば唯一福沢自身の筆によると思われる社説である。その考証は後にするとして、まずは本文を掲げる。
「植民地の経略は無用なり」(18960105)我輩が日本人種を海外の各地に移植して盛に繁殖を謀らんとの趣意は、一方には國内に人口過殖の患を避くると同時に、一方には日本國の勢力を世界に及ぼして大に益せんと欲するの目的に外ならず。或は單に植民云々と聞て其目的を解せず、日本は海外の土地を蠶食し、版圖擴張の野心を實にせんとするには非ずや、など疑ふものもあらんなれども、是れは甚だ迷惑なる次第にして、實際に無稽の邪推と云はざるを得ず。世界の有樣を見れば所謂弱肉強食の常にして、儼然たる獨立の國と雖も苟も自衞の法に欠くる所あれば他の呑噬を免れず。况んや世界の海洋に散布する嶋嶼に於てをや。恰も選取の姿にして力を以て之を収むるに爭ふものはある可らず。大陸嶋嶼の如何に拘はらず、日本人の移植に適當して然かも収めて所領と爲すに差支なき土地あらんには遠慮會釋は無用なれども、扨實際に他に邦土を略するは、無人の地を収ると異にして容易ならざるのみならず、好しや之を略したる處にていよいよ自國の所領として其實を全ふせんとするには、多數の官吏を置て政令を行ひ、海陸の固めを嚴にして内外に備ふる等その費用は容易ならず。經濟上割に合はざる談にして智者の事に非ざるなり。日清戰爭の結果として、臺灣の割讓は國防上の必要に出でたるものなれども、彼の遼東半嶋の如きは我に収めて經濟上の得失、果して如何ある可きや。支那政府の無力なる、正當に負擔す可き戰敗の報償を出すこと能はざるより、止むを得ず半嶋を割かしめたるまでのことにして、實際の始末は頗る難儀に相違なければ、外國の忠告に由て還附したるは寧ろ偶然の仕合なりしやも知る可らず。左れば日本人は决して土地の併呑を望むものに非ず。否な望まざるに非ざれども、實際に得失の償はざるを知りて、斯る非望を起さゞるものなり。今の世界に人間の移住は勝手次第、四海到る處行く可し留まる可し。日本人は此天賦の自由に依り他國に移住せんとする者にして、其土地の所屬如何は敢て問ふ所に非ず。自由の行はるゝ所は即ち吾々の安樂郷にして、自由に移住す可し。何ぞ必ずしも他の土地を略して自國の植民地たらしむるの必要あらんや。或は斯くの如くなれば只人民を外に出すのみにして、本國には毫も益する所なきに非ずや、など云はんなれども、日本人决して無慾ならず、大に人民を移して未開の土地を開き、其土地の殖産業を發達せしめ、本國との商賣貿易を盛にして以て大に益せんと欲するのみ。其目的甚だ明白なりと云ふ可し。曾て或る英人の説に、英國が加那陀濠洲もしくは其他の所領地を海外に有して、政治軍備等の爲めに錢を費し種々の手數を勞するは甚だ無益の沙汰なり、英國女皇陛下の領地内には太陽の沒することなし、など誇稱するは眞に空想の威張にして、本國の人民が殖産興業の爲めに終身營々額に汗して収めたる其収入を、恰も空威張の資に供して、實際に無用なる海外の所屬地を見繼ぐとは、愚の至り沙汰の限りと云はざるを得ず。北米合衆國獨立の際に、英國は飽までも其獨立を欲せずして之を戰ひたれども、若しも當時、本國の力強くして遂に壓伏したらんには、米國今日の發達は决して見る可らず。幸に獨立して自由の發達を致したればこそ、英米間の商賣貿易も甚だ繁昌して、現に大に益しつゝあるに非ずや。左れば加奈陀濠洲などの如きは颯々と獨立を許して發達を自由ならしめ、以て商賣貿易の利を謀るに如かず云々、の言ありしを記憶せり。現在の屬地を獨立せしむるは、英の國情に於て容易に許さゞる所ならんなれども、實際の利害より見れば適切の言と云はざるを得ず。日本は臺灣の一小嶋を除くの外、英國の如く海外に屬地を有せざるこそ幸なれ。今更ら他の土地を併呑して自から苦しまんよりは、寧ろ自國民を外に移して未開の地を開き、以て大に商賣貿易の繁昌を期す可きのみ。植民地經略の如きは事の利害に明なる吾々日本人の斷じて欲せざる所なり。(句読点平山)
見られるように「海外の土地を蠶食し版圖擴張の野心」をもつことは無意味だ、という「植民地の経略は無用なり」は、日清戦争前までの移民論の主張とは一致するが、第6節で紹介する「人民の移植」(18960104)以降の全集収録社説の意見とは異なっている。そこでこの社説が福沢筆である証拠は「蠶食」「遠慮會釋」「壓伏」「沙汰の限り」という4つの福沢語彙を指摘できることと、さらに間接的証拠として、社説全体が『植民方法論』を下敷きにしていると思われることによる。
『植民方法論』の影響について示すならば、社説終結部近くに「曾て或る英人の説に」に始まり「云々の言ありしを記憶せり」に終わる400字程度の要約部分があるが、この英人とはウェイクフィールドのことなのである。要約末尾に「記憶せり」とあるように、『民情一新』(1879)執筆時に読んだ『植民方法論』を手元に置いて引用したのではなく、全体の印象をまとめたものであるが、社説の「所領地を海外に有して政治軍備等の爲めに錢を費し種々の手數を勞するは甚だ無益の沙汰なり」に相当する部分が、『植民方法論』書簡17の’Its dependence is of no use to us; but it is an injury, since the ordinary defence of the colony as British territory is costly.’と正確に一致している。
また、「幸に獨立して自由の發達を致したればこそ、英米間の商賣貿易も甚だ繁昌して、現に大に益しつゝあるに非ずや。左れば加奈陀濠洲などの如きは颯々と獨立を許して發達を自由ならしめ、以て商賣貿易の利を謀るに如かず」に類似した部分としては、書簡14に、’The United States of America, which have been chiefly colonized by English blood, are the best customers that ever mother-country had.’とまず英米間の貿易に関して英国は大きな利益をあげていることが指摘され、さらにカナダについても’In the business, therefore, of creating customers by colonization, Great Britain, like the older States of the American Union, would create better customers than most other countries could.’と、アメリカの伝統ある州と同様に、よりよい顧客となすことができるはずだ、と述べている。要約とまったく一致しているとまではいえないが、類似の表現であることは間違いないであろう。
ウェイクフィールドが主眼とするところは、『植民方法論』とはいいながら、植民地の独立を高めて自活できるように促し、本国との貿易を盛んにすることによって相互の利益を図るということにあった。「植民地の経略は無用なり」はこのウェイクフィールドの方法こそが日本がとるべきあり方だと主張しているのである。
6.移民論関連社説の論調の変遷
これより論調の変遷について述べるが、こと移民論社説に関しては、論者の見るところ、入植者の現地への同化と入植地との交易の奨励が唱えられている前期13年間と、植民地拡大による日本の勢力圏の強化と入植者の日本文化堅持が重要視されている後期3年間に区分されるだけである。「人民の移植」(18960104)と「植民地の経略は無用なり」(18960105)がその境界にあたっているが、掲載日は前後するものの、「人民の移植」が後期最初の社説、「植民地の経略は無用なり」が前期最後の社説とみなしてよいと思う。
この区分によれば前期20編、後期11編となるが、全集掲載の有無については前期2編、後期7編と逆転する。後期は前期の4分の1以下の期間しかないのにその掲載率の差は不自然と感じられる。しかも1896年以降は福沢捨次郎の社長就任にともない石河幹明の発言力が強まったと考えられるので、さらに疑念が膨らんでくる。また、後期11編のうち6編の表題に移植または移民が使われているが、この両語彙は福沢署名著作内では1度も使われたことのない用語である。さらに移植・移民を含む6編すべてが全集に採録されているのであるが、それは果たして偶然なのであろうか。疑えばきりがないこととはいえ、まことに奇妙なこと、とまでは言えるであろう。
このようなことを指摘しつつ、移民論社説31編を順に紹介したい。
前期社説の紹介 「日本人布哇国移住」(18821204)は創刊2年以内に掲載された唯一の移民関連の社説である。それは当時は独立国だったハワイ王国の使節カペナ氏が日本人のハワイ移住を募るため来日中であることを発端に日本人の移住欲の有無を論じたもので、結局移住拡大には否定的な結論となっている。福沢語彙は見当たらないので、かつて外務官僚だった中上川主筆の執筆と推測する。
次の「移住論の弁」(18840412)は昭和版『続全集』(1933,34)収録社説である。語彙の点からは福沢作と断ずるには足らない。やはり中上川の執筆なのであろうか。内容は人口過大の対応策として海外の移住を進めるべきだが、その場合はホスト国と摩擦を起こさないように同化をむねとし、必要とあれば先方の国籍を得るのに躊躇してはならない、そのうえで貿易上の利益を求めるもべきだ、というものである。先にも書いたように本社説はその後12年間の移民論社説の基準になっている。1885年に掲載された唯一の移民に関する社説「政治上の移住民」(18850423)は、当時はまだ一般的ではなかった政治亡命についての解説記事である。
翌年の「日本人の海外移住」(18860609)は第5節で全文を紹介したが、内容については米国西部でにわかに高まった日本人排斥の動きへの反論が加わっているほかは「移住論の弁」とほとんど同じである。さらに翌日掲載の「日本人の米国に帰化の事」(18860610)は、移住日本人が米国に帰化できるかどうかを主題とした興味深い社説である。すなわち1872年に米国政府は帰化に関する法令を制定して、白人とアフリカ人以外は帰化できないと定めたが、これは中国人の帰化を阻止するためだった。1876年に改めて中国人は帰化できないと明言した拒絶条例を定めて1872年の法令の意図を明確化して現在(1886年)に至っている。ここで問題となるのが、日本人は米国に帰化できるかどうかで、黒人の帰化は認めているのだから肌の色で差別しているのではなく、あくまで中国人の排除が目的であるのははっきりしている。問題は米国で日本人が中国人と同一視されているところにあって、今後はその誤解を解くべく運動をしなければならない、というのである。
1885年から95年までの10年間で唯一全集に収録されている「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)は、ある華族からの、国内に洋式中学校を設置するのと海外に拠点を設けてそこで人材育成を行うのとではどちらがよいか、という諮問に答えた書簡である。執筆者が福沢であるのは間違いないなく、その答えは米国に集団移住してそこで教育を受け、指導者としてそこに留まって活動するほうが長い目で見て利益が大きいとされている。この方法はウェイクフィールド・システムの応用形ともいうべきもので、本国の資本(旧藩主たる華族が用意する資金)を入植地の人材に投ずることで現地の発展を促し、本国入植地間の貿易を拡大させることで相互に経済的利益を得るという目論見が提示されている。
「我士民に海外移住を勧告す」(18870228)はビジネスチャンスは未だ開かれていない海外にある、と移住を薦める内容、翌日の「海外移住に適する者甚だ多し」(18870301)は、国民を3つの階層に分けて、そのうち経済力や知力に乏しい人々の海外移住を奨励すれば日本全体の国力が増大するという内容、その10日後掲載の「移住の気風」(18870311)は、古代ギリシャローマ時代までさかのぼる移民の歴史の概観、さらに1ヶ月後の「移住は我国に利益ありて弊害なし」(18870413)は、海外への大規模な移住は本国の経済的衰退を招くとするドイツのメツクレンボルグとロスチェルの見解への反論が試みられている。
「移住論」(18870531)は冒頭にもあるように「我士民に海外移住を勧告す」(18870228)をより詳しくリライトした3日連続の連載である。移住先に米国カリフォルニア州がとくに推されていて、井上角五郎による実地調査の結果をここで公表しているように見える。翌1888年には移民論社説はなく、さらにその翌年の「北海道移住」(18890904)と「十津川郷士民の移住」(18891119)の2編は国内での移住の現状に関する報道記事である。翌1890年にも移民論社説はなく、翌年の「移住保護」(18910417)は、国の経済のためまた治安のために移住を奨励する場合、有力な商人と貧しいが肉体労働に耐えられる人々と分別のある男性の3種類の人々を含めないと移住は成功しないことを指摘している。また「移住日本人の評判」(18910527)は、その時点での日本人移民の総数はさほどでもないのに海外での評判が芳しくないことを報じている。
「植民省の設置を望む」(18920311)で設置を提唱されている植民省とは、海外の植民地を管理運営するためではなく、海外移住の便宜を図るための部局のことである。冒頭に現任の外務大臣が移民に熱心である旨のことが書いてあるが、それは榎本武揚のことで、彼は小笠原諸島やペリュリュー島、さらにはメキシコへの余剰人口の移転を提唱していた。本社説の内容は、そうした政府内の動きに呼応して担当省の設置を求めるものである。北海道の開拓使が廃止されたのは1882年のことで、当時は国内外を問わず移住ための公的窓口はない状態で、その状態を憂えての提言であるように思われる。こうした要望を受けてのものか、日清戦争後の1896年3月に拓殖務省が設置されたが、わずか1年半後の翌9月には廃止されてしまった。
さて「植民省の設置を望む」掲載翌年の「宗数的殖民に就き」(18930329)は日蓮宗の僧侶が信者の団体を率いて北海道に入植したという報道記事、さらに日清戦争終結後の「台湾殖民会社を設立す可し」(18950502)と「新領地の移住を自由ならしむ可し」(18950503)は表題の通りの内容である。そうして前期最後の「植民地の経略は無用なり」(18960105)となるわけである。
後期社説の紹介 全集収録の「人民の移植」(18960104)に始まる後期は全体の雰囲気が一変している。すなわち、移民の目的は日本民族の目に見える勢力の拡大であるとされ、そのために移住者たちは日本の文化をそのまま入植地に移植して伝統を維持するべきだというのである。この1896年1月の移民奨励キャンペーンは、同時に進行していた台湾平定戦争と呼応していて、入植地としては台湾が想定されている。台湾関連の他の社説と併せて読むと、力づくで新領土台湾を日本化するべきだ、という真意が垣間見える。以後の「日本人は移植に適するや否や」(18960107)・「移民と宗教」(18960117)・「人民の移住と娼婦の出稼」(18960118)・「移民と航海」(18960125)・「移民の保護」(18960126)といった全集収録社説はすべてその秘められた目的に沿う内容になっている。論者の判定ではこれらの社説の執筆者は石河である。
全集非収録となっている「中央亜米利加の移住」(18960305)は榎本が熱心に取り組んでいた中央アメリカへの移民を奨励する社説、また、「布哇移住民拒絶事件」(18970411)・「移住民拒絶は無法なり」(18970415)・「移住殖民」(18970425)は、米国によるハワイ王国併合前夜にあって、日本人排斥がハワイにまで及んできたことを批判する社説である。また、全集収録の「朝鮮移民に付き僧侶の奮発を望む」(18980515)は、「宗数的殖民に就き」(18930329)で高く評価された僧侶を指導者とする移民団を朝鮮への移民についても応用するべきだという内容の社説である。
以上移民論社説を前期・後期に分けて概説したが、前期については、福沢筆と推測できる社説は「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)と「植民地の経略は無用なり」(18960105)の2編に留まるものの、全体としては移住先での現地融和と経済交流による貿易上の利益に注目した社説が多く、ウェイクフィールドの植民論に則っていると言ってよい。両編以外の執筆者は福沢ではないと考えられるが、その時期までは福沢の持論が社説記者たちに浸透していた証である。
一方後期の社説は、入植先として主に台湾が念頭に置かれ、進行中だった台湾平定戦争での苦戦ともあいまってか、内地日本人の大量移住と入植地における内地文化の温存と現地人への拡大が提言されつつ、経済的な視点は皆無となっている。このことは、論者が全集収録社説中最大の問題作と考える、武装蜂起民を皆殺しにするべきだと主張している「台湾の騒動」(18960108)とそれらの社説の発表時期がほぼ同じ、ということと無関係ではないであろう。
7.おわりに
最後に本論文で明らかになったことを項目化する。
- (1)福沢健全期の『時事新報』での移民論は31編36日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中の0.7%弱に相当する。移民論社説が6編掲載された1887年春と7編掲載された1896年1月を除いて、『時事新報』はこの問題に熱心であったとはいえない。1883,88,90,94の4年については1編の掲載もない。
- (2)移民論社説群は1896年1月を境に前期20編25日分と後期11編11日分に区分される。うち全集収録分は前期2編2日分、後期7編7日分である。
- (3)前期社説群での主張が、入植者の現地への同化と入植地との交易の奨励であるのに対し、後期社説群では、植民地拡大による日本の勢力圏の強化と、入植者の日本文化堅持が重要視されている。
- (4)移民論社説群のうち福沢本人の筆によるのは、論者の判定では、いずれも前期に属する全集収録の「内地に学校を設立すると外国に移住するを助ると其利不利如何」(18870111)と、全集非収録の「植民地の経略は無用なり」(18960105)の2編のみである。
- (5)前期20編については、福沢起筆とみなせない社説も内容の点から推定福沢の社説との齟齬は見出せない。入植者の現地への同化と本国との交易による利益の追求を旨としていて、福沢が参照していた英国の経済学者ウェイクフィールドの『植民方法論』(1849)の影響下にあったと考えられる。
- (6)後期11編は同時期に進行していた台湾平定戦争と緊密に関係していて、現地への日本文化の強制的移植を旨としている。うち全集に収録されている7編は石河幹明の執筆と推測できる。
- (7)石河は福沢が紙面に影響を与えていた1895年までの移民論社説を全集に2編しか収めていない。日清戦争後の社説が全集に採録されがちなのは、移民論ばかりでなく海軍論(注10)や陸軍論(注11)にも見られる傾向である。
以上。
【参考文献】
- ウェイクフィールド,エドワード,ギボン Edward Gibbon Wakefield (1849)『植民方法論』”A view of the art of colonization”グーグルブックス
- 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
- 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
- 平山洋(2012)『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』ミネルヴァ書房
- 平山洋(2017)『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』ミネルヴァ書房
- 平山洋(2021a)「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号、静岡県立大学
- 平山洋(2021b)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における陸軍論」『日本近代學研究』第72輯、韓國日本近代學会
- 福沢諭吉(1898)『福沢全集』時事新報社
- 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書
- 福沢諭吉(1933,1934)『続福沢全集』岩波書店
- 福沢諭吉(1958~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店
- 本山美彦(1971)「自由貿易論と植民地論1―コブデンとウェイクフィールド」『甲南経済学論集』第11巻第3号、甲南大学経済学会
- 本山美彦(1972a)「自由貿易論と植民地論2―ウェイクフィールドの貿易論⁻1⁻」『甲南経済学論集』第13巻第1号、甲南大学経済学会
- 本山美彦(1972b)「自由貿易論と植民地論3―ウェイクフィールドの貿易論⁻2⁻」『甲南経済学論集』第13巻第2号、甲南大学経済学会
脚注
- (1)
- 『時事新報』創刊の1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を発症した直後の1898年9月30日までの期間である。
- (2)
- 出版物の後の4桁数字は刊行年を示す。
- (3)
- ただしここで引用されているのは植民論に関する部分ではなく、庶民教育が拡大したため社会主義思想が広く知られるようになった、という庶民教育の負の側面について指摘している部分である。書簡集の体裁をとっている『植民方法論』の前から7分の1近辺にあたる書簡12の中にある。
- (4)
- 現行版『全集』第5巻20頁を示す。
- (5)
- 「時事新報」欄に掲載された社説が各日1編のみであるなら、社説総数と総日分は一致するはずだが、実際は同日2編以上掲載や社説非掲載の号もある。そのため両者は厳密には一致しない。
- (6)
- 社説題名後の8桁の数字は掲載日を示す。全集掲載の社説についても全集中の所在は表示しない。
- (7)
- 「福沢諭吉と慰安婦」『「福沢諭吉」とは誰か』(2017)所収。
- (8)
- 地域を管轄する代官が自ら開墾候補地を選定(見立)して藩や幕府に上申することにより実施される新田開発事業のこと。
- (9)
- 福沢家が18世紀初頭まで仕えていた中津小笠原家の改易となった遠因は、代官見立新田の方式による無理な新田開発にあった。藩内が開発派と開発反対派に分かれて葛藤してしまった結果、事実上の取り潰しとされたのである。(拙論「福沢諭吉先祖考」『「福沢諭吉」とは誰か』参照。)
- (10)
- 平山洋「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」(『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号、2021年3月刊、静岡県立大学)参照。
- (11)
- 平山洋「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における陸軍論」『日本近代學研究』第72輯、2021年6月刊、韓國日本近代學会)参照。