「『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』の逐条的註」 その6

last updated: 2015-03-12

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1 ・ 9「解説 福沢諭吉と朝鮮・中国・台湾」に関して

(12)327 頁 5 行目「一『時事新報』論説は誰の思想を表しているかー本書を福沢の論集とするゆえん(1)」

『時事新報』は一八八二年三月に、福沢によって創刊された。当初、伊藤博文・井上馨・大隈重信ら政府要人によって政府系新聞の発行を要請され、福沢はそれを引き受ける約束をした。だが、いわゆる「明治一四年の政変」(81 年)の混乱を経て、明治政府による新聞発行の計画が頓挫したため、福沢はその要請と無関係に自ら新聞発行を決意したのである。以来『時事新報』は、廃刊となる一九三六年まで、日本における有力な中央紙として五三年間発行され続けたが(福沢は一九〇一年に没)、「本紙発兌の趣旨」に、「その論説のごときは……特に福沢・小幡{篤次郎}両氏の立案を乞い、またその検閲を煩わすことなれば云々」(⑧ 7)とあるように、いかに『時事新報』のであれ、その論説(その中心は社説)は、多かれ少なかれ福沢の思想を表現していると考えられる。なるほど時事新報社には、福沢以外に常時(出入りはあるものの)、福沢の人選による二名ほどの社説記者がおり、実際、彼らが福沢の立案に基づき(あるいは場合によっては自らの発案の下に)社説を草したこともあったが、基本的に福沢がそれを「検閲」し修正してから、印刷にまわされたのである。つまり『時事新報』の社説は、たとえ社説記者によって草されたとしても、それを福沢が検閲・修正し、『時事新報』の顔として紙上での公表を許したかぎりにおいて、それは福沢の思想の表現であると言わなければならない。

上条の註

1 .「本紙発兌の趣旨」の執筆者は中上川彦次郎

「本紙発兌の趣旨」は、明治 14(1881)年の政変で外務省を逐われた福沢の甥中上川彦次郎主筆によって書かれた。そのため、時事新報の社説欄を担当している我輩とは別に、福沢氏が登場している。現在の新聞社説は主語を示さない書き方が主流であるが、当時は主筆が直接読者に呼びかける形式をとっていた。時事新報社説欄に掲載後単行本化された著作が、「福沢諭吉立案中上川彦次郎筆記」等という著者表記になっているのはそのせいである。

つまり、毎日の社説は主筆を初め社説記者が担当するが、どうにもネタに詰まったときには、「先生、社説の立案をお願いしますよ」との主筆からの依頼をうけて、「うむ、そんなに困っているなら、アイディアを提供してやろう」と福沢が受けたことにより発表された、という形をとったのである。というわけで、単行本化されていない時事新報社説は、そもそも福沢とは無関係というのが建て前で、これは、間に主筆をかませることで新聞紙条例讒謗律といった言論統制法規から福沢の身を守るためでもあった。

2 .杉田による引用とその解釈は不適切である

もちろん実際には、単行本化されていない単発のものも、多くは福沢が書くか、社説記者に起筆を命じて書かせている。ただその場合も、中上川主筆の頭越しというわけでなく、あくまで紙面の統裁は主筆の役割のうえ、福沢とは別に中上川も自身による社説を多数書いているのである。ところが、上条での杉田の解説では、あたかも時事新報の社説すべてが福沢の思想の表現であるかのように受け取られてしまう。その理由は、例によって不適切な引用に起因している。「本紙発兌の趣旨」引用部で……や云々を補うなら、そこにはこう書かれていたのである。

その論説のごときは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢・小幡{篤次郎}両氏の立案を乞い、またその検閲を煩わすことなれば、大方の君子もこの新聞を見て、果して我輩の持論如何を明知して、時としては高評を賜わることもあらん。(⑧ 7)

「社員の筆硯に乏しからずと雖ども」はわずか 15 文字なのに、杉田が……で省略した理由は明らかだ。これを含めてしまうと、論説の多くが社員(記者)の執筆であることがはっきりしてしまうからである。「特に」は、通常ではない特別な場合には、の意味で、福沢立案の社説は特別で、その検閲は福沢が行う、と書いてあるのである。杉田は、引用中の「検閲」は冒頭の「その論説のごときは」にかかっているように読んでいるが、実際には直前の「立案」にかかっている(日本語の文の構造からいって、そうでなければおかしい)。

かくして、不適切な引用によって導かれる結論、「『時事新報』の社説は、たとえ社説記者によって草されたとしても、それを福沢が検閲・修正し、『時事新報』の顔として紙上での公表を許したかぎりにおいて、それは福沢の思想の表現であると言わなければならない」もまた不適切である。福沢は時事新報の持ち主(社主)ではあったが、発行人でも主筆でも論説主幹でもなかった。論説掲載の最終判断は主筆が行うとされていた。それゆえ時事新報に掲載後「福沢諭吉立案」として公刊された単行本だけが、本来は福沢の思想の表現と見なされるべきなのである。

(13)329 頁 2 行目「一『時事新報』論説は誰の思想を表しているかー本書を福沢の論集とするゆえん(2)」

ところで、われわれが福沢の思想を見きわめ同定する際、たしかに『時事新報』社説をどう扱うかには独特の困難がある。だが少なくとも、総じて新聞を、しかも自らが論説主幹となった新聞を主たる活動の場とした言論人の思想人の思想を論じる場合、他人の手が一切加わらない「真筆」以外をすべて無視できると考えるとしたら、それは思想史研究の逸脱である。『時事新報』の論説を極力排除した福沢像はありえないが、しかし後述する平山洋はそれに近い試みを平然とやってのけている(平山②)。だが、社説は個人の名を記して公表する論説とは異なるとはいえ、この多くを「真筆」と区別して捨て去るのは、思想史の方法として完全な誤りである。「真筆」かそうでないか(これは偽作のことではない)に強くこだわれば、思想史はなりたたない。「真筆」だけが思想家の思想だと言うなら、イエスもソクラテスも、孔子も親鸞(少なくとも悪人正機説について)も、存在しないことになるだろう。いや、「明治」以降の場合でさえ、新聞を主たる舞台とした豊富な思想の多くが、消えてなくなることになる。

上条の註

『時事大勢論』から『実業論』までの 13 冊は、初出は無署名社説だった

それにしても、「『時事新報』の論説を極力排除した福沢像はありえないが、しかし後述する平山洋はそれに近い試みを平然とやってのけている(平山②)」などという文を読むと、「いったい誰のことですか?」と聞き返したくなる。平山②とは、拙著『福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』のことで、杉田は、私がそこで時事新報論説を軽視した、と言いたいらしいのである。

新聞創刊後福沢署名入りで刊行された『時事大勢論』(1882 年 4 月刊)から『実業論』(1893 年 5 月刊)までの 18 タイトル 13 冊は、元はといえば社説欄に無署名で発表された時事新報論説である。それらの社説については、拙著第 12 章「老余の半生」の第 1 節から第 3 節までのほぼすべて(約 25 頁)を費やして記述している。決して少ないページ数ではない。

となると杉田は、「『時事新報』の論説」というときに、現行版全集全 21 巻のうち第 8 巻から第 16 巻まで 9 巻を占める「時事新報論集」所収社説のことを言っていることになる。しかしそこに含まれている社説等は、福沢が自ら編纂した明治版『福沢全集』に収録されなかった残余の論説で、演説筆記を除いてほとんどが無署名なのである。それらの社説漫言等を 1925 年(大正版全集)から 1934 年(昭和版続全集)にかけて選択したのは石河幹明とはっきりしており、後にも触れることになるが、その多くを実際に執筆したのも石河本人である。

杉田は、例え石河が起筆したにせよ、福沢の立案ならば福沢の思想である、と言うが、福沢立案とされる著作は、すでに存命中に刊行されていて、残余の社説類が誰の立案執筆なのかは明らかではない。刊行されなかった社説類については、草稿が発見されている社説(福沢執筆社説・カテゴリーⅠ)と、福沢が立案して弟子が起筆した(カテゴリーⅡ)と証明できる社説以外は含めるべきではない、という私の主張はごく当然のことである。

上条の後半、「だが、…」以降の文は、何度読み返しても変なことが書いてある、としか受け取れない。杉田は、聖書研究や、プラトン研究や、親鸞研究の動向を知らないのであろうか。どの分野についても、研究者は、どれがイエスの、ソクラテスの、親鸞の真の言葉なのか、を必死に探り当てようとしているのだが。

(14)332 頁 18 行目「『時事新報』論説は福沢の思想である」

だが、これ(『時事新報』論説が福沢の思想であること・平山註)を全く認めまいとする論者もいる。井田(進也・平山註)の方法と問題提起を下にさらに議論を発展させた(はっきり言ってゆがめた)平山洋がそうである。平山は、非常に安易に井田に依拠する(時に自ら安易に粗雑な判定を行って大きな失敗を犯す)のみか、憶測の上に憶測を積み重ねることによって、『時事新報』の社説は、ある時期から、福沢の意思と無関係にほとんど石河幹明(98 年 9 月、福沢が脳卒中で倒れて以来、『時事新報』の論説主幹となり、後に『福沢全集』(大正版)、『続福沢全集』(昭和版)、そして大部の『福沢諭吉伝』を書いた社説記者)によって書かれたと主張する。石河は、一八八五年に時事新報社に入社し、八七年頃から福沢の指導の下に社説の執筆に携わるようになったという(石河② 737)。当初、福沢が期待するような文章はあまり書けなかったようだが(88 年 8 月 27 日付書簡⑱ 247)、だがその石河が九〇年代には、つまり社説執筆訓練を開始してから数年後以降は、福沢さえほとんど何も言えないほどに時事新報を支配し、侵略主義的で民族的偏見に満ちた社説を『時事新報』に書きつらね(あまつさえ石河は後に福沢全集を編集する際、これらの社説をそこに滑り込ませたのだという!)、一方福沢は惨めにも、時に自ら執筆する社説で石河の説・論調の姿勢を軽くいなす程度のことはできなかった(!)、というのである(① 179 ~ 183)。

世にいかがわしい所説は多々あるが、検証不能な仮説を憶測によってここまで書きつらねた「学者」はめずらしい。要するに平山は、井田の方法を過大評価しつつ、一方まともな検証もないまま、福沢全集に見られる侵略主義的・民族差別的な社説の全責任を石河におしつけて、福沢が自らの思想の表現として公表した、もしくは自らの思想の表現とみなされることを承知で公表を許した社説の多くを、福沢の思想と無関係であると見なすのである。

上条の註

1 .時事新報社説の多くは自分が書いたと石河本人が証言している

憶測も何も、現行版全集の「時事新報論集」所収社説の多くを石河が書いた、というのは、石河本人の証言に基づいている。現行版「時事新報論集」は、大正版「時事論集」224 編と昭和版「時事論集」1246 編を合わせ、さらに戦後発見の真筆社説を増補したものである。現行版「時事新報論集」昭和版は石河の手になるもので、その「時事論集」への社説採録を終えた後、「附記」で次のように述べている。

次記の一篇は明治四十四年彼の大逆事件のあったとき、編者が起草して「時事新報」に掲げた社説である。私は明治十八年時事新報に入り暫くの間は外国電報の翻訳等に従事していたが、同二十年頃から先生の指導の下に専ら社説を草することになった。当時「時事新報」の社説は先生が自ら筆を執られ、或は時々記者に口授して起草せしめらるることもあったが、其草稿は一々厳密なる修正添削を施された上、紙上に掲載せしめられた。固より社説記者は私一人のみではなかったが、私が筆に慣るるに従って起稿を命ぜらるることが多くなり、二十四五年頃からは自から草せらる重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といってもよいほどであった。勿論其間にも私自身の草案に成ったものも少なくなかったが、先生は病後も私に筆記せしめられたものがある。即ち本篇中の「先生病後篇」と題する七十余篇がそれである。三十一年九月先生の大患以来大正十一年時事新報社を辞するまで約二十何年間は私が専ら社説を担任していたので、前後三十何年間に私の執筆した社説の数は何千を以て数うるほどであったろう。其数は随分多かったけれども不文短才ただ日々の責を塞ぐために匇々執筆したもので、別に出色の文字もなく今更ら赤面に堪えざる次第であるが、其中に h は兎に角に「時事新報」の社説として多少読者の注意を惹いたものもないではない。今「続福澤全集」の「時事論集」を編纂するに当り、当時の新聞を手にして自から懐旧の念に堪えざるの余り、僭越ながら左の一篇を茲に附記したるは、聊か驥尾に附するの痴情として偏に読者の諒恕を乞うところである。 (『続福沢全集』第 5 巻 737 頁「附記」全文、1934 年 4 月・岩波書店刊)

この「附記」中の「固より社説記者は私一人のみではなかったが、私が筆に慣るるに従って起稿を命ぜらるることが多くなり、二十四五年頃からは自から草せらる重要なる説の外は主として私に起稿を命ぜられ、其晩年に及んでは殆ど全く私の起稿といってもよいほどであった」というのは、現に昭和版に収められている社説について言っている。要するに、1891、2 年以降の「時事論集」社説は、「重要なる説」のみ福沢執筆のカテゴリーⅠ社説であるが、その他の多くは福沢立案石河執筆のカテゴリーⅡ社説だ、と明言しているわけである。この点については私が「憶測の上に憶測を積み重ね」て いるわけでないのは杉田も認めることであろう。

2 .石河が時事新報社内で勢力を強めていった過程ー『福沢諭吉の真実』より

問題は、「その石河が九〇年代には、つまり社説執筆訓練を開始してから数年後以降は、福沢さえほとんど何も言えないほどに時事新報を支配し、侵略主義的で民族的偏見に満ちた社説を『時事新報』に書きつらね(あまつさえ石河は後に福沢全集を編集する際、これらの社説をそこに滑り込ませたのだという!)、一方福沢は惨めにも、時に自ら執筆する社説で石河の説・論調の姿勢を軽くいなす程度のことはできなかった(!)、というのである(① 179 ~ 183)」とある部分である。『福沢諭吉の真実』の 176 頁から 179 頁まではすでに引いているので、それに続く問題の 179 頁から 183 頁までを以下に引用する。

なぜ福沢は石河の民族偏見論説の掲載を差し止められなかったのか

とはいえなおも疑問は残る。それは、石河の民族偏見論説の紙上への掲載を福沢はなぜ止められなかったのか、ということである。このことについて明快な答えを提示することは難しい。

本書第一章からも分かるように、『時事新報』の歴史は同社内における石河幹明の勢力増大の歴史と言い換えてもよい。『福沢諭吉伝』の中で石河は自らを福沢の忠実な弟子、言論界における福沢の分身として描いているが、それは全くの嘘である。真実の福沢は当初から石河の筆力と思想に不満をもっていたし、一八八八年一〇月のクーデタ騒動では、「役にも立たゝぬ少年は一切不要」(中上川宛書簡、八八・一〇・二二)と石河の排除を本気で考えた程であった。

石河が福沢存命中の時事新報社内で主筆並の待遇を受け続けていたのは、対立が表面化する度に石河が福沢に恭順の態度をとったからにほかならない。福沢が本心からは石河を好いていなかったことは、最後まで石河に正式な主筆の地位を与えようとしなかったことからも伺われる。福沢が脳卒中の発作に倒れて後石河を主筆としたのは、既に社長となっていた福沢の次男捨次郎であって、諭吉本人ではない。

あくまで私の推測だが、福沢自身が『時事新報』の後継者として主筆の地位に就けたかったのは後から入社した北川礼弼だったのではなかろうか。もちろんそのことを証明する手だてはない。北川に関する情報があまりに少ないからである。まずその理由について考えてみる。

現在知られている福沢から北川に宛てた書簡は、メモ程度のものが二通あるだけである。その一通目は、先に取り上げた社説草稿に添付されたもので、「行文平易にして意を達す。一字を替へず其まゝ御返し申し候」(一八九七?・一一・五)と、北川の文章を満点と評価している。この書簡ははるか後の一九七〇年代になって発見され、『福沢諭吉年鑑』第一号(七四・八)で初めて紹介された。もう一通は石河幹明との連名のもので、一八九八年三月に日本鉄道(現在の東北本線・高崎線、当時は私鉄)で発生した争議について、社説ではストライキに同調しないよう注意を促したものである。こちらはすでに昭和版『続全集』に収められている。つまり従来の全集には福沢が北川を賞賛した書簡は未収録で、反争議の社説の両人への執筆依頼は収蔵されている、ということである。

もちろんこの二通からだけではほとんど何も言うことはできない。ただ、私が危惧するのは、昭和版の「時事論集」だけではなく、「書簡集」にさえも、収録にあたり恣意性があったのではないか、ということである。そういえば昭和版の「緒言」には、「世上に散在してゐる書簡の中には或は幾分漏れてゐるものがあるかも知れぬ」(①四頁)と念押しがされてあった。これは、「福沢先生伝記編纂所」に寄せられながら『続全集』に未収録となった書簡があり、それらが後に発見されることを見越した発言なのではないか。

このような次第で福沢の忠実な第一の弟子という石河のイメージを補強する資料しか残されなかったとすると、そこから真実をあぶり出すのは容易なことではない。とはいえ、時事新報社における石河の増長を、状況証拠によってある程度推測することは可能である。私の考えでは、石河の勢力拡大は次の三つの段階を経てなされた。

まず第一段階は、福沢が日々の社説の事前検閲を止めた時期である。すでに書いたことだが、私はそれを概ね一八九二年の春と推測している。大正版「時事論集」において石河執筆と明言されている最初の論説は「朝鮮談判の落着、大石公使の挙動」(九三・五・二三)である。また、安川著作の資料篇によれば、八五年以降途絶えていた社説の蔑視表現が再開されるのは石河筆の「朝鮮の近情」(九三・六・四)においてであったという。このことから、九三年春には論説執筆にあたっての石河の自由度は相当に高くなっていた、と推定できる。

続いて第二段階は、九六年夏の福沢捨次郎社長就任に伴う伊藤欽亮の退任に始まる。伊藤は八七年夏に総編集に就任して以来、とりわけ日清戦争報道に関して時事新報社に大きく寄与していた。にもかかわらず新聞記者として会社に何の貢献もなかった福沢の次男捨次郎が社長となったのであった。新聞社の人事の常として一波乱あっても不思議はない。ところが事態は表面上何事もないかのように推移し、同年末までに伊藤は会社を去ることで決着がついたのであった。その結果として石河は名実共に社員として最高の待遇を得ることになったのである。

この状況を福沢の立場になって考えてみるなら、石河が捨次郎の社長就任に反対の姿勢をとらなかったから、すんなりと社長職を移譲できたということになる。すでに社内には石河派が作られていたろうから、不満ならクーデタ騒動の時のように派閥を率いての退社をほのめかすことも可能だったはずである。前にも述べたように、福沢兄弟には大した能力がなかった。実務に明るかった伊藤への同情論はあって当然である。そのことは分かってはいても、諭吉も人の親、やはり実子に時事新報を継がせたかった。その機微を覚った社内の有力者石河は福沢の意向に賛同したのである。この人事により福沢は石河に恩を売られた格好になったのではなかろうか。

福沢の横目付のような位置にあった北川の主筆就任もその時点で消えたのであろう。実力はあってもなにぶん北川は社歴が浅い。伊藤後任としての総編集の可能性は残されていたかもしれないが、編集長から総編集に昇格したという記録もない。あくまで一社説記者の待遇のままであった。その後の北川は社説の起稿を続けるのを許されていただけとなったのではないか。また福沢自身も石河による民族偏見論説に不満を覚えても、直筆の社説で反論を加えるのが精一杯という状況になったのではなかろうか。諭吉は石河に捨次郎を人質としてとられていたからである。

さらに第三段階は福沢に脳卒中の発作が襲った九八年九月以降である。この事態の急変で最大の庇護者を失った北川は退社し、石河は念願晴れて時事新報主筆となった。富田正文は伝記巻末の「本書の編纂に就て」に、伝聞の形で、福沢の長男一太郎による、「其思想文章ともに父の衣鉢を伝ふるものは独り石河氏あるのみにして、文に於て氏を見ること猶ほ父のごとし」(『伝』④八三六頁)、という言葉を書き留めている。しかしこの言葉は捨次郎社長による石河への主筆就任祝賀の挨拶にこそ相応しいようだ。捨次郎はその後一九二六年まで時事新報の社長職に止まっていたから、捨次郎石河体制とでもいうべきものは、石河が主筆を退く二二年まで四半世紀もの間続いたのである。

以上が、私の推測する石河の時事新報社における勢力増大の移りゆきである。これは昭和版の「付記」の記述ともほぼ重なり合っている。先に私は、福沢の晩年とは何時からを指すのか明らかではない、と書いたが、このようにしてみると九六年夏の捨次郎の社長就任が福沢の晩年の始まりであったようだ。(以上『福沢諭吉の真実』 179 ~ 183 頁)

これが、「世にいかがわしい所説は多々あるが、検証不能な仮説を憶測によってここまで書きつらねた「学者」はめずらしい」と杉田をして言わしめた部分の全体であるが、ここで杉田はもっとも重要なこと、すなわち「歴史は勝者によって書かれる」という事実を忘れている。杉田は石河によって全集に収められた無署名社説を読み、石河によって書かれた『福沢諭吉伝』で福沢のイメージを定め、そして石河が収集した資料でそのイメージを補強しているのである。

3 .石河の『福沢諭吉伝』には描かれていない時事新報社の内情

杉田の言明で、石河によらない福沢の姿はまったくないと言ってよいのであるが、福沢関係の文献で実際に石河が係わっていないものを探るならば、その姿は別のものとなる。

例えば、明治 20(1887)年 4 月に中上川主筆時代が終わった後、石河がその任に就くまで長い主筆不在期があるのだが、そのうち明治 29(1896)年 12 月まで、主筆の仕事のうち編集統括の役割を担ったのは伊藤欽亮であった。総編集と呼び慣わされているが、現代風には編集長である。また、資料によっては社長格と記されているものもある。福沢存命期の時事新報社において、10 年間ほども重職にあった彼について、ほとんど思い出されることがないのは、『福沢諭吉伝』で、彼が非常に軽くしか扱われていないからである。

日清戦争の時期に、伊藤のもとで働いていた編集員は、別の見方をしていた。『伊藤欽亮論集』は、伊藤の死後石山賢吉が編纂した社説集であるが、その下巻(1930 年 3 月・ダイヤモンド社刊)の巻末に追悼文集「欽亮先生人物観並に逸話」がある。その中からいくつか拾うならば、例えば菊池武徳は次のように言っている。

伊藤君は話柄に尽きない人で、而も何事にまれ相当の識見を有って居たので、福沢先生も唯一の相談相手として非常に信任されて居った。

日清戦争を機会に、時の総理大臣伊藤博文公に絶大の信任を得て居ったのも、伊藤君が公が同郷の長州出身であった為でもなく、又公が時事新報を利用しようと云う意味でもなく、正に伊藤君が何事にも一家の識見を有し、その言う所に聴くべき価値のあったからであろうと思うのである。(「広島臨時議会当時」同書巻末 39 頁)

2 年後に刊行される『福沢諭吉伝』の中では 2 ヶ所に伊藤の名前を記しただけだった石河幹明も、この追悼文集では次のように書いている。

其頃(1884 年頃・平山註)の社長は中上川彦次郎氏であったが、氏は山陽鉄道の社長もやって居たので、伊藤君は社長とは言はなかったが、編集会計を担任して社長同様の重要な地位にあったのである。

伊藤君の最も活動したのは日清戦争の時であった。君は山口出身の人で、伊藤博文公なども能く知って居たし、有力なる政治家にも知合が多かったようである。時事新報が発展したのは此日清戦争の時からで、それに付ては伊藤君が大いに与って力があった。(「新聞記者としての怪腕」同書巻末 72 頁)

柳荘太郎の証言は『福沢諭吉の真実』 44 頁に引用しているが、その部分は菊池や石河の証言と重複するので再掲はせず、別の所を引きたい。福沢が時事新報の紙面について、伊藤に小言を言う場面である。

福沢先生は自分の新聞であるから毎朝隅から隅まで目を通し、文字の末までも見落とされない。そして社に出て来ては紙面の評論をされる。其時に若し編集上に誤りとか、面白からぬ記事があるとか、事実に相違した事柄でもあると、大小言が出る、其小言の引受所は何時でも総編集の伊藤君であった。大勢の記者が書くのだから誰が書いたのか分からぬ、又仮令分って居つても先生はその人に面と向っては言われぬ、いきなり伊藤君に向って小言を言う、伊藤君はそれを何時も黙って聞いて居った。(「緻密で几帳面」同書巻末 81 頁)

福沢が新聞紙面を読むのは一般の読者と同じく発刊後であって、本印刷前のゲラ刷りによってではなかった。それは当然のことで、新聞紙面は毎日午後から開かれる編集会議(福沢は出ていない)でその日の方向が決められ、その方針に従って記事が集められ、割り付けまた点検された後、深夜に印刷されていたからである。福沢が関与したのは自分が執筆または立案した社説の掲載時期だけで、石河が『福沢諭吉伝』第 3 巻 256 頁で書いたような、

「時事新報」の社説は創刊以後晩年大患に罹らるるまで凡そ十六年間に亘りて自から筆を執られ、然らざれば厳密なる校正を加へられたものであって、先生は実際主筆の任に当られたのであった。固より其間には病気旅行等のこともあったけれども、平素極めて健康で、たまに風邪等のために休まるることあるも、社説の原稿をば床の上にて検閲せられ、又旅行の場合には不在中の社説を用意して出発せらるるのであるから、十六年間に先生の目を通さなかった社説は殆んどないといてもよいほどである。(「時事新報の社説」)

などということは、現実問題としてまったく不可能だった。

杉田が(12)や(13)の記述の根拠としているのは伝記のこの部分と思われるが、新聞社の日常業務について回想されている『伊藤欽亮論集』の「欽亮先生人物観並に逸話」を読むと、この記述については、「ようもまあいい加減なことをぬけぬけと」という印象を抱かずにはいられない。

福沢が日々の社説から手を引いたのは明治 25(1892)年春頃と私は推測するが(『真実』 98 頁)、それ以後は、政治・経済上の大問題が起きる毎に基準となる論説を書いてそれを伊藤総編集に託し、次に局面が展開するまではその範囲内で議論を進行させる、という間接的指導に変わったのである。つまり、福沢直筆社説以外は、掲載前に福沢の目を通していたわけではなく、編集会議が了解しさえすればそのまま印刷に廻されていた。

明治 22(1889)年春から明治 27(1894)年 4 月まで在職していた柳荘太郎は次のようにも書いている。

其頃新聞の論説は福沢先生の書かれる外は、石河幹明、菊池武徳君などが主として書いて居り、外に客員のような関係で、渡辺治高橋義雄君などが寄書して居つた。伊藤さんは総編集をやって居ったので、社説論文その他の記事を纏めるのがその仕事であった。当時時事新報では一般読者に分かり易くする為に社説にまでも振仮名をつけたのであるが、福沢先生の社説に限り伊藤君が振仮名をつけて居った。(「緻密で几帳面」『伊藤欽亮論集』巻末 79 ~ 80 頁)

このように福沢が事前に他の執筆者の社説に目を通していたようには書いてない。この貴重な回想を残している柳荘太郎(田中義一の義弟)は日清戦争直前に新聞社を辞めて三井銀行に入り、後年は帝国生命(後の朝日生命)の社長になっているが、『福沢諭吉伝』刊行時には未だ存命であった。社説記者ではなかったとはいえ、『福沢諭吉伝』のあまりに不自然な記述にクレームをつけなかったのであろうか。

4 .石河は福沢に社説欄の委譲を迫っていた

石河の伝記にはこのようにあり得ないことが書かれている一方で、当然書かれるべきだが完全に沈黙している重大な事実もある。柳が入社する直前の明治 21(1888)年 10 月には、上の引用文中でも触れた、社説担当の石河・渡辺治・菊池武徳が伊藤を排除しようとしたクーデタ騒動が起こっている。この騒動は、戦後発見された中上川彦次郎宛福沢書簡によって初めて明らかになったことである(詳細は「誰が『尊王論』を書いたのか?」参照のこと)。

この騒動に関する福沢自身の書簡からもう一つ明らかになったことは、石河らがそのクーデタ騒動の最中に「社説欄の実権を委譲せよ」と福沢に迫っていたという事実である。これは憶測ではなく、福沢自身の書簡に記されていることである。

渡辺も石川も文章の拙なる者にて、此者等が不平などゝ云はずして文の脩業致し、ほんとふニ社説が出来る様ニなれバ、老生ハ快く之に譲渡す積なれども、自分を顧みずしてグヅグヅとハ、自省之明なきものなり。

全文之次第ニ付、老生唯今之考ニは、渡石輩をして騎虎の勢ニ至らしめず、程好く、まのわるくないやうニ致ス積りなれども、若しも彼等がうぬぼれより六ヶ敷事を申つのり、是非共伊藤を擯けよなと申して、力(リキ)むときハ如何すべきや。伊藤を擯るハ社の不利なるゆゑ、渡辺、石川等を其りきむまゝニして、退社せしむ可きや。さりとハ血気無辜之少年、甚だ気の毒なり。是れニは老生も当惑致し候。唯今渡辺、石川が去りたりとて、老生が全力を尽せバ、社説ニ困りハ不致。又雑報ハ他の少年ニて出来可申なれども、生も老してますます多事なるハ好む所にあらず、御考可被下候。 (1888 年 10 月 22 日付中上川宛書簡・部分)

見られるように、「ほんとふニ社説が出来る様ニなれバ、老生ハ快く之に譲渡す積」とあって、石河らは福沢に相当強く社説欄委譲を迫っていたことが分かる。

人間はロボットではない。自分の政治的見解を表明したくてたまらない社説担当記者が、いつまでも師匠の言うとおりの論説を書き続けると考える方がどうかしているのである。このクーデタ騒動の結果、福沢に帰順しなかった渡辺治は時事新報社から放逐され、石河は福沢に何らかの条件を飲ませることにより矛を納めた。その条件については推測しかできないが、私は、石河が下書きを担当した『尊王論』の刊行と、編集部内での身分保証だと考えている。

杉田が憶測の上に憶測を重ねた立論だと私を批判するその内容が、じつは説得的な説明であることがお分かりいただけたであろうか。最後に、福沢が民族蔑視の表現を厳しく戒めたにもかかわらず、その後も社説にそうした表現がまま見られる理由については、福沢立案のごく少数の社説を除いては、社説掲載にあたって福沢の事前検閲など必要とされなかったから、とみるのが適切である。

上条中で杉田は「福沢は惨めにも、時に自ら執筆する社説で石河の説・論調の姿勢を軽くいなす程度のことはできなかった(!)」と私の意見をエクスクラメーションマーク付で紹介しているが、私はただ単に正しいことを書いたまでである。ことに日清戦争中に大増員された時事新報社は、明治 29(1896)年夏に次男福沢捨次郎が社長に就任してから、もはや諭吉の新聞社ではなくなった。息子の経営する会社の方針に、直接くちばしをさしはさむことなどできなくなっていたのである。

(15)334 頁 1 行目「いかに福沢が晩年においても社説欄を主宰したか(1)」

しかしこの説(⑭のこと)は、あまりにもばかげている。わずかに残った書簡にさえ明瞭に見られるように、福沢はその石河に対して、最晩年にいたるまでかなりの注文をつけている。これは、福沢が『時事新報』社説欄の明瞭な主宰者であるとの意識を保持している事実を、明瞭に見せている。(福沢立案の社説に付せられた書簡の実例を列挙した後・平山註)そうした福沢が、なぜ自らの思想に反する石河の傍若無人な社説(平山の言うようにそうした社説がありえたとして)を、それと知りつつも何も言えずにいた、などというばかげたことがありえようか。

上条の註

晩年にも福沢が立案した社説があるからといって社説欄を主宰していたことにはならない

ここで杉田が指摘しているのは、私が『福沢諭吉の真実』で、とっくの昔に否定していた、それまで長い間定説として扱われていた見解である。ここで杉田が指摘している書簡類から分かるのは、福沢が晩年においても社説欄を主宰した事実などではなく、晩年においても福沢の立案した社説があり、その掲載について注文をつけている、という事実にすぎない。上ですでに引用しているのであるが、私が『福沢諭吉の真実』でどのように書いていたかを、もう一度確認してみる。

確かに自らが立案した社説についての指示は残されている。九二年九月から倒れた九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。同じ期間について大正版「時事論集」には五九編、昭和版ではそれに加えて六五六編もの社説が収録されている。二五編にかかわっていたのだから残余の七百編近くにも関与していたであろうというのが従来までの解釈であった。(『福沢諭吉の真実』 177 頁)

要するに、自らの立案によらない社説については、無関与だった、ということで、『福翁自伝』の時事新報に関する部分にもそう書いてある。このことは(17)でもう一度触れるであろう。なお、「石河の傍若無人な社説(平山の言うようにそうした社説がありえたとして)を、それと知りつつも何も言えずにいた」などと私はどこでも述べていない。石河によるアジア蔑視社説を罵倒する福沢のメモや書簡も書かれたに違いないと私は考えている。しかし、そんなものを石河は保存しておかなかっただけのことである。

(16)335 頁 4 行目「いかに福沢が晩年においても社説欄を主宰したか(2)」

さて、そのようにして、「晩年」ないしそれに近い時期ーー 96 年春には『時事新報』に対する石河の支配が非常に強まっており、その時期が福沢の「晩年」の始まりだと平山は記す(同 181 ~ 183)ーーにおいてさえ、福沢は社説欄を掌握・主宰しているが、それ以前においては、はるかにその姿勢は徹底していたと考えられる。社説記者はあまりに若く、『時事新報』の顔たる社説を書かせるにはあまりに鍛錬・研鑽に欠けており、一方、福沢は十分に体力・気力を持ち合わせ、いわばその思想の最円熟期にいたからである。平山は一八九五年頃の福沢について「正真正銘の老人」などと記すが(同② 84)、一〇〇年前に八〇歳まで生き、七〇歳代まで重要な著作を書き続けたカントの例を見るまでもなく、一般に体力が衰えたからといって(もっとも福沢の身体はかなり強靭だったが)、長年鍛えた思索力・執筆力が、そう簡単に落ちるはずもなかろう。

上条の註

福沢は好きで新聞社を経営していたわけではない、もっとしたいことがあった

もちろんその通りである。私が言っている晩年とは、経営の第一線から退いた、という意味であって、べつに体力や思索力が衰えた、ということではないからである。福沢は新聞社を収益のあがるビジネスとして運営していただけで、それが好きでやっていたわけではなかった。『福翁自伝』の最後の部分「人間の欲に際限なし」に、福沢の夢が語られているが、そこには、

私の生涯の中にでかしてみたいと思うところは、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにすることと、仏法にても耶蘇教にてもいずれにても宜しい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすることと、大いに金を投じて有形無形、高尚なる学理を研究させるようにすることと、およそこの三カ条です。

とある。

日清戦争後に署名入りで刊行された著作は、『福翁百話』(97 年 7 月)、『福沢全集緒言』(97 年 12 月)、『福沢全集』(98 年 1 月)、『福沢先生浮世談』(98 年 2 月)、『修業立志編』(98 年 4 月)である。脳卒中の発作は 9 月だが、その後もすでに完成していた『福翁自伝』(99 年 6 月)と『女大学評論、新女大学』(99 年 11 月)が、さらに没後に『福翁百余話』(1901 年 4 月)と『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』(1901 年 4 月)が出されている。これらのうち『福沢全集』と『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』は日清戦争より前の執筆であるから戦後の思想とはいえないが、ほかの著作は晩年の福沢が自分の関心の赴くままに書いたり口述したりした著作である。

大雑把に言って、それら戦後の署名入り著作群は自伝末尾の希望 3 か条のうち、はじめの 2 条に関する作品のように思われる。最後の有望学者の庇護者になる、という望みは、別に北里柴三郎の研究所を支援するということによって実現されている。これら日清戦争後の署名著作のうちに、アジア蔑視の表現を含むものも、帝国主義的野心を示すものもない。これは同時期の時事新報社説とはなはだしい対照をなしている。両方ともが福沢の姿なら、福沢は二重人格者とでも言うしかないであろう。しかし、アジア蔑視の侵略論が示されているとされる社説には、福沢関与の証拠は発見されていないのだから、結局、それは実際にそれらの社説を執筆した石河の主張とみなすべきだ、というのが私の見立てである。

(17)337 頁 11 行目「いかに福沢が晩年においても社説欄を主宰したか(3)」

よく引かれることばだが、福沢は九八年春頃、「紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆して、私は時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆するくらいにしています」(『自伝』⑦ 250)と述べている。これは、石河らが執筆する場合と、福沢が立案してそれに基づいて石河らが執筆する場合があるということだが、いずれにせよそのようにしてできた論説を、福沢が見て若干の加筆をする、という意味であろう。だがそうした言い方が意味をもつのは、それまで基本的に福沢が執筆していた、あるいはそうでなかったとしても徹底した加筆をほどこしていた、という事実がある場合のみである。そしてその時期に「ちょいちょい加筆するくらい」ですんだのは、基本的に石河らが福沢の思うとおりの社説を書きえたからにほかならない。なお石河は「一六年間に先生〔福沢〕の目を通さなかった社説は、ほとんどないと言ってもよいほどである」と記している(同① 256)。以上の手紙からだけでもこれは裏づけられるが、井田はこれを「石河神話」であると、ほとんど言下に否定する(同 83)。だが、その臆断にはなんら説得力はない。

上条の註

1 .杉田は福沢が社説欄から遠くなっていった証拠を、掌握していた証拠として使っている

『福翁自伝』からのこの引用は、杉田の言う「石河らが執筆する場合と、福沢が立案してそれに基づいて石河らが執筆する場合があるということだが、いずれにせよそのようにしてできた論説を、福沢が見て若干の加筆をする、という意味」などではない。この部分もまたはしょった引用になっていて、実際に書かれていることとは違う意味になっている。少し長く引くなら、

私も次第に年をとり、何時までもコンナことに勉強するでもなし、老余はなるたけ閑静に日を送る積りで、新聞紙のことも若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案してその出来た文章を一寸々々加筆するくらいにしています。

となっていて、福沢はごくまれに立案するだけで、その立案社説に少し手を入れる以外は、すでに全面的に実務を委譲している、と書いてあるのである。

2 .福沢が立案した社説でも、石河は北川執筆のものは全集に入れなかったー『福沢諭吉の真実』より

石河が全集から北川の書いた社説を排除した事実は、「井田メソッド」によって明らかになったのではない。福沢が立案し、石河や北川が執筆した社説の草稿が 15 編発見されて、当時の記録や筆跡鑑定によってはっきりしたのである。以下『福沢諭吉の真実』からその部分を引用する。

残されていた社説草稿

表紙に「福沢先生著」と明示されている『修業立志編』から福沢真筆の論説までをも省いて大正版「時事論集」を編んだ石河のことであるから、昭和版では自らの都合がなおさら前面に出ているであろうことは想像に難くない。しかしそれはあくまで推測に過ぎないため物的に証拠づけるのは困難である。

ごく最近になるまで『時事新報』の社説原稿は福沢直筆の一部を除いて失われたと思われてきた。ところが僅か一〇編ではあるけれども、起筆者を推定できる原稿そのものが発掘されたのである。慶応義塾福沢研究センター研究員の西沢直子によれば、それらは時事新報社に勤めていた中村梅治という人物の手元に残されていたもので、彼が時事新報社箋に書きとどめた「福沢先生添削時事新報掲載社説原稿(一覧)」には以下の一五編の社説のタイトルが掲げられている、という。原稿が残されているのはそのうち*印の付いた一〇編である。

昭和版「時事論集」に収録されているのは以下の六編である。

  • *「台湾当局者の人選」(一八九七・五・二七)石河起筆
  • *「西洋書生油断す可らず」(九七・七・一八)石河起筆
  • *「内助の功を没す可らず」(九八・七・八)石河起筆(井田判定)
  • 「宗教は経世の要具なり」(九八・七・二四)北川起筆
  • *「新内閣の内情易からず」(九八・七・三〇)石河起筆
  • 「翻訳条例は断じて思ひ止まる可し」(九八・九・三〇)石河起筆

一方昭和版「時事論集」で未収録となっているのは以下の九編である。

  • 「東本願寺騒動の始末」(九七・三・一九)北川起筆
  • *「仏教の革新」(九七・四・四)北川起筆
  • 「郵船会社の改革」(九七・四・一四)石河起筆
  • *「地方富豪家の責任」(九七・六・五)北川起筆
  • *「台湾の事唯英断を待つ」(九七・七・二三)北川起筆
  • 「保守論の根拠」(九七・七・二九)北川起筆
  • *「活発なる楽を楽しむ可し」(九七・七・三一)北川起筆
  • *「保守論者安心の道」(九八・七・二二)石河起筆(井田判定)
  • *「後を顧みよ」(九八・七・三一)北川起筆

起筆者の推定は研究の初出時には未詳となっていたものを井田が判定しなおした二編をのぞいて西沢によるのだが、原稿が残っているものについては署名や筆跡によって、また残っていない五編については中村の記録に基づいていて、その確度は極めて高い。このリストを見て、思わず笑みをこぼしてしまったのは論者だけであろうか。全集収録済みの六編のうち五編が石河起筆であり、未収録の九編中七編までが北川の執筆なのである。これこそ石河が北川の存在を抹消しようとした確かな証拠である。

なお、何らかの客観的根拠に基づいて九編の論説が全集未収録となったわけではないことは、西沢が、「さて前掲のリストを御覧いただければわかるように、今回判明した加筆の社説には『福沢諭吉全集』に収録済みのものと未収録のものがあった。しかし原稿のある十篇を比べてみると、加筆状態においては収録分と未収録分に大差はない」(「中村梅治旧蔵福沢諭吉加筆の時事新報社説原稿について」『福沢諭吉年鑑』第二二号(一九九五・一二)二四頁)、と書いていることからも明らかである。

自らの論説・講演集である『修業立志編』に入れることを許した北川筆「活発なる楽を楽しむ可し」が福沢の思想ではない、などということがあり得ようか。昭和版「時事論集例言」の「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」(①二頁)の「他人」とは「福沢以外」の意味ではなく「石河以外」のことだったのだ。昭和版への採否の基準は極めて主観的なもので、要するに、『福沢諭吉伝』で描かれた福沢像を補強する論説で、かつ自らが起筆したものを優先して収録していったに過ぎないのである。

石河自身は昭和版『続全集』「緒言」で「大正十五年再版の「福沢全集」に漏れてをる先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く包羅した筈」(①四頁)と大見得を切っているが、すでに「忠孝論」や「心養」などの福沢真筆を独断で全集未収録とした前科が明らかとなった以上、それが虚偽であることは明白である。

このようにしてみると、『時事新報』には、まだまだ多数の福沢真筆の文章があると考えられる。とりわけ書簡からは毎日の新聞紙面を充実したものとするために自ら筆を執っていることが伺われるのに、単行本の刊行がなかった八七年及び八九年から九一年までの合計四年については早急に調査を行う必要がある。

この四年分の社説総数は約千三百編、内大正版所収論説は六七編、昭和版にさらに一八九編が加わっている。社説総数に対する大正版所収論説の割合は約五・二%、昭和版については約一四・五%、合わせても全体の約一九・七%に過ぎない。渡辺退社直後の日原昌造宛書簡に、「只今は社説に老生一名の外に(石河・菊池の)二少年あるのみ。随分忙しき次第に御座候」(八九・二・二)とある。このような状況に鑑みて、この四年について八割以上の社説に無関与であった、とは到底思われないのである。(以上『福沢諭吉の真実』 120 ~ 123 頁)

以上の引用からも、杉田の「臆断にはなんら説得力はない」ことが確かめられたことと思う。

それにしても、安川の場合もそうであったが、杉田の石河への盲目的愛もものすごいものだ。石河にいかなる魅力があるのか知らないが、石河のどんな言葉でも信じる一方で、彼の書いた社説に対しては声の限りに罵倒する、というそのあり方には、かつて見たスタンリー・キューブリック監督の映画のタイトルが髣髴とされる。その映画の題名は「博士の異常な愛情」(1964 年)というのだが。

(18)339 頁 18 行目「本書所収の社説についてーー形式からの傍証」

「旅順の虐殺無稽の流言」(40 番)は、福沢立案・石河執筆という石河自身の証言(同① 754)があるにもかかわらず、福沢が旅順虐殺について書簡で触れていないことからすれば石河が福沢になんら相談なしに「独断で掲載した可能性が高い」と平山は記すが(同 151)、あまりに学問的ルールを無視した乱暴な憶測に、同業者として驚かざるを得ない。だが、万万が一平山の主張どおりだったとしても、それに引き続く「わが軍隊の挙動に関する外人の批評」(41 番)の基本的な趣旨は、「旅順の…」(40 番)と同一なのである。

上条の註

1 .福沢本人の書簡等に旅順虐殺への言及は一切ない

確かに『福沢諭吉の真実』のこの部分は事実経過がはしょられすぎていて、説明不足になっている。明治 27(1894)年 12 月初めのこの時期に福沢の身辺に起きていたことを理解しないと、なぜそうなるのか分からないであろう。福沢はこの頃、日清戦争の戦況とは無関係に、慶應義塾関係の不幸に直面して悲嘆に暮れていたのである。というのは、2 代目慶應義塾塾長小泉信吉(信三の父)が、盲腸炎をこじらせて 12 月 8 日に 48 歳で急死してしまったからである。5 日に重体となったと聞いて急いで見舞いに出掛けてから、10 日に横浜で行われた小泉前塾長の葬儀まで、福沢の頭の中はこの高弟のことで一杯だった。その後気を取り直した福沢が日清戦争に最初触れているのが、12 月 14 日に長姉小田部礼に宛てた手紙(一八九六番)なのであるが、この日は「旅順の虐殺無稽の流言」の掲載日にあたっている。以下で戦争に触れている部分全体を引用する。

当年ハ夏以来戦争之騒きニて誠に忙しく、手紙認候暇もなく御無沙汰のみ、御用捨可被下候。今日まで日本之大勝利。この後も同様、遂ニ支那之降伏ハ疑も無之、快き事に御座候。併し軍隊之人々ハ、さぞさぞ不自由難渋之事ならん。これを思へバ、銘々共が毎日たたみの上ニ居るも不相済事之やうニ被存候。せめてハ何か之加勢と存じ、私も金壱万円差出し候。私方の身代とてさまでゆたかにハ無御座、壱万円之金を出すハ、人体に譬へて申せバ、手足を一本を切られたると同様ニ覚へ候得共、現在戦場ニテは、一命をさへ棄る忠臣多き其中ニ、国内ニ安閑として眠食する者が、身代を分ち棄るハ当然之事と存し、右之通りニ決断致候義ニ御座候。

見られるように、この書簡には旅順虐殺についてまったく触れていない。

2 .旅順虐殺に関心をもっていたのは石河

井上晴樹著『旅順虐殺事件』(1995 年・筑摩書房刊)によれば、日本軍による清国民間人虐殺事件の第一報は、12 月 7 日付ジャパン・メール紙の記事「旅順占領」中にあり、翌 8 日には読売新聞が反論記事「メール新聞の妄を弁ず」を、自由新聞が「旅順口に於て我兵の殺せしは敵兵のみ」を掲載している。同日、神戸の外国人居留地で発行されていた英字新聞神戸クロニクルは、旅順虐殺に荷担した軍人の処罰を行うことが国際世論対策として有効だ、という記事を掲載、翌 9 日の時事新報には、「神戸クロニクルの忠告」というその抄訳が掲載されている。これが時事新報紙上での該事件の第一報である。そして 11 日には自由新聞が、12 日には東京日日新聞が、そして 14 日には時事新報と日本が相次いで旅順虐殺に反論する社説を掲載している(同書 47 ~ 58 頁を参照)。

この旅順虐殺報道の時系列と、小泉前塾長急死をめぐっての福沢の動きを重ね合わせるならば、この事件に重大な関心をもっていたのは、福沢よりむしろ時事新報編集部、とりわけ石河であったと推定できる。この問題に関心が少しでもあるなら、12 月 14 日の社説「旅順の虐殺無稽の流言」について、姉への手紙に、「今日の新聞社説を読んでください」くらい書きそうなものだが、言及されていない。そればかりでなく、以後の福沢の手紙・メモ・署名著作に旅順虐殺に触れたものは発見されていない。

もとより旅順虐殺に関する外国の新聞記事を小泉信吉危篤の報を受けたばかりの福沢が「読んでいなかった」ことを証明することはできない。けれども確実に言えることは、時事新報社には国内外紙が毎日届けられていて、石河はそれを日々チェックしていたこと、そして石河が本社説を『福沢諭吉伝』第 3 巻で上条中の 2 編の社説の全文を引用し、後に続福沢全集にそれらを収録したことだけなのである。

(19)343 頁 11 行目「本書収録の漫言について」

本書は、社説以外に漫言をも若干とりあげた。漫言は、社説を補う一種の政治風刺・社会戯評として、福沢が重視したと判断できる。全般的にみて福沢の文章の特徴として「ユーモアと風刺」を、また比喩やたとえ話の多用をあげることができるが(伊藤 73 以下)、漫言欄において福沢は、これらに見る固有の資質をいかんなく発揮したと判断できる。福沢にとってその意味で、漫言を書くのは容易だったであろう。ただし、漫言ーー漫言は社説とはおのずと異なるとはいえ、雑報・電報などと明確に異なる一種の論説であるーーは、社説では書けない本音をかなり自由かつ直截に出していることが多く、時に毒舌に陥るだけに、いかに「漫言」であり放言であるという建前に立っているとはいえ、その掲載に当たっては一定の政治的判断を要したと言えるかもしれない。その限り、時事新報社の経営に責任を有する立場の人間でなければ、安易にこれを書くことはできなかったであろうと思われる。

上条の註

全集への漫言採録の基準は不明

福沢がいくつかの漫言を書いたのは事実である。大正版全集編纂時にそれらを発見した石河は、当初は社説のみを「時事論集」へ収めるつもりだった方針を転換して、急遽漫言の収録を決めたのである。しかし、その選択の信憑性は、限りなく低い。というのも、大正版に関していえば、社説は編集部備付だったスクラップブックから採られているものの、漫言については、福沢執筆の漫言の一覧が存在したわけではなかったからである。漫言の執筆は、時事新報記者であるならば誰であってもよく、執筆者の候補は、社説記者ばかりでなく雑報記者(事件記者)にまで広がる。氏名不詳のそうした人々が書き散らしたものを、石河は自らの都合で選択しただけである。差別語や侵略的言辞が多く見られるそれらは、福沢とは無関係と考えられる。

(20)347 頁 5 行目「憶測だけで成り立つ平山説(1)」

さて、平山から出された論点は多様だが、それはほとんど憶測だけでなりたっている。いずれにもまともな根拠があるとは思えないが、最悪の例は、石河持ち込みのーーと平山は解すーー『尊王論』を、福沢が加筆して自分の名前で出版した(!)という憶測である(平山① 83)。これほど福沢を侮辱し、かつ平山の学問的手法の欠陥を示した例は、他にないだろう(安川③ 17)。

上条の註

『尊王論』の下書きを担当したのは石河である

私は事実を述べているだけである。ただし、『福沢諭吉の真実』での記述はあまりにはしょられすぎていて、誤解を招きやすいことは認める。やはり最初のアイディアは福沢のものといってよく、福沢立案石河執筆(カテゴリーⅡ)に区分されるべき論説である。『尊王論』については、安川寿之輔の『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(上条中の安川③)の刊行後に論文「誰が『尊王論』を書いたのか?」を発表し、ネットでも公開している。グーグル検索で、「平山洋」+「尊王論」で簡単にたどり着ける。まずはそれを読んでから、そこを共通の出発点として議論を進めてもらいたかったと思う。

(21)347 頁 10 行目「憶測だけで成り立つ平山説(2)」

石河幹明に関する平山の憶測もひどい。石河は、「石河が思う通りの福沢像」(平山 114)ーー「国権拡大のために常に軍備増強を図り、そのために官民調和を唱える思想家」(同前 124)ーーを描くために全集の恣意的な編集をしたという憶測がそれだが、それには何らに説得力はない。自ら「思う通りの福沢像」を描こうとしているのはむしろ明らかに平山の方だが、そのために平山が用いた論法の第一は、石河を不誠実者扱いして、いくつもの福沢論説を福沢と無関係なものと断言することである。だが、「国権拡大のために常に軍備増強を図り、そのために官民調和を唱える」ことは、福沢と無関係どころか、極めて福沢的であることは前々項ですでに論じた。

上条の註

1 .石河は自分で書いた社説を素材にして『福沢諭吉伝』第 3 巻を書いた

憶測も何も、石河は大部分自分で執筆したと認めている社説をもとにして、福沢の朝鮮問題や日清戦争との関わりを扱った『福沢諭吉伝』第 3 巻を書いているのだから、そう言うしかないのは明らかである。例によって杉田の引用は文脈を無視した不適切なものなので、まずは、『福沢諭吉の真実』の 124 頁にどのように書かれているかを確認してみる。

なぜ「時事新報論集」はここまで歪められてしまったのか

それにしても現行版『全集』の「時事新報論集」はなぜここまで歪められてしまったのだろうか。ここでもう一度整理を試みたい。

考えられる理由の第一は、書きつつあった『福沢諭吉伝』にとって不都合な論説はあらかじめ排除される必要があったということである。石河は全く中立な立場で伝記の資料を集めたわけではない。彼の福沢像は、国権拡大のために常に軍備増強を図り、そのために官民調和を唱える思想家、というものであった。さらに最初のうちこそ朝鮮の独立を支援するなど愚かな振る舞いもしたが、その不可能を悟るや一転して真の敵である清国との戦争に備えて数々の提言を行い、さらには勝利後の中国分割をも視野に入れていた先見性のある戦略家でなければならなかった。それゆえに、たとえ福沢筆だと分かっていても、その虚像にそぐわない論説は採られるべきではなかったのである。

さらに第二としては、第一と関係するもののずっと矮小な理由が考えられる。それは、福沢起筆以外の社説記者との合作を判定するにあたって、石河がはっきりと身びいきを行ったということである。先にも見たように、石河は一八九四年以降ライバルであった北川の文章を意図的に落としている。福沢の立案であるという確信がもてなかったから未収録としたのではない。『修業立志編』所収の論説は全て福沢のアイディアであることに疑いの余地はないにもかかわらず、あえて北川起筆の社説を排除した執念は異常ともいえるほどだ。なぜそうしたかといえば、石河のほうが遙かに長く福沢の側で仕えているのに、後進の北川のほうが高い評価を受けたからとみて間違いあるまい。

しかもこうした屈辱は石河にとって初めてではなかったのである。前にも述べたように、彼が高橋義雄にも全くかなわなかったことははっきりしている。後には『時事新報』の主筆として長く同紙に君臨できたのも、ライバルたちが早々に新聞に見切りをつけて実業界や政界さらには学界に転身してしまったからにほかならない。一九二〇年代には言論界に残る福沢最後の面授の弟子となっていたのは事実であったが、それは偶然に過ぎなかったのである。そのことをよく知っていた石河にとって、『時事新報』に掲載されたライバルたちの文章は消し去りたい過去であったろう。

このようにしてみると現行版『全集』の「時事新報論集」が、いかに危うい基盤の上に乗っているに過ぎないかが分かる。石河にはどれが福沢の論説で、どれがその他の社説記者の書いた論説かを見極める目を持っていたかもしれない。しかしそうだとしても彼はその能力を誠実に使おうとはしなかったのである。われわれは無署名論説を一から選びなおす必要がある。石河は余計なことなどしなければよかったのである。(以上『福沢諭吉の真実』 123 ~ 125 頁)

見られるように、私が「時事新報論集」が歪められた理由の第一として重要視しているのは、杉田の引用部中でも特に「常に軍備増強を図り」の部分である。国権拡大や官民調和が福沢の主張であることは私も認める(ただし、国権とは国の経済力のこと、官民調和とは、民の官への迎合のことではなく、民による官の制御のことで、その点に杉田の誤解がある)。私が言いたいのは、アジア侵略への志向については続全集所収社説によって立論されていて、それらの多くは石河の執筆であった、ということである。そのことは、本論集に収められている社説の大部分は続全集の編纂で初めて採録されたものである、ということからも補強されよう。

2 .満州事変後の時局迎合の書としての『福沢諭吉伝』と続全集

『福沢諭吉伝』(1932 年刊)と続全集(1933、4 年刊)はともに満州事変(1931 年)直後の刊行で、作者(編者)である石河は、「この戦時局にあって、どのように描けば福沢諭吉は偉大な思想家として再評価されるだろうか?」という問題関心からその仕事に従事したのは疑う余地はない。そうでなければジャーナリストとはいえないのである。この点について、私は『福沢諭吉の真実』で次のように書いている。

また、この伝記が一九三二年の読者に向けられていることを如実に示す一例として、第三五編「朝鮮問題」の最後の一節を取り上げてもあながち不適当とはいえないと思われる。

抑も先生が夙に朝鮮論を唱へ又その国人の教育示導に力を尽されたのは、朝鮮の存亡は日本の安危に関する重大事であるから、彼を誘導助力して文明独立の一国となし、これを東洋の屏障として以て我国の地位を安全鞏固ならしめんとするがためであつた。然るに朝鮮には自から立ち自から支ふるの力なく、一たび日本の国力を以て支那の覊絆を脱せしめたけれども、これに代つて露国の干渉圧迫が加つて来て、日本の地位を脅すことは却て前より甚だしかつた。日本が自国の安危のために再び国を賭して争はねばならぬ以上、其結果として早晩日韓合併の運命を見るべきことは、先生の予期してゐられたところであつた。否な多年朝鮮問題の一事に其心身を労せられたのも、結局この目的に到達せんがための努力であつたといふて差支へないのである(『福沢諭吉伝』第三巻四五〇~四五一頁)。

どうして独立支援の終着点が日韓併合ということになるのであろうか。この引用の最後の一文をそれより前の部分と整合的に理解するためには、福沢はもともと日本による朝鮮の植民地化を企んでいて、その目的を達成するために金玉均ら独立党の人々を利用していた、とでもとるよりしかたない。

これが現在でも一部の研究者が唱える、二枚舌の思想家としての福沢とでもいうべき福沢像であるが、実際には福沢本人と確認できる文章のどこからも、朝鮮を植民地化する企図など導出することはできない。石河が自信満々にそのように書くから、読者は語られているわけでもない福沢の侵略性を、見たような気にさせられている、だけなのである。

そして今日ですらそのような目くらましは有効であるとすると、戦勝気分に浸っている一九三二年の読者たちは、よりいっそうそこに満州事変下の現実とでもいうべきものを投影したであろう。三一年九月の事変勃発直後、関東軍が作戦地域を拡大するのに呼応して、朝鮮軍(朝鮮駐留日本陸軍)は命令も受けていないのに中国東北地方へ越境し戦闘に加わった。ここでの引用は、そうした現実と重ね合わせて読まれたはずである。すなわち、満州進出への手がかりとするには日本の朝鮮領有はやはり正しかった、と。(以上『福沢諭吉の真実』 135 ~ 136 頁)

満州事変後の時局に迎合して石河は福沢の伝記と続全集を作った、という私の見解について、安川や杉田から何の反論もないのは、あるいは私と同意見だからなのであろうか。

(22)349 頁 18 行目「憶測だけで成り立つ平山説(3)」

平山が福沢の真筆だと断言するもう一編の「忠孝論」さえ、真筆性は疑わしい。やはり「井田メソッド」による限り「忠孝論」には石河のものとされる筆癖も多く、また少なくとも福沢的ではないとされる筆癖も散見される。前者は、「あり」「ある可らず」「雖も」「畢竟」「則ち」(井田 31、35、38、58、69、70)であり、後者は「固より」「尚ほ」「当さに」「復た」「亦」(井田 69、70、108)である。つまり、平山が(次段に記す理由から)断定的に下した結論は、平山が依拠する「井田メソッド」からは、「心養」の場合と同様に全く支持されないばかりか、むしろ逆の結論が出るのである。

実は平山が「忠孝論」を福沢真筆と断言するのは、「余が『文明論の概略』中に審かに論じたれば」(立志 181)という文言がそこに見られるからである(同 113)。だがそれが本当に根拠になるのだろうか。この文言は、「忠孝論」を他記者起草と見てもなんら矛盾しないし、むしろ「忠孝論」が他記者起草であればこそ、引証の必要を感じた福沢がこの文言を付け加えたと推測することは、十分に可能である。これは単なる抽象的可能性の問題ではない。実際文脈的に見て、この一文は前文から明らかに浮いている。直前で筆者(それが誰であれ)は、自らの忠義論を論じた後、他の解釈をする者はその教えを惜しまずに開陳せよと記して議論を終えているのに、なぜその直後に、「ただしこの忠義のことについては、余が『文明論の概略』中において審らかに論じたれば、またこれに贅せず〔時間をかけず〕」、などと記す必要があるのか。原文の文脈を十分に解さないまま、もしくは解しつつもあえて訂正しないまま、福沢が自著『概略』への参照を求めるためにいささか拙速にこの一文を挿入した、と私は判断する。この点は、それまではすべて「余輩」という一人称が使われているのに、ここだけが「余」となっている点からも推察される。

上条の註

「忠孝論」は福沢真筆ではなく日原昌造の執筆

ここまで私は杉田をずいぶん強く批判してきたが、「井田メソッド」を応用して推論したこの記述については素直に脱帽したい。というのも、福沢の真筆と分かっていながら石河が「忠孝論」を全集から排除した、という私の主張が間違いであることが明らかになったのである。最近刊行された『福沢諭吉事典』巻末掲載の福沢存命期全社説題名一覧により、「忠孝論」が「在ボーストン某生」(日原昌造)の起筆と判明した。福沢はサンフランシスコ在住の日原にしばしば社説の執筆を求めていたが、「忠孝論」はそのうちの一編だったのである。

杉田が問題にしていた「余が『文明論の概略』中に審かに論じたれば」という部分は、初出では、「福澤先生の所著文明論之概略中審かなる所論あるが故に」となっている。これは、新聞掲載にあたって福沢が施した加筆であろうが、ほかにも修正があるようである。私は福沢による加筆部分を、さらに一人称に書き換えたこの部分を読んですっかり真筆と信じてしまったのだが、杉田はそうした操作に惑わされず、あくまで「井田メソッド」に則って、正しい結論を導いたわけである。「井田メソッド」の有用性は、杉田のこの推論によって証明されたと思う。

(23)350 頁 16 行目「憶測だけで成り立つ平山説(4)」

こうして、福沢の真筆である「心養」および「忠孝論」を、内容が気に入らないためにもしくは偽りの福沢像をつくるために、石河が作為的に落としたとする平山の説は、極めて疑わしい。もちろん、「心養」「忠孝論」ともに他記者の手が入ろうと、それが福沢立案によるものであるかぎり『福沢全集』に採録すべきであるが、恐らく事情は異なるのであろう。私は、「随って〔気ままに〕作れば随って散じ……成り行き次第にまかせて主人〔著者〕はかつてあい知らず、歳月の遷移とともにその書物を数えて数えがたく」(「福沢全集緒言」① 3)と記す福沢が、日々に書き続けた論説・演説用原稿について、自らの立案か否かまで覚えていなくて当然ではないかと考える。だから福沢が『修業立志編』に収録する演説・評論(古いものは一四年も前のものである)の一覧を見せられたとき、自ら赤を入れた記憶があるかぎり、あるいはそのように思うかぎり、深い意味なしにいずれの収録をも是としたのであろうと想像する。

上条の註

杉田の抱く石河への盲目的愛は、安川のそれよりも深い

杉田は本当にすごい想像力の持ち主である。『修業立志編』は、福沢の署名入り著作である。そこに収録されている 42 編は、いずれも福沢が自分で書いた(最低でも立案した)と認めた諸編なのである。その福沢の意向を無視して 9 編を省いた石河の所作を、杉田は作為的とは考えない。福沢本人より石河を信じるということになるが、石河へのこれほどの深い信頼感を、杉田はどうして抱くことができるのであろうか。

事実経過のみを述べるなら、明治 31(1898)年春『修業立志編』を編むにあたって、担当の慶應義塾教師菅学応は、時時事新報社備付のスクラップブックを編集部から借り出して、採録すべき論説や演説を選んだ。このスクラップブックは、社説起草の参考にするために作られていたもので、時事新報編集部内では福沢の言論とみなされていた社説群であった。大正版全集の「時事論集」のために、それらをそのまま掲載した、と石河は述べている。すなわち、大正版全集「時事論集例言」(1926 年 5 月)には、

一 福沢先生が時事新報創刊以来その紙上に執筆せられたる論説は約五千篇あるべし。編者曾(かつ)て社説起草の参考に供する為(た)め其主要なるものを抄写して之を坐右に置けり。今回時事新報社が一万五千号の記念として福沢全集を発刊するに際し、之を「時事論集」と名けて其中に収録することとせり。(以下 2 条省略)

一 本集に収むる所の論説は二百二十三篇にして、外に漫言九十八篇を附録とせり。全集発刊の事急に決したるを以て、差向き編者の曾て抄写し置けるものを其儘(そのまま)収録したる次第なり。

とあるが、このように述べているにもかかわらず、石河は『修業立志編』に採録されている 42 編の社説・演説のうち 9 編を「時事論集」に戻していないのである。

確かにその多くは福沢の執筆ではないのであろうが、この操作によって北川や日原が起筆したものを排除しながら、自分が書いた社説は、石河起筆と注記の上とはいえ、大正版「時事論集」に 14 編も収録しているのである。そして、昭和版にいたっては、いちいち断ることもなく、自分で書いた社説を入れている。これは上でも引用した「附記」に書いてあることである。

(24)351 頁 7 行目「憶測だけで成り立つ平山説(5)」

『修業立志編』そのものに対する福沢の関与はおそらく弱い。福沢の署名入りの「修業立志編緒言」(立志 1 ~ 3)でさえ、「井田メソッド」による限り、石河の筆癖ないし少なくとも福澤的ではない筆癖で満ちていることからも、それが垣間見られる。前者は「殆んど」「側ち」(井田 35、70)であり、後者は「初めて」「亦」「又」「仮りに」(井田 69、70、91、107)であるが、ここからは、福沢立案の「緒言」を他記者が起草し、それに福沢が手を加えたと推定できる。あるいはむしろ、この「緒言」は福沢の口述を他記者が筆記したのかもしれない。「井田メソッド」に依拠する限り、平山はその程度の結論は当然導きえたはずである。だがそうならなかったのは、平山が「井田メソッド」を自らに都合のよいところで、都合のよい仕方で用いたからにほかならない。

上条の註

杉田は「井田メソッド」の達人である

再び「井田メソッド」の輝かしい勝利である。というのも、「修業立志編緒言」は、菅学応が執筆して福沢が手を入れたと判明している文章で、杉田は見事その真実に到達しているからである。それが掲載されている現行版全集第 19 巻 775 頁の註に、「この序文は「修業立志編」の編者菅学応が起草したものへ福澤が刪正の筆を加えたものである」とあって、杉田の正しさがまさに証明されている。杉田のテキスト判定の能力は相当に高い。

ところで「署名があるから福沢の真筆だ」などということを、いったい誰が言っているのであろうか。少なくとも私ではない。私は、福沢署名入りの著作は、福沢が自分の思想であると認定し、その記述に責任を負うと自ら認めた著作であると言っているだけである。口述筆記の場合などもあり、実際に誰が書いたかは、その際問題とはならない。それゆえ署名著作『修業立志編』から 9 編を勝手に取り除くというのは、たとえそれが福沢の執筆したものではなかったとしても、全集編纂事業において大きな不誠実であったと私は思う。一方現行版全集の「時事新報論集」の第 8 巻から第 16 巻までに収められている無署名論説(社説)は、福沢が署名していない文章なのだから、それらの帰属は法人としての時事新報社にあると考えるべきなのである。

(25)351 頁 15 行目「憶測だけで成り立つ平山説(6)」

いずれにせよ、『新福沢全集』(昭和版)を編む際、石河が「心養」「忠孝論」等の数編を落としたのは作為的理由があってではなく、他記者を含めた社説記者自身が発案者だったからであろうと私は考える。総じて私は、石河は従来信じられてきたように、極めて誠実に全集編集の作業をしたと考える。少なくとも平山がそれを真っ向から否定するために出した論点は、これまで見たように、いずれも根拠のない単なる憶測にすぎない。

上条の註

1 .「井田メソッド」が不可能なら、石河はどうやって社説を判別したのか

福沢が自分のものと認めた論説類を全集から省いた石河の行為を、作為的と考えないとは驚きである。それから、省かれた諸編が「他記者を含めた社説記者自身が発案者だったから」という根拠をぜひとも示してもらいたい。その言明が可能なのは、紙上掲載論説の立案者を石河がすべて暗記していた場合に限られるはずである。

というのも、従来までの理解では石河は「井田メソッド」に類した方法を修得していて、その能力に基づいて判別していた、とされていたのである。「井田メソッド」を否定する杉田は、そうした方法があるとは認めることができないはずで、となると、6000 編以上もある社説の発案者を石河はすべて暗記していた、と杉田は信じている、と解釈するより仕方がない。そして、もし杉田が石河の超人的暗記力を信じるとしても、さらに遡って、石河がどうやって自らが入社する前の 3 年間分の無署名論説を昭和版「時事論集」に選んだのか、という問題に直面すると、答えようがなくなるわけである。杉田は、石河が超能力を有していた、とでも言うのであろうか。

2 .石河の社説採録の不誠実

さらに、「総じて私は、石河は従来信じられてきたように、極めて誠実に全集編集の作業をしたと考える」との証拠もぜひ知りたい。平石直昭もまた、『政治思想学会会報』第 30 号(2010 年 7 月 20 日発行)掲載の評論「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」において同様のことを述べていた。平石は『修業立志編』の全集未収録には触れていなかったので、私は反論「石河幹明の社説採録を信じられない三つの理由」のうちその第一と第二の理由としてその点を指摘したが、私は納得できるものではないものの、杉田は『修業立志編』問題にとりあえず答えているので、ここでは第三の理由を引用したい。2010 年 9 月 1 日に平石に送った手紙から抜粋する。

不誠実の証拠 3  石河は福澤の直筆原稿残存社説 92 編のうち、50 編を全集に採録していません

証拠 1 ・ 2 はすでに『真実』で指摘してあることです。最後の 3 は、私が伝記『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』を執筆する途中で、現行版全集の「時事新報論集」・『福澤諭吉年鑑』各号・マイクロフィルム版福澤関係文書目録を調べた結果として確かめられた新事実となります(「福澤諭吉直筆草稿残存社説一覧」『福澤諭吉』巻末)。

直筆原稿残存社説 92 編中 50 編不採録ということは、石河は過半数を選んでいないわけですから、『続福澤全集』緒言末尾の、

大正十五年再版の「福沢全集」に漏れてをる先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く抱羅した筈であるが、ただ世上に散在してゐる書翰の中には或は幾分漏れてゐるものがあるかも知れぬことを、念のために記しておく。(『真実』 71 頁)

という言明は、全くのはったりであったことになります。この、はったり、という評価は、あくまで石河が社説採録に際して誠実に仕事に取り組んだ場合に下される評価です。そして、その場合には、事実として石河には福澤直筆の社説を見極める力などなかった、という結論が導かれることになります。

福澤直筆社説の過半数を落としているという事実から、もう一つの可能性が導き出されます。それは、石河には直筆を判別する能力があったが、その力を誠実に用いることはせずに、福澤直筆のものをわざと採録しなかった、という可能性です。私はこちらの可能性のほうが高いと考えています。

というのは、落とされている社説には、福澤の署名入り著作や書簡の内容とは整合するのに、石河の『福澤諭吉伝』の記述とは矛盾するものがあるからです。そうした社説の最たるものが、日清戦争直前の 1894 年 7 月 5 日に掲載された「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」です。この社説は日本による朝鮮併合を厳しく戒めたもので、それまで金玉均ら朝鮮独立党を強力に支援してきた福澤の言動と適合的ですが、逆に、福澤の真の狙いは朝鮮を足がかりにして中国へ進出することだった、と主張する石河の伝記の記述とは整合しません。

興味深いのは、開戦直前の 1894 年 7 月には石河によって 24 日分の社説(大正版に 2 編・昭和版に 22 編)が採録されているのに、後に福澤直筆草稿が発見されることになる 7 月 4 日と 5 日の社説だけは採られていないことです。もちろん前後の 7 月 3 日と 6 日の分は昭和版に掲載されています。

日清戦争時には有力な社説記者となっていて日々編集部に詰めていた石河が、7 月 4 日と 5 日の社説を書いたのが福澤本人だとは知らなかった、などということがあり得るでしょうか? 知らなかったうえに、文体による判別もできなかった、と仮定しなければ、石河の誠実さを救う方法はないのです。

現行版全集には、1894 ・ 1895 年の 2 年間の社説 284 編が採録されていますが、そのうち戦後に発見されたのは、「衆議院又又解散」(1894 年 6 月 3 日)・「国立銀行」(6 月 22 日)・「兵力を用るの必要」(7 月 4 日)・「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(7 月 5 日)・「長崎造船所」(1895 年 4 月 6 日)の 5 編だけです。石河は現行版より前に、既に残る 279 編を大正版・昭和版正続全集編纂時に採録していたことになりますが、このうち直筆原稿が残存している社説はやっぱり 5 編です。つまり現在福澤直筆原稿が確認されている日清戦争中の 10 編についていうと、石河の全集採択率は 50 %にすぎないことになります。

石河が誠実であったとすれば、文体による判別はできなかった(「五分五分」ではそう言うしかないでしょう)ことになって、全集「時事新報論集」の信憑性は低まり、石河が不誠実で、『福澤諭吉伝』の論旨に合わせるために故意に福澤直筆の社説を落としていたとするならば、もはや「時事新報論集」を信頼することなど全くできない、というのが結論となります。(以上平山洋平石直昭宛書簡 2010 年 9 月 1 日発送)

見られるように、もし石河が社説選択において誠実にことにあたっていたなら、福沢直筆草稿社説の過半数が石河編纂の大正・昭和版「時事論集」に収められなかったのは奇妙なのである。とくに朝鮮併合に反対した「土地は併呑すべからず…」(1894 年 7 月 5 日掲載)が収録されていないのは示唆的で、本論集『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集』にこの社説が収められていないのと同様の不自然さが感じられる。この社説が杉田にとって不都合であるのと同じく、石河にとっても不都合だった、ということである。

(26)352 頁 2 行目「憶測だけで成り立つ平山説(7)」

平山の憶測は、他にもすみずみに及んでいる。もう一例だけあげれば、「社説記者の指導役のような役割を果たしていた」(同① 18)という波多野承五郎によって書かれた論説「大院君李夏応を論ず」(83 年 9 月 7 日~ 14 日に五回連載)は、福沢にとって「危険極まりないもの」であり、だから福沢はこれに対抗するために「兵論」(後に単行本として出版)を書いたと平山は記しているが(同① 25)、これまたあまりにもばかげている。危険極まりないと感じる論説、しかもーー当時『時事新報』は広告欄を除いて一号当たり三ページ程度しか紙面がないというのにーー一ページの半分近くを占める論説を、五回にもわたって載せるほど、『時事新報』の社主であり筆頭(もしくは唯一の)株主でありまた論説主幹である福沢(しかも「兵論」が書かれた八二年当時、福沢は時事新報社に施設まで提供している)は、無力でもお人よしでもない。

上条の註

1 .福沢は軍事学の専門家として対清強硬論に反対した

私は波多野の「大院君李夏応を論ず」への反論だけとして福沢が『兵論』を書いた、と言っているわけではない。福沢が『兵論』で反論しているのは、当時の若年層に横溢していた「清国弱し」と相手国を見くびる風潮全体である。『福沢諭吉の真実』(25 ~ 26 頁)にはこうある。

波多野と福沢の違い

朝鮮をめぐる清国との戦争にも勝利できるというこの波多野の考えは、『時事新報』の主宰者である福沢にとって危険極まりないものだった。波多野は、日本が清国より一足先に軍事力の近代化に乗り出したことと日本人の優秀性を根拠として戦争にも勝利することが可能であるとするが、福沢はそうした考えは勇み足であると判断していた。

同年九月九日から一〇月一八日まで『時事新報』に連載された福沢の『兵論』(八二・一一)は、従来まで、『時事小言』(八一・九)の延長として軍備充実を中心に租税増徴、官民調和の必要を述べたものとされてきた。しかし、壬午軍乱の勃発直後の八月上旬に書き始められ、福沢には珍しく脱稿前に連載が開始されて一〇月上旬まで執筆されていたことから見て、具体的には、朝鮮国内の混乱に乗じて早期に清国との戦端を開くべきだ、とする『東京日日新聞』の論調や、波多野を中心とする『時事新報』若手記者の勇ましい議論を牽制することを目的としていたと思われる。今清国と戦争をしても勝つのは難しい、というのである。

福沢はそこで清国の「兵備略」(軍事年鑑)に依拠してその軍事力の急速な強大化を示し、次のように述べている。「以上所記に由て之を観るに、清国にて近年海陸軍の改正を施したるは唯其一小部分なれども、其実数を見れば殆ど我日本国の海陸軍に等しきのみならず、海軍に至ては我国の一倍に近し」(⑤三一一頁)と。福沢のいう「一倍」とは「二倍」のことで、要するに福沢自身は清国を少しも甘くは見ていなかったのである。また別の部分では、「圧制政府の兵にても自由政府の兵にても、強き者は勝ち弱き者は敗す可し」(⑤三〇七頁)として、専制政府の軍隊だからといって戦意が低いなどと安易に考えてはいけない、と注意を喚起していたのであった。

従来の研究(例えば山川出版社刊『明治国家の成立』普及版(九六・九)三四八頁・坂野潤治執筆)では、創刊初年の『時事新報』は福沢が主唱して対清強硬論の論陣を張ったことになっている。ところが実際に紙面にあたってみると、強硬論と慎重論が並行して掲載され、福沢執筆と確定している『兵論』はむしろ慎重論に属しているのである。このことは、強硬論として対清開戦を唱えていた中上川や波多野と、開戦に消極的だった福沢との間に意見の相違があったことを意味している。(以上『福沢諭吉の真実』 25 ~ 26 頁)

実際に読んでみれば明らかなことだが『兵論』は開戦消極論に終始している。はっきりいって弱腰である。いや、弱腰と見るのは不適切かもしれない。幕末の福沢は陸軍運用法の専門家として熊本藩や仙台藩から招聘されるほどの軍事学者だったのであり、その専門家としての目からは、清国との戦争はあまりにもリスクが大きすぎる、という正当な判断に基づく論だったからである。

2 .富田正文による現行版「時事新報論集」各巻「後記」は、石河による「概説」のリライト

従来までの研究では、時事新報における福沢の対清国強硬論が当然の前提としてあり、その立論のなかで『兵論』はタイトルのみ挙げられるのが通例であった。福沢の時事論を語る場合の当然の前提としての強硬論は、石河が続全集の解説につけた各年毎の「概説」に由来している。例えば、続全集第 1 巻(1933 年 5 月刊)の「明治 15 年篇・本篇の概説」(1 頁)には、

此年七月朝鮮京城に大院君の変乱勃発し我官民も害を被った。先生は夙に懐抱せられた東洋政略の意見を此機会に大に披瀝せられた。爾来「時事新報」は対韓対支の政略論を終始一貫の主張として以て日清戦争にまで及んだ。

とある。この「概説」は現行版全集「時事新報論集」の富田正文による各巻の「後記」の原型となっていて、第 8 巻の「後記」にはこうある。

また「兵論」(本全集第五巻所収)「東洋の政略果して如何せん」等に於て、東洋に起ることのあるべき波乱をその未発に抑止するに足るべき兵力を充実することは、自から東洋の先導者を以て任ずる日本の責務であることを強調した。この東洋政略の論旨は終始一貫の主張として日清戦争にまで及んだ。(現行版全集第 8 巻 675 頁・ 1960 年 2 月刊)

要するに、現在の研究者が福沢の時事論を扱う場合に必ず参照する富田の現行版「後記」は、石河による続全集「概説」のリライトだったのである。

3 .創刊当初の時事新報の論調は、対清国強硬論ではなかった

時事新報が創刊された明治 15(1882)年は石河の入社前だから、ここでは彼が自分の社説を優遇するということはあり得ないが、立論の邪魔になる社説を排除した証跡はある。それは、昭和版続全集刊行から現行版全集刊行までの 27 年間に、福沢直筆原稿残存社説が 6 編、漫言が 1 編出てきたという事実である。

以下、現行版全集第 8 巻 676 頁にあるそれらを並べるなら、「立憲帝政党を論ず」(4 月 1 日)・「茶番新聞〔漫言〕」(4 月 1 日)・「朝鮮政略備考」(8 月 5 、 11、12、14 日)・「大院君の政略」(8 月 15、16 日)・「出兵の要」(8 月 18 日)・「朝鮮の事に関して新聞紙を論ず」(8 月 19 日)・「尚自省せざるものあり」(12 月 6 日)の 7 編である。このうち、8 月に掲載された「朝鮮政略…」から「朝鮮の事…」までの 4 編が東洋政略に関する論説で、これに 9 月 9 日から 10 月 18 日まで 18 回掲載された『兵論』と、「東洋の政略…」(12 月 7 、 8 日)で、この年の直筆残存の東洋政略関連社説はほぼ網羅できる。

現行版で新たに加えられた 4 編の掲載日数は 9 日、これに『兵論』の 18 日分を合わせると、1882 年 8 月から 10 月にかけての福沢本人の考えが分かるのだが、そこに示されているのは実は穏健慎重論ばかりである。強硬論に属するのは、「東洋の政略…」の一部で、しかもその主張は、日本にとって清国は脅威だ、と言うにすぎないものである。昭和版続全集までに採録されなかった社説をも含めて読むと、石河の「概説」は、実際の紙面の論調を反映していない。

この事実をどのように解釈するか。前条(25)で指摘した「土地は併呑すべからず…」排除ほどの意図的操作である証拠はない。しかしそうだとしても、福沢が関与するところ大であった創刊初年の時事新報の社説欄からさえ計 10 日分を見つけだすことができなかった石河には、福沢直筆の文章を選び出す能力はなかったことにはなる。つまり、前条に引用した平石宛書簡にも書いたように、石河が故意に福沢直筆の社説を排除したにせよ、見つけだす能力がなかったにせよ、いずれにしても、現行版全集の「時事新報論集」の信憑性は低いと見なさざるをえないのである。

(27)358 頁 12 行目「憶測だけで成り立つ平山説(8)註(15)」

(15)前記のように福沢が他記者を呼んで口述を筆記させる例があったことが知られている(97 年 6 月 24 日付⑱ 792)。その場合、もしその筆記に福沢が手を入れなければ、それはすべて他記者の筆癖で書かれることになるが、こうしてできたものは、井田や平山にとっては、福沢が全く関与しない、福沢の思想とは無関係の論説ということになるのだろうか。

上条の註

誰が書いたか、よりも誰の立案かが重要

全然ならない。福沢立案記者執筆(カテゴリーⅡ)の社説として、全集に収められるべきである。こうしたピント外れの註を読むと、杉田は拙著を理解できていないのではないか、という強い疑いを抱かざるを得ない。福沢の思想のうちに入るかどうかは、誰が書いたか、によるのではなく、誰の立案(アイディア)かによる、と私は最初から言い続けているのである。現行版全集の「時事新報論集」所収の社説は、石河自らが認めるように、多くは石河の起草にかかるものである。従来までは、そうだとしても福沢の立案なのだから許されるという評価が一般的だったが、私は石河の『修業立志編』の取り扱いへの不誠実から、その評価に疑いを抱いたのである。

(28)358 頁 16 行目「憶測だけで成り立つ平山説(9)註(16)」

(16)以上、平山説の検討のために私は「井田メソッド」にくり返し言及したが、念のため記せば、それは私が「井田メソッド」を信じるからではなく(それは部分的に参照しうる以上のものではない)、平山が依拠したと主張する「井田メソッド」によってさえ、平山説は全く無根拠であるばかりか、むしろ逆の結論になることを指摘するためである。

上条の註

杉田聡のような井田メソッドに熟達した研究者が判定すれば、平山以上に正しい結論が得られる

私は最初から、「井田メソッド」の有用性を評価すると同時に、その限界も指摘している。要するに、誰が下書きを書いたかまでは判別できる、とかなりひかえめに肯定しているにすぎない(『福沢諭吉の真実』 82 ~ 85 頁)。下書き自体を福沢が書いたなら真筆社説(カテゴリーⅠ)であり、それ以外は多かれ少なかれ社説記者の手が加わったカテゴリーⅡ以下の社説となり、その文面を見ただけでは福沢の立案かは分からない、といっているのである。

起筆の候補者は、福沢を含めて最大でもせいぜい 4 名程度にすぎず、しかも福沢と社説記者との年齢差は、最年長の石河でさえ 24 歳もある。つまり、杉田は、大学のゼミナールで指導教授とゼミ生が毎日輪番で 6 枚程度の小論文を書き続け、それを束にしたものを順に読んでいったとしても、どれが教授の書いたものなのか判別できない、と言っているに等しい。

それから、「井田メソッド」の援用についても誤解がある。私は井田進也の方法をまさにメソッドとして受け入れただけで、井田による語彙・慣用表現の判定表をそのまま利用したわけではない。先行研究に敬意を払いつつ、新たに自分で発見した特徴を加えたり、個性的とされていながら福沢以外の使用例が見つかった語彙を排除してもいる。「脱亜論」などで井田と私に判定上の食い違いが生じているのはそのせいである。

また、私は自分の判定が絶対であるとも思っていない。現に「忠孝論」は福沢真筆ではなかった。新聞初出紙面でその証拠が発見されるより前に、「井田メソッド」を用いて正しい結論を導き出した杉田のテキスト分析能力は高い水準にあると認める。「平山が依拠したと主張する「井田メソッド」によってさえ、平山説は全く無根拠であるばかりか、むしろ逆の結論になる」のではなく、「平山よりも井田メソッドに熟達した杉田聡のような研究者が判定すれば、平山以上に正しい結論が得られる」と言うべきなのである。

(29)383 頁 2 行目「付記」

ちなみに福沢真筆の「福沢全集緒言」には、やはり井田が言う石河の筆癖が、あるいは福澤的でないとされた筆癖が随所に目立つ。前者として、「雖も」「ならんなれども」「畢竟」「殆んど」「真実〔副詞〕」「逞う(う音便)」「否な」「最早や」「施設」等がそれである(井田 31、35、36、38、39、40、69)。後者としては「既に」「又」「固より」「尚ほ」「乃ち」「始めて」「初めて」等があげられる(井田 69、70、79、108)。福沢的ではないとされる「有難」(井田 77)も一度出る。福沢の表記としては微妙な「拠れば」も見られる(井田 38、40)。となると、「これはもう石河ーーもしくは他の記者(杉田注)ーーがサインしているようなものである」(井田 35)。

上条の註

「福沢全集緒言」は福沢真筆ではない

最初から最後まで福沢自身が原稿を書いた、という意味としてなら「福沢全集緒言」は福沢真筆ではない。その仕上げに際して複数の弟子が浄書に携わったことは、現行版全集第20巻掲載の「福沢全集緒言草稿断片」に明らかである。すなわちその註に、

墨刷りの時事新報社原稿用紙を貼り継いだものに認めたもので、筆蹟は福沢の自筆でなく、冒頭の約七十字のみ福沢自筆の書き入れがある。察するに全集緒言の初稿を人に浄写せしめ、それに加筆したものであろう。発表された緒言とは著しい相違があるから、この一節は全面的に書き改めたものであろう。(402頁)

とある。上条において杉田は、実際に石河やその他の弟子が担当した部分について正しい指摘をしているのである。