『回顧七十年』 その5

last updated: 2013-01-23

立憲同志会結党のころ

帰朝してみると、桂公は病に罹りて薨去せられ、後藤新平、仲小路廉の両氏は去り、新政党に対する世間の評判は香しからず、政界におけるわれわれ同志の前途はすこぶる悲観すべきものであったが、それでも新政党組織の準備は着々として進められ、十二月二十三日いよいよ立憲同志会結党式を挙行し、加藤高明を総裁に推し立てた。

大正二年十二月二十四日、第三十一議会が召集せられた。 衆議院の党派勢力は政友会二百三人、同志会九十三人、国民党四十人、中正会三十七人、無所属七人であって、政友会は山本内閣の与党であるから、議会の大勢はおして知るべきである。

ところが一月下旬、突如海外電報によりて海軍収賄事件なるもの暴露して天下を驚かし、政界に風波を捲き起こし、国民の疑惑は山本首相を包囲して与論囂々ごうごう、内閣弾劾の猛火は院の内外に蔓延して、政府の弾圧をもってするもこれを打ち消すことはできない勢いとなった。 衆議院の野党は連合して内閣弾劾案を提出し、また予算案中の海軍拡張費七千万円削除を主張したれども、いずれも政友会の多数に圧倒せられ、衆議院においては内閣の死命を制することはできなかったが、与論の勢いは遂に貴族院を動かして、貴族院は衆議院を通過したる前記海軍拡張費七千万円を削除し、両院協議会の結果予算不成立となりたるがため、大正三年三月二十七日、山本内閣は辞職し、四月十六日、大隈内閣の成立を見るに至った。

大隈内閣は同志会を基礎として組織せられ、加藤総裁は外務大臣として内閣の中堅たる地位を占めらるるに至ったから、われわれ同志会員は初めて蘇生の思いをなした。 もしこの時大隈内閣の成立を見なかったならば、同志会の前途は実に憂うべく、私のごときもあるいは選挙区より見棄てられて再び起つあたわず、政界より葬り去られたか分らない。 しかるに大隈内閣成立するや国論は一斉にこれを歓迎し、同志会に対する世間の人気も急に好転するとともに、選挙区の事情も一変するに至った。 世の中は妙なものであると思うた。

同年七月二十五日長男重夫が生れた。

大隈内閣は五月、七月、九月の三回に臨時議会を開きたるが、第一は昭憲皇太后大葬費予算、第二は海軍補充費予算、第三は対独戦争軍事費予算および時局緊要の諸案であるから、野党たる政友会もこれに反対することも出来ず無事に終了し、続いて十二月五日、第三十五議会が召集せられた。 本議会においては政友会が政府案に賛成するわけはない。 結局政府提出の師団増設その他の重要法案を否決したがため、二十五日衆議院は解散せられて、翌四年三月二十五日、総選挙を行うことになった。

私は第二回目の選挙に臨む考えであったが、但馬の形勢は大分複雑して他に野心家もいるから、如何に成行くか確かなる見込みは立たぬ。 しかしとにかく一月八日出発、帰但して各郡の有志と会見し、議会解散の報告をなし、情勢を探りて十八日帰京し、三十一日再び帰但して二月三日帰京した。 七日には若槻大蔵大臣とともに演説会のために三度但馬へ赴くことに決めたが、数日前より長女静江(四歳)が重病に罹りて危篤の状態に陥り、医者は今夜のことも保証されないから出発を見合せたらどうかと言うたけれども、すでに大臣の出発も演説会の日割りも決めてあるから、これを延期することも出来ず、運命を天に委せ後髪を引かるる思いをなしつつ夜汽車に投じた。

名古屋に着き電報を受け取って見れば、病気危篤とあり、終夜一睡も得ること能わず、翌日正午豊岡に着すれば、降雪盛んにして交通ほとんど杜絶の有様である。 人力車に先挽きと後押しを付けてようやく三里を隔つる出石町に赴き、演説会を済ませ直ちに豊岡に引返して夜の演説を終り、城崎に赴き投宿した。

翌朝大臣の出発を見送りて急ぎ東京への帰途に上った。 電報を手にして見れば、病気回復の望みありと、やや愁眉を開いた。 二月二十日四度但馬に赴き、これより連日連夜東奔西走、例によりて演説や有志訪問、またある時は戸別訪問までも余儀なくされたが、遂に三月二十五日は到来した。 開票の結果は十一名の定員中第八位に当選した。 その当選者は左のごとくである。

  • 下岡忠治
  • 多木久米次郎
  • 小寺謙吉
  • 川口木七郎
  • 中川辛太郎
  • 肥塚竜
  • 堀豊彦
  • 斎藤隆夫
  • 横田孝史
  • 鹿島秀麿
  • 広岡宇一郎

全国開票の結果は続々と現われ、予想外に政府党が大勝利を占めた。 即ち同志会百五十人(改選前九十五人)、政友会百四人(改選前二百二人)、中正会三十五人(改選前三十六人)、国民党二十七人(改選前三十二人)、他に無所属六十五人となった。

五月十七日召集せられたる解散後の特別議会は無事に終了し、十月十日より京都において大正天皇即位の大典挙行せられ、私ら議員は参列の光栄に浴することを得た。

十二月一日第三十七議会召集せられ、政友会、国民党は野党として政府に反対したれども少数にて如何ともする能わず、議会は無事に終了して、翌五年二月二十九日閉院式が挙行せられた。 本議会において私は議院提出の人権保護法案に賛成の演説をなし、熱弁を振うて尾崎司法大臣弾劾に及びたるがために与党に衝動を与え、一時脱党騒ぎまで惹起したるは私にとりては特筆すべき一事である。

同年七月十四日次男高義が生れた。