『回顧七十年』 その30

last updated: 2013-01-23

近衛公に意見書を出す

六月に入りてから、政治界は活気を帯びて来た。 二十四日、近衛公が枢密院議長の職を辞して、新体制を高調し、新政党組織に乗り出すとの新聞記事が現われたから、二十六日付をもって、公に対し左の意見書を郵送した。

新政党の組織と新体制の確立については、確固たる決心と周到なる用意あることと確信すれども、このこと極めて重大にしてかつ困難なり、万一指導を誤り蹉跌を来すことあらば、政界を混乱せしめ国内の秩序を破壊するの恐れあり、よって三十年来政治生活の経験に基づき、左の卑見を列挙してご参考に供す。

  • 一、新政党はあくまで憲法の大精神に基づく立憲的政党たるべく、かりにもナチス、ファシスト等外国模倣の意義を含むべからず、しかるに近時新政党に加入せんとする団体または個人の中にはひそかにかかる意図を抱蔵し、すでにこれを公言せる者あり、警めざるべからず。
  • 二、新政党は徹頭徹尾国民の自由意思に基づく自然的結合なるべし、権力、威力、暴力を利用濫用して、民意を弾圧する磯械的偽装的の結合なるべからず。
  • 三、新政党は一国一党を絶対的のものとなし、反対党の存在を否認するがごときものなるべからず。かくのごときは立党政治の破壊なり。
  • 四、政党員なると否とを問わず今日わが国の政治家中、真に己を棄てて国家のために犠牲的精神をもって事に当らんとする者なく、彼らはあらゆる場合に当りて自己救済の動機より出発し、公私の名利を追求(注1)する雑輩に過ぎず、政党を率ゆる者はこの心裡を観破せざれば、不測の禍を招くべし。
  • 五、政党幹部中には国政に対して何らの識見を有せず、議会の内外において何らの政治的意見をも表白する能わずして、常に権勢に阿付し、政党的技工を弄し、もって一身の栄達を図らんと欲する者少なからず、俗にこれを政党屋と称す。政党を毒する者はこれらの徒なり、新政党はこれらの分子を一掃するにあらざれば、党内の紀律と廓清は望むべからず。
  • 六、学問上の素養なくして妄りに空論を鼓吹し、あるいは思想感情来歴等を異にする雑輩を網羅して、これを統制するはすこぶる困難なり。
  • 七、各方面より新たなる人材を集むるは可なり。しかれども財界人は無能なり。学者その他知識階級と称せらるる者は空論に馳せて実際政治に迂遠なり。軍人、職業的浪人らは言うに足らず。その他国内を見渡していずれのところより多数の人材来りて新政党に投ずるやを知らず。
  • 八、選挙に際し当選の可能性ある者にあらざれは政党員として重きを措くに足らず、院外烏合の衆はかえって累を及ぼすべし。
  • 九、中央において新政党を組織するも、地方における既成政党の地盤は容易に抜くべからず、このこと選挙に当って如実に現わるると同時に、人物停滞の原因もまたここに存す、これを改善するの方法は現在の選挙区制を撤廃して全国を一選挙区となすにあり、別冊「全国一選挙区比例代表制を提唱す」は十数年前の所説にしてこのうち比例代表制はなお攻究の余地あれども、選挙区制の撤廃は政党革新の根本要義なれば、速やかにこれを断行すべきなり。
  • 十、新政党組織は決して新政治体制そのものにあらず、目的は前者にあらずして後者にあり、新政治体制の意義不明なり、速やかにこれを具体化して運動を開始するにあらざれば、国家に益するところなし。
  • 十一、近年政治革新論旺んなれども、いずれも抽象的空論に堕し、これを具体化して断行せんとする者を見ず、百の議論あるも一の実行なきものは政治に非ず。
  • 十二、自由主義、全体主義、個人主義、国家主義等の論争は白面書生の遊戯なり、政治に主義なし、否国家の実情に適当する政治これ則ち最上の主義なり。
  • 十三、政党の不振は時代の圧力によるも、一は統率者その人を得ざるにあり、既成政党の統率者のごときは政治家にあらずして一種の商人なり、政党の不振は当然なり。
  • 十四、政党は各種の政策を羅列してこれを公表するも、いずれも実行力なき空文に過ぎず、国政の実際と交渉なし。
  • 十五、新政党の主義政策はいずれも科学的根拠を有する合理性のものなるべく、決して迷想的のものなるべからず。

その後、新政党組織は新体制組織と変り、公は軽井沢の別在に赴きて新体制の構想を練ることになったが、七月七日記者団との会見において、公の抱懐する新体制は、第一、絶対に憲法の許容範囲内において遂行せらるべきこと、第二、新体制の確立に当りては、断じて権力の濫用を回避すること、以上の二条件が公にせられた。 また帰京後記者団の問に対し、新体制は断じて一国一党を標傍するものにあらずと明答せられしことは、私の意見書、第一条ないし第三条と全然一致するものである。

七月十二日、米内内閣辞職して翌日近衛公に組閣の大命降下し、二十二日、第二次近衛内閣が成立した。 これより政党界に大動揺起こり、十七日政友会久原派解党し、二十五日民政党代議士四十名は脱党を決し、二十六日国民同盟解散し、三十日政友会中島派解党し、八月十五日民政党解党し、ここに至りてわが国六十年来の政党はことごとく解党してその隻影を留むるものなく、時代の変遷実に驚くべしである。

八月九日、近衛公に対し第二の意見書を郵送した。

新政治体制創設について已に声明せられたる

  • 一、憲法の範囲を逸せざること
  • 二、権力の濫用を回避すること
  • 三、一国一党を固執せず他党の存在を認むること

以上の三原則に賛意を表す、さらに左の諸点を追加す。

  • 一、政治体制を変革せんとするに当りては、憲法および政治学上の基礎的素養を必要とす。
  • 現今の政党政治家、右翼陣営、左翼転向者これらの間にその人あるやを疑う。
  • 二、近時言論界に現わるる新政治体制論はいずれも学理上および実際上の根拠を欠き、取るものなし。
  • 三、新政治体制は立憲君主制の根本に触るるがごときことを避けざるべからず。
  • 四、新政治体制創設に当りては、維新詔勅および憲法発布詔勅の聖旨を奉戴し、苟且かりそめにもこれにもとるがごときことあるべからず。
  • 五、新政治体制は憲法上における立法、行政、司法の独立運行を紛淆阻礙そがいするがごときことあるべからず。
  • 六、選拳法の根本的改正を要す。政府属僚の立案内容は推知すべし。選挙区制を全廃するにあらざれば政党の改造は断じて望むべからず。候補者の推薦、指名、公認等は情弊纒綿、裏面運動その他罪悪を誘発するのみならず、決して人材を得るの途にあらず。
  • 七、時流をうて走る政党政治家の大言壮語、示威的策動のごときは一切顧みるに足らず。
  • 不覇独立の識見をもって大業の完成を望む。
  • これと同時に現今わが国の憂いは政治体制の如何に在らずしてむしろ政府が内外国策を確立し敢然としてこれを断行する能わざるに在ることを記憶せらるべし。

以上

八月二十三日、近衛公他二十六名の新体制準備委員会が発表せられ、その目的機構について審議を重ねることになったが、その経過が新聞に発表せらるるものを見ると、学理上の根拠と、実際の運用に幾多の疑義がある。 よって九月十九日、公に対しさらに第三の意見書を郵送した。

新政治体制の前途実に憂うべきものあり、しばしば忌憚なき卑見を呈するは国家を思うが故なり。

  • 一、新政治体制は全く「ナチス」の模造なり、これを国情を異にするわが国に輸入して果して運用し得るか大なる疑問なり。
  • 二、非常時局に処する国家機関の組織は簡単を旨とし複雑を避けざるべからず、新体制はこれに逆行す。
  • 三、わが国の立憲制は全く大政翼賛の基礎に立脚す、これを新体制独創のごとく自称するは僣上のそしりを免れず。
  • 四、今日の要務は政府軍部一体となり、全機能を挙げて内外国策を断行するにあり、国民は生命自由財産を挙げて無条件これに服従す。政治体制変革のごときは、国民の関心するところにあらず。
  • 五、新体制の指導力強化と称して民意を弾圧し、不当に国民の政治的自由を拘束するがごときことあらば、民心内に鬱結して恐るべき反動起こるべし。
  • 六、国務の遂行は制度にあらずして人にあり、新体制の要部にその人を得ざれば、国民軽侮の標的となるべし。
  • 七、言論機関はその筋の命令により新体制を批評する能わざるも、国民はあらゆる階級を通じて恐懼の念に蔽われ、内外の情勢ますます急迫を告ぐるにしたがい、民心の不安いよいよ加わる、政府最大の注意を要す。

新体制準備委員会は、その後審議を終り、十月十二日大政翼賛会発会式が挙行せられたが、見ればその目的と組織も極めて杜撰ずさんなるものであるから、他日必ず問題が起こり、攻撃の的となるに相違ない。

昭和十五年は不愉快の間に過ぎ去りて、十六年を迎うるに至った。

昨年第二次近衛内閣成立以来、選挙法改正の問題が起こり、官僚安井内務大臣のもとに現われたる改正要綱を見るに、議員定数の減少、家長選挙権、候補者推薦および公認制など憲法と相容れざるもの多きにかかわらず、議員らは断乎これに反対するの意気なく、かえってこれに妥協せんとするの傾向が見ゆる。 安井内相辞職して平沼男爵(注2)これに代るに及んで、選挙法改正の熱度やや冷却せるがごとくなるも、その運命なお測り難きものがある。 よって一月八日、平沼内務大臣に宛て左の意見書を郵送せり。

国家の現状に鑑み、選挙法改正は断然中止せらるべし。

  • 一、事変遂行上幾多の緊急国策を審議すべき戦時議会において、比較的緊急性を有せずかつ内容未熟の選挙法改正を企て、議会の論争を惹起するがごときは為政家のなすべきことにあらず。
  • 二、従来、議会の行動には非難すべきものなきにあらざるも、さりとて議会は決して事変遂行上必要なる政府の政策を阻止したることなく、名実ともに挙国一致の実を挙げ、政府を援助し来れり。殊に政党解消後の今日に至りてはますますその傾向の著しきものあるを見る。しかるに何の必要ありてこの際選挙法改正をなさんとするか。
  • 三、選挙法改正によりて、議員の素質を改善し得べしと思うは、選挙界の実状に通ぜざる空想に過ぎざるは過去の事蹟これを証して余りあり。
  • 四、大選挙区、戸主選挙権および定員減少のごときも軽率に断ずべからず。憲法運用の根本法を改正するに当りて理性に基づかざる一時の反動思想、または一部好事家の遊技に乗ぜらるるがごときは慎まざるべからず。
  • 五、事変以来国家の憂いは議会および政党の行動にあらずして、むしろ政府、軍部渾然一体となりて内外国策を確立し、敢然としてこれを断行する能わざるにあり。政府国策を断行すれば国民は無条件これを援助すべし。議会制度改革のごときは、非常時国家の急務にあらず。
  • 六、時流を趁うて走る浅薄なる革新論に耳を貸すべからず。いわんや選挙法改正をもって革新政策の重大事項なりとするがごときは誤れるのはなはだしきものなり。
  • 七、この際前任者よりの行掛りを一掃し、大局の上に立ちて再考せらるるこそ賢明の処置なりと思わる。

私の意見書送付後数日にして、平沼内相は選挙法改正中止を明言せるは、これまた私の意見と一致するものである。

四月三十日はいよいよ総選挙が行わるべく、一日千秋の思いをなしてその日の近づくを待ちたるに、一月二十二日、政府は選挙法改正を中止し、議員の任期を一年延期すべく決定せる旨を発表せり。 私にとりては意外の打撃なれども如何ともするに途なし、さらに一年待たねばならぬ。 前途暗澹心中不安に堪えず。

七月十六日第二次近衛内閣辞職し、翌日大命再降下し、十八日第三次近衛内閣成立す。

八月四日、田辺内務大臣に宛て、選挙法改正中止と総選挙断行につき左の意見書を郵送せり。

私は選挙法改正に関し、本年一月八日平沼内務大臣に対し、別紙意見を呈せり。 偶々たまたま政府の処置は私の意見と一致したることを喜ぶ。 よってこの際新内務大臣に対して同一趣旨を進言するとともに、さらに左の事項を追加す。

  • 一、選挙法改正は常時の政策となすべく非常時の政策となすべからず。ことに今日の時局は選挙法改正なぞを企つる時にあらず。現行選挙法が時局の克服国策の遂行に支障あらば、改正すべきも断じてその憂いなきは別紙に認むるごとし。
  • 二、昨年新体制の名に幻惑せられ一時勃興したる浅薄なる革新論と、理論に基づかざる反動思想に促され急造立案したる改正要項のごときは、その後思想のやや平静に復したる今日より見れば、全く有害無益の愚案たることを覚らるべし。
  • 三、如何なる改正案を提出するも、議会の紛争を惹起し政府は窮地に落るべく、戦時議会に避けざるべからず。
  • 四、時局の大勢定まるの後、立憲制度の運用については根本的に攻究の必要起こるべく、選挙法改正はこれと併行すべし。
  • 五、明年議員の任期終了と同時に総選挙を断行し、人心を一新すべし。
  • 六、全国民に対し時局の認識を徹底し、人心を一新するは総選挙より有効なるものなく、空疎なる翼賛運動のごときは言うに足らず。政府ここに気づかず、かえって総選挙を忘れ、名を時局に借り議員と共謀し、公明なる理由なくしてみだりにこれを延期す。憲政を歪曲し議員の堕性を助長し、国民の不満を招き、思想上に及ぼしたる影響決して少なからず。前内閣失政の大なるもの、断じてこれをふたたびすべからず。
  • 七、日清、日露の二大戦役に当りては、宣戦布告後一か月内に総選挙を行いたる実例あり、深く顧みざるべからず。

十月十六日、第三次近衛内閣辞職し、翌十七日東条陸軍大将に組閣の大命降下し、十八日、新内閣成立す。

十一月二十五日、東条総理大臣兼内務大臣に宛て、総選挙断行と選挙法改正中止について前記田辺内務大臣に宛てたると同様の意見書を郵送し、続いて十二月一日、貴衆両院議員、政府首脳部および主なる言論機関に宛て、総選挙断行の意見書約一千通を郵送せるが、その効果現われたるや否やは知らざれども、越えて四日、政府はいよいよ総選挙断行の旨を発表し、私も一先ず安心するに至った。

脚注

(1)
原文では「追及」と表記されている。
(2)
民生書院版、中公文庫版ともに「爵」が抜けていますが、脱字でしょう。