「『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集』の逐条的註」 その2

last updated: 2015-03-12

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1 . 5「第二章 朝鮮・中国論 ア、壬午政変」に関して

(5)55 頁 10 行目「江華島事件と福沢(解題)」

当時、福沢は江華島事件や江華条約については、具体的に何ら評論していない。同事件後「征韓論」を問題にしたことはあるが(「アジア諸国との和戦はわが栄辱に関するなきの説」、『郵便報知新聞』 75 年 10 月)、そこで福沢は「{朝鮮は}アジア州中の一小野蛮国……たとい彼{朝鮮}より来朝してわが属国となるも、なおかつこれを悦ぶに足らず」(⑳ 148)と記した上で、征韓論を逐一批判した。もっともここでの論点は、後にすべて捨てられる。福沢が後にこれを「迂闊」だったと後悔した(富田 582)のは、当然であろう(すでに福沢は、一年半後には、「今の一雲揚艦は秀吉の水軍全隊に当るべく」とむしろ井上良馨艦長の陰謀を称賛してさえいる。77 年 2 月 4 日「朝鮮は退歩にあらずして停滞なるの説」⑲ 619)。

上条の註

福沢は一貫してアジアへの軍事侵攻に否定的だった

そんなことはない。福沢は「アジア諸国との和戦…」発表後も一貫してアジア諸国への軍事侵攻に否定的だった。署名著作と、「土地は併呑すべからず…」など、福沢とはっきり分かっている社説を読むかぎり、そうである。というのも、すでに植民地化されているアジア地域に侵攻すれば、西洋文明国である英・仏・蘭など宗主国との戦争を覚悟しなければならず、といって残余のアジア地域を侵略しても経済的利益が乏しいからで、非侵略論はアジアの人々の民族意識に配慮したためではなかった。やっても得にはならんだろう、というのは福沢らしい実利主義で、綺麗事を言っていない分だけより本心によるといえる。

朝鮮独立運動への支援も、隣国が親日的独立国家になれば安全保障上も貿易上も日本にとって利益になるからで、無私の志からというわけではない。朝鮮国のことは朝鮮人が考えるべきで、それゆえにその日本による領有には反対したのである。署名著作・書簡・無署名でも関与したと証明できる社説等に、杉田や安川寿之輔ら福沢批判者が唱えるような、侵略的絶対主義者を証明する言辞は発見されていない。しばしば引証されている『通俗国権論』(1878 年 7 月刊)第 7 章「外戦止むを得ざる事」で福沢は、祖国防衛のためには西洋諸国との戦争を覚悟しなければならないということを、また『時事小言』(1881 年 9 月刊)第 4 編「国権之事」において、隣国政府が弱体である場合は、自国を守るためにもその支援を強力に行うことは許される、と言っているだけである。

(6)70 頁 13 行目「8  喉笛に食いつけ(漫言)(註)」(1882 年 8 月 2 日掲載)

唐の豚尾国 豚尾とは清人男性の弁髪を揶揄した言葉。「豚尾」「チャンチャン」という、当時多かれ少なかれ用いられたこれらむきだしの差別語・侮蔑語を福沢も当たり前のように用いるが(「平壌陥りたり」94 年 9 月⑭ 568、39 番「横浜の小新聞」同 10 月→本書 239 頁、漫言「支那軍艦獲得の簡便法」同年 8 月⑭ 504、33 番漫言「支那将軍の…」同 9 月 211 頁、漫言「明治二八年のお年玉」95 年 1 月⑮ 5 ~ 6、漫言「償金は何十億にても苦しからず」95 年 3 月⑮ 97)、これは、日本国民のうちに中国・中国人を見る際の、抜きがたい差別意識を植えつけるのに役立ったであろう。しかも福沢の場合、「豚」(漫言「降参の旗章」同 7 月⑭ 447)、「きたねえ」(漫言「浮世床…」同前)、「乞食」「虱の移る恐れ」(漫言「降参の旗章」同 7 月⑭ 447)、「乞食流民」「下郎輩」(「支那の大なるは恐るるに足らず」同 9 月⑭ 574)、「腐ったようなきたねえ」「木虱が移る」「湯に入ったことがない」「変な臭気を放ち」(33 番漫言「支那将軍の…」同 9 月→本書 212 頁)、「腐敗」「ぼうふら」(「清朝の覆滅は日本の意にあらず」95 年 2 月⑮ 80)、などという非常に野卑で扇情的な言葉で中国人を呼ぶもしくは形容することがある。社説・漫言に限らず「豚尾」を揶揄する漫画が『時事新報』に載ることもある。例えば 94 年 9 月 30 日、10 月 7 日付。前者は英新聞からの転載だが、説明文の'queue'(弁髪)はあえて「豚尾」と訳されている。そして漫画で清人もしくは清兵が描かれる際、ほとんど常にその弁髪が揶揄の対象になっている。支那兵をすべて豚として描いた漫画もある(同 7 月 12 日付)。これらが、「文野の戦争」つまり野蛮を文明化する戦争という自己合理化とならんで、いや感情に訴える点では恐らくそれ以上に、日本の中国侵略を正当化する役割を果たしたと考えられる(姜徳 54 参照)。なお福沢は晩年になってから、自らまいた種の重大さに気づいたのかもしれない。「〔支那を〕決して因循・姑息〔旧弊に従い間に合わせの態度をとる〕をもって〔であると〕目すべからず。いわんやチャンチャン、豚尾漢など他を罵詈するがごときにおいてをや〔ましてや…はしてはならない〕」と記しているが(「支那人親しむべし」98 年 3 月⑯ 286)、この偽善的な姿勢は一体どうしたことだろう。

上条の註

1 .時事新報の漫言欄には記者なら誰でも書けた

大正版全集に漫言が収められるようになった経緯は、『福沢諭吉の真実』(93 頁)に書いた通りである。大正 12(1923)年に慶應義塾から福沢伝の執筆を委嘱された石河は、図書館内に伝記編纂所(現福沢研究センター)というオフィスを構え、そこで福沢書簡や真筆草稿の収集を開始した。そこに福沢による数編の漫言原稿が寄せられたので、石河はそれらを大正版全集に収める一方、伝記にもエピソードとして盛り込んだのである。福沢筆と確認されている漫言に、「むきだしの差別語・侮蔑語」は確認されていない。

ここで杉田が批判している漫言の執筆者は、実はまったく不明である。というのも、漫言を専門に担当する記者がいたわけではなく、時事新報記者ならば誰でも書くことができたからである。また、社説欄担当の石河が、福沢の草稿は残されていないこれらの漫言をどのような基準で選んだのかについても明らかではない。変だ、と全集編纂の手伝いをしていた富田正文が思ったとしても、福沢無関与の証拠など出せるわけがないから、石河が、「これらの漫言を福沢先生が書くのをこの眼ではっきり見た」と言えばそれで終わりとなってしまうわけである。

しかしそれではあまりに不自然すぎる。福沢には、杉田があげた「シナ人親しむべし」という、民族蔑視を厳しく戒めた社説があるばかりでなく、その社説が発表される 10 日前には、同趣旨の演説をしているのである。だとすると、杉田のように「この偽善的な姿勢は一体どうしたことだろう」などと思い悩む必要はなく、民族蔑視をしないのが福沢の真の姿で、そうした言葉が使われている社説や漫言はすべて偽物と判定すればよい、と結論づければよいのである。

2 .福沢には民族蔑視を厳しく戒めた演説と社説があるー『福沢諭吉の真実』より

この件についてかつて私は『福沢諭吉の真実』に次のように書いている。自分としては大変重要な部分だと考えているのだが、あまり引用されることがないので、以下では少し長めに引きたいと思う

これまで気づかれてこなかったことだが、福沢が『時事新報』社説欄に連載してのち単行本化した著作は『実業論』(九三・五)が最後である。確かにそれ以後の『福翁百話』(九七・七)なども、単行本化に先立って新聞に連載されてはいる。しかしそれらは社説欄とは別のところに掲載されたのであった。日清戦争を挟む四年のうちに、漠然とではあるにしても、『実業論』をもって福沢は『時事新報』の社説から身を引いた、と当時の読者は考えたのではなかろうか。

また国府津での避暑から戻った九二年秋以降の書簡を虚心坦懐に読み返しても、福沢が毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることはできない。確かに自らが立案した社説についての指示は残されている。九二年九月から倒れた九八年九月までの六年間に社説に言及している書簡は一九通確認でき、そのうち一二通は石河のもとに保存されていたものである。それらの中で扱われている社説の総数は約二五編である。同じ期間について大正版「時事論集」には五九編、昭和版ではそれに加えて六五六編もの社説が収録されている。二五編にかかわっていたのだから残余の七百編近くにも関与していたであろうというのが従来までの解釈であった。

とはいえ、もし関与があったと仮定すると、非常に奇妙なことになるのである。石河が伝記で述べているように、『時事新報』には福沢の生涯にわたる指導があり、社説の論調は一貫して福沢が決定していたのだとしたら、同じ時期に発表された社説の相互に大きな矛盾が生じることはない。そこに変化があるとしても、それは福沢が考えを改めるに応じた、非常にゆっくりしたものになるはずである。最初は民権の獲得を重要視していたのに、二〇年を経てみるといつしか国権の拡大ばかりを言うようになっていた、というような、気づかれにくい変更となろう。

ところが、現行版の「時事新報論集」における論調の変化はそのようになっていない。石河が主導権を握った一八九二年頃から一挙に清国人・朝鮮人蔑視の傾向と領土獲得の要求が強まる一方で、ごく稀に、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』の頃とほとんど同じ調子の真筆社説が掲載されるようになっていくのである。「支那人親しむ可し」もその一つであるが、もしも石河がその時期に至っても完全に福沢の言いなりだったとしたら、その論旨と相対立する民族偏見論説は発表できなかったはずである。ところが安川によれば、実際には、「支那人親しむ可し」(九八・三・二二)の後にも「支那に対して更らに要求す可きものあり」(九八・四・二七)や「対韓の方針」(九八・四・二八)のような恥ずべき社説が掲載されている。これは、もうこの時期には、福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった、ということを意味している。

逆に、安川が主張するように、民族偏見論説を書いている姿のほうが当時の福沢の実像であったとすると、「支那人親しむ可し」のようなまともな論説を執筆する必要がどうしてあったのか、ということについての説明が困難になるのである。

石河が書いていた社説は、今日の目で見れば恥じるべきものであるとしても、一八九八年当時は特にそのようには受け取られていなかった。いやそれどころか事態は一九三三年に至っても同じで、石河は自分の書いた論説を『続全集』に収めることで福沢の名声をより高められると信じていたのである。そうであるなら、あえて「支那人親しむ可し」を執筆しなければならない理由など全くない、ということになるであろう。この点について、安川はその主張を「嘘」と断じてはいるが、なぜそんな嘘をつかなければならなかったのかについて何の説明もしていないのである。

所収の論説は全て福沢を体現しているという石河の主張を真に受け、さらに安川の考えと整合させるためには、日清戦争後の福沢は狂ったように日々石河に民族偏見論説を起筆させ、ある時突然我々の想像もつかない理由から「清国人を蔑視してはいけない」という嘘八百の(しかも今日の目ではごくまっとうな)真筆論説を発表した、ということになる。こんな馬鹿げた話を信じる者はいないのではなかろうか。(以上『福沢諭吉の真実』 176 ~ 179 頁)

繰り返して言うが、「シナ人親しむべし」の福沢の態度を偽善ととる必要はない。それこそが本心で、民族蔑視の含まれる、福沢関与の証拠のない社説・漫言はすべて偽物と判断すれば、それで万事解決するのである。

(7)87 頁 1 行目「11  東洋の政略はたしていかんせん(本文)」(1882 年 12 月 11 日掲載)

豚尾の兵隊は黒煙とともに上陸して、さて侵略・分捕りの一段にいたり、勝に乗じて乱暴をたくましゅうするは、必ず怯者のことにして、多年来、外国兵と戦って常例のごとくに敗走したる支那人が、千載一遇、いやしくも日本人に打ち勝ちたりとあれば、その惨酷無情、想いみるべし。

上条の註

波多野承五郎の下書きを福沢が浄書した「東洋の政略…」

本社説「東洋の政略はたしていかんせん」は、福沢の草稿残存社説である。にもかかわらず「豚尾の兵隊」などと差別語が使われているのはどうしたことか。『福沢諭吉の真実』の執筆中にこのことに気づいた私は、さっそく福沢センター所蔵の実物を閲覧したところ、その原稿は浄書であることが判明した。そうした訳でこの社説は波多野承五郎起筆で、福沢がそれに大幅に手を加えたことによって、もとの原稿が読みにくくなり、掲載にあたって福沢が浄書をした、というのが私の結論である。

この推測は、『福沢諭吉の真実』の原型である『時局的思想家福沢諭吉の誕生』「大正版『福澤全集』「時事論集」所収論説一覧及び起筆者推定」(初出 2004 年 9 月)に記載されている。杉田は本論集の解説(343 頁)で、『福沢諭吉の真実』において私が「東洋の政略…」が草稿残存社説であることを隠したかのように書いているが、それは誤解である。「起筆者推定」は、本論集参考書目中にも挙げられている拙著『福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり』の巻末に再録されていて、その末尾より 25 頁の註(3)にも注記してある。