古井戸氏と平山氏の質疑応答から

last updated: 2015-03-13

「脱亜論」について / 日清戦争は侵略戦争ではないか / 「時事新報」について / 福沢と石河幹明の関係について / なぜ「遠山・服部」を批判するのか / 『福沢諭吉の真実』について / 「朝鮮を支配」するという福沢の考え? / 出版界で福沢は何を為したか / 平山氏の「脱亜論」評価についての疑問 / 遠山の著書について / 日清戦争時の福沢と石河の関係は? / 平山氏が石河を批判した理由について / 福沢が抱いていた「危機意識の本質」とは / 「清国への意識」は「西欧に対する警戒心」のあらわれではないのか? / 「清国への意識」を持つほどの余裕は無かった / 「時事新報社説は福沢の思想・意見を反映していた」とみなすべきではないか? / 政府の監視を恐れるが故に、福沢は社説・論評の確認を怠らなかった筈では? / 約 6000 号の社説を、福沢が全てチェックできたのだろうか / 管理人による註

このテキストは、以下のエントリーの本文・コメント欄にて交わされた、古井戸氏と平山氏のやりとりを参考にしたものです。 前半は、平山氏の解答をベースにし、各テーマ毎に並び替えて、質問→回答という形にしてみました。 後半は、平山氏のコメントのみ抽出し、適宜古井戸氏のコメントをひく、という体裁をとりました。 なお、リンクの作成などのため、文章を一部改変しています。

元となったエントリーを参照するときは、各ページに記載してあるリンクから飛んでください。

なお、古井戸氏による他のエントリーは以下の通りです。

So-net blog:試稿錯誤:福沢諭吉の真実: 平山洋さんからのコメントとわたしの回答 / So-net blog:試稿錯誤:福沢諭吉の真実 その 2  平山洋さんの回答 と 質疑

「脱亜論」について

「脱亜論」の位置づけ
論説「脱亜論」は、当時の専制国家清国とその影響下にあった朝鮮国を批判する、すぐれた論説である、と考えております。
処分の意味
そこに侵略主義などは見出すことはできません。末尾にある「処分」という言葉は、当時は、「法律的に正当なありかたで対処する」というような意味でした。「琉球処分」や「秩禄処分」などがその用例です。

日清戦争は侵略戦争ではないか

侵略の定義
まず、私の「侵略主義」の定義から。私は「侵略」を自国の領土拡大に限定して使っております。
福沢は一貫して日本のマーケットの拡大を望みましたが、領土の拡大を求めたことはありません。独立国の主権を奪うなど思ってもみないことであった、と考えております。現に朝鮮独立党を支援していたではないですか。
近代主義であることと、侵略主義であることとはまったく別問題であると考えます。通商の拡大によって、侵略などしなくても近代化は可能だからです。第二次世界大戦後の日本の発展には領土の拡大は伴いませんでした。
日清戦争の開始を、福沢は喜んだか?
まず、福沢が喜んだのは、日清戦争の「開始」ではなく「終結」です。これは大きな違いでしょう。
日清戦争は、領土拡大を目的とした(侵略)戦争か?
それから、日清戦争は侵略戦争などではなく、ただの戦争です。1885 年の日清天津条約により、日本・清国いずれかが朝鮮国に派兵する場合は、もう一方も派兵してよい、という取り決めがなされました。条約を履行したにすぎません。また、日清戦争終結後、日本軍は速やかに撤兵し、朝鮮国の主権は維持されております。
1895 年の日清下関条約でも、日本は(戦闘地域に)(註 1)結果として領土を拡大したわけではないのです。したがって、現在の価値基準を適用したとしても、侵略戦争にはあたらない、と思います。
福沢は、日清戦争についてどう考えていたのか?
福沢と日清戦争のかかわりは、始まったときに募金運動をしようとして頓挫し、戦争終結のときに喜んだ、というそれだけしか分かっていません。戦争について触れている書簡もごく少数です。

「時事新報」について

時事新報社説に、署名は?
社説は一貫して無署名でした。「我輩」という人物が時事的な意見を述べる、という体裁ですが、それが誰であるかは分かりません。つまり、法人としての『時事新報』の意見です。それは全ての新聞社説についていえることです。
時事新報の社説は、単行本として纏められた?
1882 年の『時事大勢論』から 1893 年の『実業論』までは、社説欄に連載された論説が、「福沢諭吉立案・主筆筆記」という形で単行本化されました。現行版『全集』の第五巻と第六巻に収められている著作です。
時事新報の社説が単行本されたとすれば、どれほどの期間の社説が、単行本化された?
1882 年から 93 年までの 11 年間に社説欄掲載後単行本化された著作は全部で 16 冊、掲載日数は合計で 175 日分です。11 年で約 3500 号ですので、社説総数のうち約 5 %が福沢名で出版されたということです。
93 年までの社説が単行本化されたとすれば、94 年以降は?
94 年以降、社説欄に掲載された論説が福沢名で出版されることはありませんでした。97 年の『福翁百話』からは、社説欄とは別の特別な掲載欄が設けられました。
時事新報は、福沢が亡くなるまでにどれほど発行された?
福沢が亡くなるまでの総号数は、約 6000 号です。そのうち約 1500 編が現行版の「時事新報論集」に収められています(既単行本収録分は除く)。
時事新報にて、福沢はどのような立場にいた?
福沢は『時事新報』のオーナーではありましたが、社長でも主筆でもありませんでした。奥付欄にもその名前は記されておりません。
当時の読者は、社説欄の論説をどのように受け取っていたか?
読者が、社説欄の論説を、福沢の意見として受け取っていたかどうかは、分かりません。
福沢は、時事新報の論説をチェックし続けていたのでは?
『福翁自伝』にも、「新聞紙のことも若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆」、とあります。社説は三人の輪番で書かれていた、ということでしょう。石河はそのうち自分が執筆した分を「時事新報論集」に収めた、と私は解釈しています。
「当時の」読者は、福沢引退に気づいていたのか?
社説が紙面に掲載されてから、それが『続全集』(1933 年)に収められるまでに約 40 年の歳月が流れています。19 世紀の読者は福沢が引退したことに気づいていたとしても、20 世紀の読者は、石河の論説を福沢の思想だと受け取ってしまうことは、十分にありうることです。読者といっても同じ人々ではなかったのです。
時事新報の論説は、福沢の意見をそのまま反映させたメディアではなかったのか?
福沢にとって『時事新報』はビジネスであり、そこでの言論を消耗品と見なしていたふしがあります。自分名義の著作については自分で『福沢全集』(1898 年)を作ってしまったので、あとの社説が残るとは思っていなかったのでしょう。げんに、『時事新報』を除いて、当時の生の言論はほとんど読むことはできなくなっています。
晩年の福沢論説は、どこまで福沢が執筆したものか?
1898 年に福沢が脳卒中に倒れたのは確かに大事件でした。ただ、半年後には肉体的にかなり回復してきて、散歩の写真などが撮られています。しかし自身による文章は残っていないのです。後年塾長となった鎌田栄吉は、そのとき福沢は失語症であった、と証言しています。
社説は誰の意見か?
法人としての『時事新報』、あえていえば、論説に責任をもつ主筆の意見です。したがって、福沢は「おれのじゃない」と言うのは当然です。べつに逃げでも何でもなく、福沢はお金を出していただけなのです。創刊初日(1882 年 3 月 1 日)「本紙発兌之趣旨」には、「其論説の如きは社員の筆硯に乏しからずと雖ども、特に福沢小幡両氏の立案を乞ひ、又其検閲を煩はすことなれば」とあります。つまり、大体は中上川彦次郎主筆を中心とする論説委員が書き、まれに福沢も立案する、ということです。創刊後の単行本が、「福沢立案、中上川筆記」として出されているのと一致します。単行本化されなかった論説については、『時事新報』の意見、としかいえないのです。
社説欄掲載後単行本化された著作は、福沢の思想と看倣すことができるのでは?
法人の意見としての社説と個人の思想としての単行本の関係が未整理であったのは事実で、日清戦争後に特別の欄が作られたのもそのためなのでしょう。
時事新報と福沢の関係は?
社説はあくまで社の意見とされていました。これは新聞紙印行条例(1871 年)への措置で、福沢に直接累が及ばないようにするためでした。なにしろ「新聞紙若くは雑誌・雑報において人を教唆して罪を犯さしめたる者は、犯す者と同罪」とありましたから。
では社説そのものが問題となったときはどうか、ですが、その場合は奥付に最初に書いてある人物が責任者とされました。
社説は、福沢の意見か?
百何十年も前の新聞社説が誰の意見として受け取られていたか、分かるはずもないでしょう。『時事新報』は硬派の大新聞であり、論説委員は常時三名程度在籍していました。日刊紙なのですから編集会議は毎日開かれ、論説担当のほか、事件(社会面)担当、広告担当、財務担当らが、自分たちの意見を闘わせてゆくうちに、全体の論調が決まっていったのです。
ちなみに、福沢が編集会議に出席していたという記録はないようです。
ケネディ演説は、スピーチ・ライター起草であれ、ケネディ演説として受容される。時事新報社説も同じ構図なのでは?
ケネディの演説と時事新報の社説は違いますよ。
誰がスピーチライターであったにせよ、ケネディは一度はその原稿を読み、その様子がテレビで放送されることを知っていました。おそらく演説草稿には彼自身の承認サインも入っていたことでしょう。しかし、社説にはそのような印はいっさいないのです。現行版全集には、台湾で武装蜂起した原住民を抹殺せよ、と主張した「台湾の騒動」(1896 年)が入っていますが、原稿も福沢の関与を示す書簡も何も残っていないのです。福沢に掲載の事前承認を取っていたか、それは分かりません。あくまで私の推測ですが、その日の社説を読んだ福沢はびっくり仰天したのではないか、と考えています。
拙著 98 頁以降にありますように、私は 1892 年春頃に、福沢は時事新報の運営から手を引いたと推測しています。当時の感覚では 58 歳というのはもう老人だったのです。

福沢と石河幹明の関係について

平山氏が「石河は福沢の名を騙った」と書いた根拠は、何か?
私が、石河は福沢の名を騙った、と書いたのは、自分で執筆した論説(その証拠もありますし、石河自身そのように述べています)を、『福沢全集』の「時事新報論集」に収めているからです。
福沢が石河の論説をチェックしていたのであれば、石河執筆の論説も福沢の意見と考えられるのでは?
石河執筆の論説に福沢が関与した証拠は、石河自身の証言を除いてほとんどありません。
同世代の論説委員は、石河と福沢の考えは同じである、と考えていたのでは?
石河の考えと福沢の考えが同じだ、などと称しているのは、石河だけです。同世代の社説記者(論説委員)たちはそうは見ておりません。
福沢は、石河をなぜ罷免しなかったのか?
考えが違うなら、なぜ石河を罷免しなかったのか。そのことについては、拙著 179 ページ以降をお読みください。時事新報社における福沢の権力は全能ではなく、社員たちに抗われてはどうしようもなかった、と想像します。また、新聞人のステイタスは今日よりもはるかに低く、論説担当として実力のある人物にはなかなか来てもらえなかった、ということが後の石河の権勢につながった、と考えております。
石河と福沢の考えは、同じであったのではないか。だとすれば、石河の論説であれ、福沢の論説であると紹介してもよいのでは?
遠山さんや服部さんは、彼らが批判する論説が福沢が書いたものではない可能性があることについて、読者に一言でも注意を促したでしょうか?
『続全集』(1933 年)には、「付記」という注意書きが入っているのです(拙著 75 頁参照)。この「付記」は、現行版『全集』(1958 ~ 1964 年)では削除されています。したがって、60 年代以降に研究を開始した人々が誤解したことは、しかたがなかったと思います。
しかし、遠山・服部さんは「付記」のある『続全集』を使いながら、当然のようにそれらを福沢そのものと見なしています。が、そうすることは果たしてフェアなことなのででしょうか。福沢自身は一度たりとも自分の書いた論説であるとも、執筆を命じたとも証言していない膨大な量の文章を素材として使うことについて。
福沢が署名著作で述べていることは疑わなければ気のすまない人々にかぎって、なぜか石河の言うことは無条件で信じてしまうのです。安川寿之輔氏がそうでした。私はそうしたありかたを「石河への盲目的愛」と名づけました。
福沢の署名著作(演説・社説集)に『修業立志編』(1898 年 4 月)というのがあります。そこには 42 編が収められていますが、そのうち 9 編を石河は大正版『福沢全集』の「時事論集」に採録していません。ところが、同じ「時事論集」には、石河が執筆した、と明記しているものが 14 編も含まれているのです(全体で 224 編)。
もし福沢と石河の意見が同じなら、石河はそのような操作をする必要などなかったでしょう。違うからこそ、『福沢諭吉伝』(1932 年)の立論に不都合だと判断して、福沢直筆の論説を全集から排除したのです。
福沢と石河のアジア観は、同じものではないのか?
福沢と石河のアジア観は違います。
古井戸さんが私の本に嫌悪感を抱かれたのは、何だか福沢の悪い部分を石河に擦り付けているように受け取られたからですね。「ヒトラー自身のユダヤ人抹殺命令は残存していないから、それはヒムラー親衛隊長官の犯罪だ」というような。いわゆる歴史修正主義の主張では、そうするのが常套手段です。
しかし、ヒトラーにはユダヤ人問題の最終的解決に関する演説が多数残されているのに、福沢には領土拡大を要求する演説も、中国人を蔑視する演説も残っていないのです。
逆に、日清戦争後の国内に蔓延した中国人蔑視を厳しく戒める演説(全集 19 巻 736 頁)と、その演説をもとにしたらしい社説「シナ人親しむべし」(16 巻 286 頁)という、その時期としては非常にまれな推定カテゴリーⅠ(直筆)の社説があるのです。
私が、都合の悪い社説を偽者、都合のいいものを本物とすることで、福沢の弁護をしているのだとしたら、文体判定として、「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(いずれも 1885 年発表)が、直筆とされている理由の説明がつかないでしょう。
これらは、「日本臣民の覚悟」「日清の戦争は文野の戦争なり」(いずれも 1894 年発表)のアジア観とはまったく違います。1885 年の社説で批判されているのは清国と朝鮮国の政府であって、その人民ではありません。あれでは人民がかわいそうだ、と言っているのです。1894 年のものには、残念ながら中国や朝鮮の人々を低く見る要素が含まれているように感ぜられます。
つまり、福沢と石河には、日本人の民族性についての評価に違いがあるのです。石河は日本民族の優越性を疑うことなく主張するのに、福沢の署名論説で、日本人がとりわけ優秀だ、などというものを見たことがありません。地上の人間など大差が無く、文明について目を開かれた指導者さえ出れば、どこででも近代化は可能だ、というのが彼の考えでした。楠公権助論などに見られる日本史軽視の態度は、時の民族派を憤激させました。
それに、そもそも 1885 年のものは、アジアから手を引くべきだ、という主張なのに対して、1894 年のものは、どんどん行け、というちょうど逆のベクトルをもっているではないですか。
福沢は、石河の社説を読んでいたのではないか?
もちろん読んでいた、と考えます。「俺の考えとはちょいと違うが、戦争に勝つためには仕方がない」と思ったでしょう。黙認あたりが適当かかもしれません。とはいえ、似た考えならその人の思想になるのですか?
私なら、「日本臣民の覚悟」や「日清の戦争は文野の戦争なり」と、同じ時期の『国民新聞』(蘇峰主宰)の社説の類似性に目が行きます。当時時事新報社と国民新聞社は銀座でワンブロックしか離れていないところに建っていました。蘇峰と同年代の石河は、蘇峰に密かにライバル心を燃やしていたのではないか、と私は考えています。
「福沢が晩年、石河の前で立ち往生したのは「市民的自由主義者」で終わったから、ということになる」が?
そもそも福沢と石河を思想家として比較可能な存在とみなすこと自体が間違っているのです。前にも書いたように、福沢にとって、所有する新聞『時事新報』は、毎日論説や記事を作り出って売るビジネスに過ぎないのです。福沢はそこに自分の意見を表明する場を確保していた、ということです。福沢は最後まで自分の好きなことを好きなだけ書いていたのですから、石河の前で立ち往生することもなかったのです。

なぜ「遠山・服部」を批判するのか

遠山・服部を批判するのは、何故か?
遠山茂樹・服部之総両氏は、石河自らの、1892 年以降の論説はほとんど自分で書いた(拙著 75 頁)、という『続福沢全集』(1933 年)の注意書きを無視して、それらを福沢自身の思想と見なす、という決定的な間違いをしています。
「日清の戦争は文野の戦争なり」「日本臣民の覚悟」にて展開されている考えは、福沢のアジア観を示すものではないのか?
遠山・服部両氏が述べる福沢のアジア観は、完全に石河の『福沢諭吉伝』第三巻(1932 年)に依拠しています。そこで使用されている多くの論説は、井田メソッドによれば、石河が執筆したものでした(「日清の戦争は文野の戦争なり」「日本臣民の覚悟」も)。
これまで歴史家は、福沢離脱以降の時事新報論説を、批判的に見ていなかったのか?
古井戸さんの感想の最後の部分に同意します。今までの研究は想像を絶したものだったのです。
遠山『福沢諭吉』は、全面的に「石河執筆の社説」に依拠しているのではなく、「書簡や著作」に多くの論拠を得ていることに着目すべきでは?
この著作はかなり詳細に読んだつもりですが、「書簡や著作」から多くの論拠を得ているというのは本当でしょうか。戦争に勝って喜んだ山口宛書簡については承知しています。時期は下関条約会議より前ですから、まだ台湾の領有は決まっていません。
また、文中の「シナ・朝鮮も我文明の中に包羅せんとす」の「我文明」は、直前の「西洋流の文明」を受けていると解釈しております。
皮肉ではなく、福沢がアジアへの領土拡大を画策していた証拠となる書簡や著作とは具体的にどれなのか、知りたいのです。

So-net blog:試稿錯誤:福沢諭吉の真実、再読。 

『福沢諭吉の真実』について

『福沢諭吉の真実』で、平山氏は、石河批判を突然始めているようである。前半部分の論述を削除すればよかったのでは?
拙著『福沢諭吉の真実』は、「あとがき」にもありますように、もともと学術論文として用意され、総数も 600 枚くらいありました。新書にするにあたって、そのうち前 3 分の 2(400 枚)を半分に削ることで、総計 400 枚としたのでした。つまり第三章までは、現在の倍の分量があったのです。
原型では、テキスト分析の結果石河の歪曲が徐々に明らかになり、最後に石河が付加した無署名論説に根拠はほとんどない、したがって福沢解釈としては、市民的自由主義者とするのが妥当である、という結論になっていたのでした。
ところが新書では、論証の部分をほとんどカットしなければならなくなり、真贋判定の結果が根拠不十分なまま断定的に書かれています。全体にかなり早急に論が進められ、第四章にいたって突如石河への怒り炸裂、という形になっているのです。読者は「何で怒っているの?」といぶかしく感じられたことでしょう。
『福沢諭吉の真実』のカバー裏に、巧妙な思想犯罪というような言葉があるが、石河に対して使用するのは、止めたほうがよいのではないか?
思想犯罪という言葉を使ったのは、私ではなく、文春新書編集部です。本が出来上がるまで、オビやカバー裏がどうなるか、まったく知りませんでした。私が執筆して校正をしたのは、「目次」から「あとがき」までで、私は本文で「石河の思想犯罪」などと書いた記憶がなかったため、ぎょっとした記憶があります。本文中に「思想犯罪」という言葉は使われているでしょうか?

「朝鮮を支配」するという福沢の考え?

福沢に、朝鮮に対する「清国の宗主権を剥奪」することで、「朝鮮を支配」するという考えがあったのでは?
福沢は朝鮮の独立のために独立党を支援し、中国でも市民革命が可能だと考えて、そのことに期待を寄せていたのです。
金玉均ら独立党を助けたのは、日本が朝鮮を支配するための道具としてではありません。朝鮮国が近代国家として一人立ちすることは、朝鮮人にとって大きなプラスであるばかりでなく、日本の産業の発達と安全保障にとっても良い効果があるからです。
逆に、なぜ日本が朝鮮を支配しなければならないのでしょうか。領有すれば、朝鮮に住む人々は望みもしないのに日本人とされてしまうのです。その不満を抑えるためには軍隊を駐留させなければならないでしょう。人々を慰撫するためには福祉を充実させなければなりません。いずれにせよお金がかかって仕方がなくなるのです。朝鮮ばかりではなく、日本にとってもいいことなどないではありませんか。
中国については、福沢は中国人による市民革命に期待していました。『福翁自伝』にはっきりそう書いてあります。拙著 133 頁に引用してありますのでお読みください。
また、1897 年に孫文が横浜に亡命してきたときの世話役の中には、福沢の愛弟子であった犬養毅がいました。福沢の書簡には孫文の話が出てきませんから、福沢は彼を知らなかったのかもしれません。しかし、もし知っていたなら援助したろう、と私は思っています(『諸君!』 2006 年 2 月号にそのことについて書きました)。
「富国、を、一国だけで実現することはありえな」いのでは?
経済発展のためには領土拡大などまったく必要ではない、と私がいっても、理解してくださらないのでしょう。現に現代の世界ではそうなっているではないですか。韓国や中国は領土拡大によって経済を発展させているわけではないのです。
福沢は、当時の日本政府が朝鮮を支配下においたとすれば、政府の意見を後押ししていたのではないか?
ただ、どうにも分からないのは、「言葉に出そうと出すまいと、当時の日本が朝鮮を under control 状態に置こうとしていた」、と言葉に出してないのにどうして分かるのか、ということです。朝鮮国が日本の友好国であってほしい、と考えるのは当然のことです。それは同時に清国もロシアも同じであったでしょう。それ以上でも以下でもなかったと考えております。
それにしても、やはり恐れていた堂々巡りになってしまいました。昨年秋の中西 B さんとの対話と同じです。
http://hpcgi3.nifty.com/biogon_21/board/aska.cgi?page=330

出版界で福沢は何を為したか

出版によって福沢がなし得た「功績」は、封建制度の打破?
福沢が出版界で果たした役割りは、封建制の打破にとどまりません。むしろ産業の育成への方向付けにありました。
福沢は土地所有の形態としての封建制と、精神を縛っている思考様式としての封建制を分けて考えます。前者は、廃藩置県(1871 年)と秩禄処分(1872 年)によって撤廃されました。土地所有は自由となったのです。いっぽう後者は、儒教主義として日本人の精神の近代化を阻害している、と考えて、その後も儒教主義撲滅運動に邁進しました。
なぜ儒教主義がいけないかというと、福沢の考えでは、そこには、華夷意識と商業・生産業軽視が不可避的に含まれているからでした。国民一人一人が産業に従事して豊かになってゆき、その国民の総体として国家がなければならない、国民あっての国家なのだから、政府は国民が組織するべきだ、と考えたのです。それは日本ばかりではなく、どの国についてもいえることで、だから君主専制国家である清国や朝鮮の政府を批判したのでした。

平山氏の「脱亜論」評価についての疑問

平山氏は、「脱亜論」を軽視するのか?また、論者によって、福沢の諸論説の受け止め方が異なるが、それを「史観の差」と捉えれば、受け止め方が異なっても当然ではないか?
私は「脱亜論」を軽視などしておりません。この論説は石河によって『続福沢全集』(1933 年)に採録されたものですが、それは石河にしてはめずらしく良い仕事であったと考えております。
1885 年の「朝鮮独立党の処刑」「脱亜論」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」など、推定直筆 3 編と、石河執筆と推定できる、1894 年の「日本臣民の覚悟」、「日清の戦争は文野の戦争なり」が、その主張を異にすることについてはすでに昨日書いております。

遠山の著書について

遠山は、「福沢の役割、賞味期限は、日清戦争勝利で終わった」と評しているが?
遠山さんは石河の論説ばかりを読んでいるから、賞味期限切れなどというのです。私の考えでは、福沢の思想の本質は、「文明政治の六条件」にあります。全世界の国々でその実現が可能となる時代がやっと来た、と思っております。
遠山茂樹「福沢諭吉」の記述は、「福沢に対する真情と理解に溢れ」ている。
遠山茂樹さんに対する過度の思い入れはやめたほうがいいですよ。私も最初は、イデオロギー的には相容れないけれど、遠山さんは誠実な歴史家であろう、と期待していたのです。しかし、社説「脱亜論」が有名になっていく過程を検証してゆくうち、遠山さんには、福沢を何としても悪く評価したい、という、研究者としての誠実さに先行する、革命家としての目的意識があるのではないか、と思えてきました。
1893 年以降の福沢の仕事は、『福翁百話』(1897 年)、『福沢先生浮世談』(98 年)、『修業立志編』(98 年)、『福翁自伝』(99 年)、『女大学評論・新女大学』(99 年)、そして没後の『福翁百余話』と『丁丑公論・痩我慢の説』(01 年)だけです。これらの中に、対アジア問題を主題としたものも、領土拡大・軍備拡張をテーマとしたものもありません。
もちろん、これらの初出もみな『時事新報』です。つまり遠山さんは、署名著作ではまったく触れられていないことを、『福沢諭吉』の 224 ページ以降でえんえんと述べているのです。いや、無署名論説が議論の中心になるのは 181 ページ以降ですから、その本の後半全部といっていいでしょう。思想家の生涯を記述するのに、その思想家の著書を用いない、とはどういうことなのでしょうか?
遠山さんの『福沢諭吉』(1970 年)は、石河の『福沢諭吉』(1935 年・伝の短縮版)にそっくりで、結論部での評価が、石河の「すばらしい」、から、「けしからん」、に変わっているだけなのです。

So-net blog:試稿錯誤:福沢諭吉の真実 その 3  平山さんのコメントに対するコメント

日清戦争時の福沢と石河の関係は?

古井戸さんは、まさに日清戦争のその時点で、石河が福沢を裏切るようなことをしていたかどうか、ということを問題にしていたのですね。私がまったくどうでもよいと考えていることがらについて。

日清戦争当時の石河は、『時事新報』を売る、という目的によく貢献したと思います。その点で、福沢の期待によく応えたし、福沢は石河を見直したでしょう。

私が石河を批判しているのは、何度もいうように、石河が自分で書いた社説を、『福沢全集』に入れているからです。当時は福沢のものと見なされていたから収めてよい、などとはいえない、ということです。

それに、そもそも社説自体が福沢の意見などとは見なされていなかった、と私は思っております。日清戦争時の福沢の意見はきちんと福沢諭吉名で出されているのです。

石河が福沢を「騙った」のは

  • 『福沢全集』(1926 年)
  • 『福沢諭吉伝』(1932 年)
  • 『続福沢全集』(1933 年)

編纂に際してであって、それ以前ではありません。私の推測では 1892 年以降石河は有力な論説委員になりますが、その時点で彼が福沢を騙って悪いことをしでかしたというわけでは、もちろんありません。ただ、思想界における福沢の後継者などとはとてもいえない、というただそれだけのことです。

想像力を働かせて、冷静に考えてください。1885 年 3 月に「脱亜論」という社説が、『時事新報』に掲載される。読者はそれを飯でも食いながら読み、終わってからくずかごに捨てる。1894 年 7 月に「日清の戦争は文野の戦争なり」という社説が出て、9 年後の読者はそれをあとで魚の包み紙に使う。そのとき読者が、「福沢先生は、9 年前には「脱亜論」を書いたはずだが、今度は戦争をけしかけるのか、それは矛盾しているのではないか、いや、むしろその考えには連続性がある」などと考えるかどうか。

どちらの社説も誰のものとも意識されずに読まれ、捨てられ、忘れられたのではないか、ということなのです。

平山氏が石河を批判した理由について

私が石河を批判したのは、自分が書いた社説を、あたかも福沢のものであるかのようにその全集に収め、かつそれらの無署名論説を駆使して、日清戦争以後の福沢伝を描いている、ということによります。

福沢の思想家としての絶頂期は、ほぼ 1873 年なのですよ。そのときの福沢の影響度が、その後まで同じように維持されていた、と考えるのが間違いなのです。

1882 年に『時事新報』が創刊されたとき、福沢は、すでに相当過去の人、1893 年に『実業論』が出たあとは、すっかり過去の人、でした。

言論界で、福沢だけが活動していたわけではないのです。1890 年代には、「天保の老人、明治の青年」というキャッチフレーズを引っさげて、福沢より 30 歳近くも若い徳富蘇峰がデビューします。「福沢翁なんて今さら」というのが、当時の空気だったのです。

日清戦争前には福沢自身もすっかり隠居モードになり、長期間の旅行や箱根での湯治などで、日々を過ごすようになります。新聞など若い者に任せておけばよい、自分は人生訓や回想録でも書こう、というのが 1893 年ころの福沢の心境であった、と思います。

戦争が始まります。彼は、清国と戦うこと自体は正しいことだと信じていたので、実業界の人々とはかって義捐金運動を準備します。しかし、国が戦時国債を発行するというので、その話は立ち消えとなってしまいました。

毎日毎日戦争関係の社説が紙面を飾ります。戦争中なのでそれは当然のことです。ほとんどが石河ら論説委員の文章で、時には度をこした清国蔑視の論調のものも掲載されます。

福沢は、これではちょっと、と思い、敵愾心を煽るような国内世論をなだめようとします。戦争中に福沢が関与したと証明できる社説はそうした内容のものです(拙著 104 頁以降を参照)。

戦争中、福沢にはしなければならないことがありました。その一つは、前年に運営の開始された北里研究所を軌道に乗せることです。もう一つは、慶應に創設された大学部のカリキュラムを充実させることです。またさらにもう一つは、人生訓『福翁百話』を書くことです。

もちろん、戦争に関心がなかったわけではありません。『時事新報』はもちろん、他紙も読んでいたことでしょう。95 年 1 月には戦闘もほぼ終結し、喜びの手紙を友人の山口広江に出します。

戦争後、還暦のお祝いも済んで、彼はいよいよ人生のまとめをしようとします。『自伝』執筆や、『全集』の編纂、婦人論の総仕上げなどです。

現在残っている日清戦争ころから後の無署名論説群は、石河が自分のした仕事を後世に残すため、大正版と昭和版の正続全集に収めたものであって、福沢自身ととくには関係のないものが大部分なのです。

以上、想像も交えて福沢の晩年を描きました。長文にはしたくなかったのですが、そうなってしまいました。

So-net blog:試稿錯誤:脱亜論、について

福沢が抱いていた「危機意識の本質」とは

福沢が「脱亜論」その他で高めようとした危機意識とは、清国に対する意識ではなく、西欧に対して警戒心を高めよ、ということなのです。

1885 年の東アジアではベトナムの帰属をめぐっての清仏戦争と、朝鮮の巨文島を英国が占領する、という事態が起きていました。日本が侵略を受けないために、西洋的文明化と国防力の増強が必要だ、と主張しているのです。

遠山茂樹さんらは、1945 年へといたる一直線のストーリーを先に作って、それに当てはまるように史料を並べているにすぎないのです。だから、1885 年の「脱亜論」も、1894 年の「日本臣民の覚悟」を準備する、あらかじめ 9 年後を見越した論説としてのみ扱われてしまうのです。

現実の「脱亜論」は、それより前の政治状況に基づいて書かれているのです。1884 年暮れには朝鮮で甲申政変が失敗に終わり、それを見ていたイギリスは朝鮮も支配下に入れられるのではないか、と機会をうかがっていたのです。だから、日本は西欧から、朝鮮や清国と同じタイプの国として攻撃を受けないように、よりいっそうの西洋文明化が必要だ、といっているわけです。

それが 1885 年の福沢が抱いていた危機意識の本質であり、同様の論説は「脱亜論」より前にも、また後にも書かれています。

「清国への意識」は「西欧に対する警戒心」のあらわれではないのか?

西洋文明化…政治…この 2 つは同時に考えないとならない、くらいは考えたでしょう。

すなわち、朝鮮+清国にどう対処するか、を考えることが、<西欧化>を学んだ有識人の、現実的適用問題としてあったわけです。

「清国への意識」を持つほどの余裕は無かった

福沢が「脱亜論」を書いたとき、彼は 1885 年 3 月までの歴史しか知らないのですよ。つまり、西欧がアジアを侵略している、という認識にたっていて、さて、どのようにすれば日本を守ることができるだろうか、というのが関心の全てです。

西洋からの火の粉が日本にも飛んできそうなので、清国・朝鮮のことまで気が回らなくなってきた、と「脱亜論」そのものに書いてあるではないですか。

福沢は、薩英戦争(1863 年)や下関戦争(1864 年)を実際に経験しているのです。戦ったのは日本ではなくて薩摩や長州ではないか、というのは内向きの話で、世界からは、日本がイギリス・フランス・アメリカ・オランダと交戦したように見えたはずです。

それから 20 年しかたっていない時点で、「脱亜論」は書かれているのです。

第二次世界大戦の交戦国とは、じつはそれより 80 年前に戦っていたのでした。その時向こうが本気でなくて本当によかった、と思っています。

So-net blog:試稿錯誤:福沢諭吉の真実、その 4  時事新報社説とはなにか

「時事新報社説は福沢の思想・意見を反映していた」とみなすべきではないか?

古井戸さんが大前提にしている、

「理由は、時事新報創刊当時から時事新報はその過激な意見(政府の朝鮮清国にたいする弱腰を非難する)により政府の厳しい監視下にあり、発禁などの処分を受け、福沢はその善後策に走る嵌めにおちいったりしている」

という記述そのものが、石河編纂の昭和版『続福沢全集』(1933 年)「時事論集」中の、各年分に付された「本篇の概説」、に由来しているのですよ。

その「明治十五(1882)年篇」にこうあります。「(壬午軍乱)爾来「時事新報」は対韓対支の政略論を終始一貫の主張として以て日清戦争にまで及んだ」。富田正文さんは、現行版『全集』の「時事新報論集」各巻の「後記」を、この石河の記述をもとにして書いています。そして 1960 年代以後の全ての歴史書は、その富田さんの記述を引き写しています。

もちろん石河が解説をつけた『続福沢全集』には、対韓対清強硬論ばかりが入っています。「概説」にあてはまるものばかりを選んだのだから当然のことでしょう。1933 年のその時期、「概説」が書かれた三田のキャンパスの外では、満州事変の戦勝が祝われていたのです。

では、『時事新報』は創刊当時、ほんとうに対韓対清強硬論の論調で統一されていたのでしょうか。私は 1882 年から 1901 年までの同紙マイクロフィルムをすべてそろえて、創刊初日から順番に読んでいるのですが、そんなことはないのですよ。

署名著作『兵論』(1882 年 11 月刊)は、9 月 9 日から 10 月 18 日までの社説をまとめたものですが、その主張は、「今戦争をしても、西欧はもとより清国にも負ける」、というものでした。この著作は現行版第五巻所収です。それが「時事新報論集」に入っていないから、石河の「概説」が正しいように見えてしまうのです。

さらに、採録されていない多数の社説も含めて読むと、創刊当時の『時事新報』は、国内問題により関心が深いのです。あたりまえのことでしょう。読者にとって重要なことは、どうすれば日本が、そして自分の生活がよくなるか、ということなのですから。対韓対清強硬論ばかりが載せられた新聞を誰が買って読みますか。

石河は、満州事変下の世相に「受け」のよい社説を、バックナンバーから選んだにすぎないのですよ。ですから、そうでない論説は、たとえ福沢諭吉名で発表されたものであったとしても、全集から落としているのです。

「脱亜論」は見ていただけたようだから、署名著作『修業立志編』(1898 年 4 月)に所収されながら、『全集』未収録になっている「忠孝論」「心養」をぜひお読みください。これらはなぜ全集に入っていないのでしょう?

いや、むしろ『修業立志編』全体をお読みください。これには 1886 年から 1897 年までの社説と演説が 42 編収められているのですが、中国や朝鮮に触れたものは 1 編もないのです。国立国会図書館デジタルライブラリーが無料で閲覧できるようにしていますので、簡単にダウンロードできます。

石河が『修業立志編』を単独の著作として全集に入れなかった理由はお分かりでしょう。大陸へイケイケドンドンであったはずの時期の社説・演説集に、そのことに触れたものが一つもないのは不自然だ、と読者に疑われるのを恐れたからです。

石河が真実福沢に従順であったとしたなら、署名著作『修業立志編』を全集に入れなかったり、そこに含まれている社説を「時事論集」から排除したりするはずもないでしょう。

So-net blog:平山さんへの回答、質問

政府の監視を恐れるが故に、福沢は社説・論評の確認を怠らなかった筈では?

わたしの主題は、時事新報の社主であった福沢が政府の監視のもとにあった、ということです。これは客観的な事実でしょう?

つまり、時事新報の社説が黒塗りになったり発禁になるのをおそれていたのであるから、社説の内容に敏感たらざるを得ない(石河等にまかせるわけにはいかない)、一日として社説や論評をチェックしない日はない。

こういいたかったのです。これは違いますか?

約 6000 号の社説を、福沢が全てチェックできたのだろうか

どうすれば創刊から亡くなる 1901 年までの 19 年間、6000 号分もの社説を掲載前にチェックすることができるのですか?

脳卒中で倒れる前にも、長期間の旅行に出かけたり、湯治に行ったり、病気になっているというのに。

古井戸さんは、『時事新報』社説への福沢の介入度を、高く評価しすぎています。『福翁自伝』には、

「新聞紙のことも若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆して、わたしは時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆するくらいにしています」

とあるのです。毎日の社説の事前校閲をしているとは読めないでしょう?

もちろん、「クリート事件の成行如何」(1897 年 3 月 12 日掲載)は、福沢立案の社説です。しかし、1893 年以降の全集所収の社説約 750 編のうち、こうした関与の証拠があるものは 50 編程度にすぎず、残りの 700 編ほどには、直筆原稿が無いのはもとより、書簡などでも一切触れられていないのです。

従来までは、古井戸さんが推測したように、「ぽつりぽつりと関与の証明できる社説があるのだから、残りの社説にも関与しているにちがいない」、という見方が一般的でしたが、「そうだとしたら可笑しいでしょ」、というのが、私が『福沢諭吉の真実』で言いたかったことなのです。

この拙著の主張については、当然、賛否両論があります。皆さまもぜひ、

をご覧ください(註 2)

管理人による註

註 1
この箇所について、平山氏に問い合わせたところ、脱落があった旨の回答を得ましたので、括弧を追加しました。
註 2
当ウェブサイトのサイト構築の変更にあわせ、URL の記述を変更しました。