『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註
last updated:
2015-03-13
このテキストについて
安川寿之輔『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(高文研、2006 年 07 月)への、平山氏による逐語的註を公開しています。
右書籍の概要・書評は、以下のサイトで紹介されています。
新着リンク
- 夏鶯一喝 : IMAGINE
- 2007-07-13/14 に京都自由大学で行われた、安川氏による講義「福沢諭吉と田中正造―近代日本の光と影(1)」と「福沢諭吉と田中正造―近代日本の光と影(2)―」の感想が記されています。
言及ページ
- 高文研
- 担当編集者より(梅田正己)
- 福沢諭吉の戦争論と天皇制論【立ち読みコーナー】
- 朝鮮新報 2006-09-08
- 〈本の紹介〉 「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」 - 「美化論」完膚なきまで叩く
- 明治・その時代を考えてみよう 2006-11-27
- 福沢諭吉という人:福沢諭吉の信実は何か?::「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」を読む
- So-net blog:試稿錯誤 2006-12-03
- 安川寿之輔 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』
- 書評日記 パペッティア通信:★ 平山洋『福沢諭吉の真実』の真実 礫川全次『知られざる福沢諭吉』平凡社新書(新刊)
- 礫川全次『知られざる福沢諭吉』(2006 年)で展開されている、『福沢諭吉の真実』批判を紹介しています。
- 原田実の幻想研究室:捏造された福沢諭吉像―今も進行する『東日流外三郡誌』汚染―
- 原田氏による書評です。
行数は、小見出しもカウントに含め、数えたものです。該当箇所を抜き出すにあたり、括弧をつけることで補足を行った箇所があります。なお、強調点については、表記しません。
「序章 なぜ本書を書かねばならないか」に関して
頁 | 行 | 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の記述 | 平山氏による註 |
---|---|---|---|
010 | 15 | 『福沢と丸山』は紹介されていない | 『福沢諭吉の真実』(以下『真実』)に安川『福沢と丸山』が紹介されていない理由は、安川が記述している通りである。『真実』の校了(2004 年 07 月)までその頁を開くことさえできなかった。 |
013 | 14 | 井田とまったく同一である | 私が井田メソッドの影響下にあることは認めるが、同時に、「語彙と文体による井田の方法で高い確度をもつのは、カテゴリーⅠ(福沢真筆・平山註)とそれ以外との区別だけである」(『真実』83 頁)とその限界も指摘している。私は『真実』において、誰が下書きを書いたか、だけを判定したのである。 |
015 | 13 | 「戦意高揚」 | 出典は「福沢が戦意高揚を図って書いたとされてきた」(『真実』97 頁)、であり、私の意見ではない。 |
015 | 13 | 「戦争煽動論説」 | 出典は「戦争戦争論説とでもいうべき残りの七編」(『真実』106 頁)、であり、「日本臣民の覚悟」だけをとくにそう規定したわけではない。 |
015 | 14 | 「純粋に石河の執筆」 | 出典は「驚きをもって迎えられた時局的論説の多くがじつは純粋に石河の執筆であったことは」(『真実』185 頁)、であり、1934 年に昭和版『続福沢全集』が完成したときのことを記述している。「純粋に石河の執筆」とは、病後 78 編のことである。『真実』149 頁も参照せよ。 |
015 | 14 | 「E」評価の論説と認定 | 私は井田による A から E の 5 段階評価には懐疑的である。したがって E 評価などつけるはずがない。「日本臣民の覚悟」の下書きを担当したのは石河だ、と認めているだけである。したがって、カテゴリーⅠではないものの、Ⅱ(福沢立案石河執筆)、Ⅲ(石河執筆福沢添削)、Ⅳ(石河執筆)のいずれの可能性も残されている。あえて井田判定でいうなら、A ではない、と言っているだけである。 |
017 | 11 | 『尊王論』の筆者認定 | 私は福沢の署名著作『尊王論』(1888 年 10 月)の下書きを石河が担当した、と言っているだけである。その結論にいたる考証は省いている。なお、福沢名で出版されているのだから、完全に福沢の思想であることに疑う余地はない。 |
031 | 02 | 平山洋『福沢諭吉の真実』の”壮大な虚構”の13 仮説 | 以下 9 頁にわたって私が『真実』の中で行おうとした13 仮説については、なかなか手際よくまとまっていると思う。ただし、その第 2 項中の「勝手に『福沢全集』に混入」した著作に、『尊王論』は含まれない。それだけは訂正してほしい。なお、安川は13 仮説がすべて成り立っていないとするが、当然私は全部成立すると考えている。 |
049 | 12 | 「所謂百姓町人」を「豚」呼ばわり | 出典は『時事小言』(現行版全集第 5 巻 221 頁)。「恰も」とあって、民衆を直接豚と呼んでいるわけではない。捉え方にもよるが、愚民観というよりは階級意識とでもいうべきものではないか。 |
050 | 03 | 「漫言」二篇の存在を否定・隠蔽 | この 2 編とは『福沢伝』第 3 巻で紹介されている「浮世床の巻舌談」(大正版所収)と「支那将軍の存命万歳を祈る」(昭和版所収)である。『真実』93 頁では大正版を扱っているので、前者については私の見落としである。いずれも『福沢伝』の索引に採られておらず、また福沢執筆の証拠もない。 |
051 | 11 | 「アジア軽侮の諭吉なぜ札に」 | 京都市木村万平(無職 60 歳)1984 年 11 月 14 日付「声」欄。この方は 1989 年 08 月の京都市長選挙に共産党の推薦で立候補し、321 票差で惜しくも落選された。現在もご存命で、『人権と部落問題』 2006 年 08 月号に「京都の景観ー再生への模索 5 新・町屋のひろがり」を寄稿されている。 |
056 | 06 | 軽々しく重ねて強調・断定している | 私は『福沢諭吉のアジア認識』資料編に基づいてこの発言を行った。 |
056 | 09 | 国権を皇張 | 『時事小言』全集第 5 巻 183 頁。明治版所収。国権とは国力のこと。 |
056 | 10 | 其地面を押領して | 『時事小言』全集第 5 巻 187 頁。他国の独立を強固なものとするため、という条件がつけられている。 |
056 | 12 | 「さつさ」と取りて暖まるがよい | 「宗教の説」全集第 19 巻 711 頁。演説筆記。現行版所収。「此虚(中国の弱体化)に付け込んで土地を取るべしと云ふものあらん」という拡大論者のせりふの一部である。 |
056 | 14 | 良餌を求めん | 「外交論」全集第 9 巻 195 頁。大正版所収。福沢の自筆草稿あり。「我日本国は其食む者の列に加はりて文明国人と共に良餌を求めん歟」と読者に問いかけている部分である。 |
057 | 01 | 我文明 | 全集第 18 巻 637 頁。昭和版所収。「我文明」とは 2 行前の「西洋流の文明」を受けている。両国が近代化されるのを喜んでいるのである。 |
057 | 03 | 「容易に和す可らず」 | 全集第 15 巻 23 頁。昭和版所収。執筆者は石河である。 |
057 | 04 | 「交詢社大会演説」 | 全集第 15 巻 142 頁。大正版所収。青年時代に「殆んど考へたることもなき次第」が現実化して、しなければならないことが多い、ということを述べているだけである。 |
057 | 07 | 「明治二十九年一月一日」 | 全集第 15 巻 345 頁。昭和版所収。執筆者は石河である。 |
057 | 10 | 「台湾の騒動」 | 全集第 15 巻 354 頁。昭和版所収。執筆者は石河である。以上 8 例のうち、明治版に所収されている署名著作は『時事小言』のみ。福沢存命時に知られていたのはこの 1 例だけなのである。 |
058 | 11 | 竹田行之の指摘 | 竹田は現行版全集の編纂者の一人である。私の著書を悪く言うのは当然で、単に職業人として「良識的」なだけである。 |
059 | 13 | 笑止なことを大真面目に要求 | 私は現在でも大真面目に改題するべきだと思っている。 |
060 | 15 | 「教育に関する勅語」 | この論説は安川が『福沢と丸山』48 頁において突然言及し、441 頁以降に全文掲載したものである。現行版全集にはもちろん未収録である。石河さえ採録しなかった論説を福沢に帰するというこのまったく新たな試みは、福沢存命中の『時事新報』掲載のコトバ(風俗記事や広告も含めて)一切を福沢の責任とするための第一歩なのであろう。 |
062 | 06 | 論説主幹福沢諭吉 | 福沢は時事新報社のオーナーであって、掲載論説の責任者ではなかった。古井戸氏との対話を参照のこと。 |
062 | 14 | 『福沢諭吉全集』に収録することの当否の問題 | この問題意識は共有できる。現行版全集に収録されている論説は約 1500 編であるが、未収録の残り約 4500 編はどうなのか、ということでもある。げんに「教育に関する勅語」は落ちているではないか。これは安川の認定であるが、私の認定でも多くの推定福沢論説が全集未収録となっている。この事実こそが、現行版全集の杜撰を証明しているのである。 |
063 | 05 | 同書(『アジア認識』)の基本的な論旨はまったく変わらない | そうであるとすると、私が『真実』168 頁以降で指摘した、論説相互の矛盾をどのように解決するか、という問題は全て残ってしまうことになる。 |
063 | 16 | 「安川さんは過激派ですけれど……」 | これは学問方法について言っている。服部之総の研究を過激派と呼んだのに続けて、服部の後継者としての安川のありかたをそう皮肉っただけである。政治的過激派のことなどまったく念頭にはなかった。できればインタビュー記事全体を通読してほしい。 |
065 | 09 | 『諸君!』や『表現者』などでもてはやされている人物 | 研究の信憑性は思想的立場や発表媒体によってあらかじめ決定されている、と安川は考えているようである。 |
065 | 16 | 「石河への盲目的愛」 | 安川の立場がまさにそう呼ばれるにふさわしい、ということは以下の註によって明らかとなるはずである。 |
13 仮説
「平山洋『福沢諭吉の真実』の”壮大な虚構”の 13 仮説」(31 頁小見出し部分)とは以下の通りである(『戦争論と天皇制論』 32 頁から 39 頁)。なお列挙するにあたって、漢数字を算用数字に改め、傍点を em 要素で表すこととする。
- 「侵略的思想家としての福沢諭吉像を描き出」すために、石河は大正版『福沢全集』の「時事論集」の中に、「
立論 に都合のよい」14 篇の「自分の書いた無署名論説を(意図的に)混入」させた- 上記の 14 篇は「福沢の意」を受けた市川筆論説と『福沢全集』において断っているが、同じ侵略的な福沢像を想像するために、そう断らずに石河は自筆の「日本臣民の覚悟」「台湾の騒動」「一大英断を要す」「日清の戦争は文野の戦争なり」「外戦始末論」『尊王論』などの論著を、勝手に『福沢全集』に混入させている
- 消極的な仮説として、初期啓蒙期や入社した石河幹明が社説起草にかかわる 1887 年 8 月以前の福沢と「時事新報」論説には、民族差別主義や領土拡張論的傾向は見られない
- < 92 年春ごろから福沢真筆の論説が
稀 にな>り、「92 年秋以降の(福沢の)書簡を虚心坦懐 に読み返しても、福沢が毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることは出来ない」- 日清戦争時には石河が「大ベテラン」記者であるのに対し、福沢はすでに「還暦過ぎの正真正銘の老人」であり、石河は、自筆の論説を無断や「独断で掲載した可能性」が高く、晩年(98 年頃)には「福沢の言うことに石河は聞く耳をもたなかった」
- 日清戦争開戦時に福沢が一時期「日々出社し非常の意気込を
以 て自ら社説の筆を執られ…」という石河幹明『福沢諭吉伝』③の記述は、「明白な虚偽」である。したがって富田正文の『福沢全集』⑭「後記」の記述、「日清両兵の衝突となり、…福沢は多年、人の顧 みるところとならなかつた東洋政略の論旨が遂に実現の機会に立至つたかの感を覚えたのであらう、勇躍活躍、連日紙上に筆を揮い、国民の士気を鼓舞してやまなかった。」も、誤りである。つまり、<日清戦争中の論説のほとんどは石河の真筆である>- 98 年 9 月の
脳溢血 発症の「その瞬間に、福沢は思想家としての生命を失った」「発作後の福沢が確実に記したといいうる文章は、… 180 字に満たない(姉宛の)短い書簡文だけ」であるのに対して、石河にとって「この福沢の発作から死去までの期間はますます重要であった。福沢の全集の中に自 らの論説をより多く入れる絶好の機会とな」ったとして、平山は、<脳卒中の発作以降に発表された論説の執筆者はすべて石河>という小見出しを立てている- <石河執筆の社説には民族蔑視が
溢 れている>のに対して<福沢と石河のアジア認識は全く異なっている>- 「脱亜論」は「論理的には侵略肯定に帰結するとしても」、その中身には「日本によるアジア侵略を後押しする意図など少しもうかがうことができ」ず、「むしろ西洋諸国からの侵略におびえる」福沢の「姿が浮かび上がってくる」
- <福沢には蔑視表現はほとんどない>
- 「福沢自身は忠義の説明に「帝室の地位」など全く用いようとしなかった」「福沢が脱亜の主義として終生儒教を排したということについての研究者の理解には大きな
隔 たりはない」- 福沢は「誠実に朝鮮の独立を支援していた」
- 日清戦争中の福沢論説を見ると、「戦争を煽った福沢像など少しも浮かんでこ」ず、福沢は「国民に自重を求め」「つとめて平静に振る舞うよう国民に求め」た人物である
「Ⅰ 平山洋『福沢諭吉の真実』の作為と虚偽」に関して
頁 | 行 | 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の記述 | 平山氏による註 |
---|---|---|---|
068 | 11 | 「暗い情念」「巧妙なトリック」 | この 2 つの言葉は本文にはない。オビは文春新書編集部の制作であり私はまったく関与していない。詳しくは古井戸氏との対話を参照のこと。 |
068 | 12 | まがいものの『全集』 | この言葉も本文中で使っていないはずであるが、この表現は的確である、と思う。 |
069 | 02 | 福沢の思想への内在的考察を怠った | 私は、安川が内在的考察を行うにあたって参考にした素材(福沢のものとされる論説)自体が福沢に由来しない、と主張しているのである。安川は石河について内在的考察をしたにすぎない。 |
069 | 03 | 福沢諭吉美化論にすぎない | 私は真実の福沢論説を使って、福沢の思想を正しく位置づけただけである。 |
069 | 10 | ……などに誑かされた研究の成果である | この記述は私の主張を正しく伝えている。 |
070 | 03 | 「井田メソッド」 | 私は井田進也の方法を受容したが、その方法で判定したのは、「誰が下書きを担当したか」についてだけである。担当者判定の信憑性は高いと考える。 |
071 | 03 | 大事な作業はしない | この言葉を含む傍点部全体について。そんなことはない。主に『真実』147 頁以降を参照のこと。 |
075 | 05 | 「クリート事件の成行如何」 | 昭和版所収論説。福沢が立案した非常に有名な論説である。その指示の手紙は、『真実』177 頁 5 行目の石河の手元に残されていた「12 通」のうちのひとつである。 |
075 | 10 | 虚偽を主張 | ある特定の日の社説を立案することと、毎日差配することとはまったく別の事柄である。 |
075 | 14 | 此の例に倣ふものと見てよい | この富田正文の言明は、昭和版『続福沢全集』第 5 巻 737 頁「付記」の記述に基づいている(『真実』75 頁に引用)。つまり富田は石河の証言をそのままなぞっているだけである。 |
076 | 08 | 「帝室の財産」 | 安川が述べるように、このタイトルの論説は 2 つある。いずれも昭和版所収で石河の執筆である。「思想内容は基本的に百パーセント同一」なのは、いずれもが石河によるからであろう。 |
077 | 07 | 氏を見ること猶ほ父のごとし | この長男一太郎の証言は、『福沢伝』第 4 巻 836 頁「本書の編纂に就て」にある。しかも富田が直接耳にした言葉ではなく、「と聞いた」と続いている。富田は「この福沢伝は信頼できるのだゾ」と言いたかったのである。 |
077 | 08 | 多くの事例 | それらの全てが石河・富田の弟子筋の証言によることに注意が必要である。 |
078 | 05 | 老生一人之負担 | 1893 年 08 月 24 日日原昌造宛書簡。安川の引用では「これからも負担したい」と言っているようにとれるが、回顧して創刊以来 11 年の移り行きを大雑把に述べている部分である。福沢は日原を主筆に迎えたがっているように見える。 |
078 | 08 | 差配の気配がない | 「毎日の社説に細かく差配していた気配を感じ取ることはできない」(『真実』177 頁)で、立案した論説があるのはその直後に書いてある。安川が「コラム」で紹介している論説群である。 |
081 | 14 | 常識的には……口頭で | 福沢は掲載論説の責任者ではなかった。また時事新報はかかわっていた多くのビジネスのひとつにすぎない。 |
082 | 05 | 虚偽の主張 | 私の主張が虚偽だというなら、『真実』177 頁 10 行目以降の、毎日差配していたとしたら説明できない事象にすっきりした解決を与えてほしい。ごく短い間に掲載された論説相互に矛盾のある理由は、福沢が関与していなかったからだ、という以外の答えがあるであろうか。関係がある証明は可能だが、無関与の証明などできないのである。 |
082 | 08 | 「正真正銘の老人」 | 『真実』84 頁 12 行目からの引用であるなら、当時の「還暦」への一般的なイメージを述べたまでのことである。確かに還暦時の福沢は壮健だった。そして新聞などよりやりたかったことがあったのである。それは自ら設立した北里研究所を軌道に乗せることであった。 |
083 | 07 | 当時の福沢が民間にあっては抜群の熱烈な戦争支援者 | この点には同意。戦争を支持することと、敵国人を蔑視したり領土獲得を望んだりすることとは別問題であると考える。また、毎日の社説の執筆については何の証明にもならない。08 月中は民間の義捐活動が忙しくて社説など書いている暇はなかったかもしれないからである。 |
083 | 11 | 「聞く耳をもた」ず | 『真実』178 頁 8 行目からの引用であるなら、それは 1898 年 04 月のことであって、日清戦争中のことではない。安川は私が限定的に使っている言葉を無限定に援用する傾向がある。 |
083 | 15 | 連日紙上に筆を揮ひ | 安川は現行版全集第 14 巻 687 頁「後記」から引用しているが、原典は『福沢伝』第 3 巻 713 頁である。つまり石河がそう言っているだけ、である。1894 年 1895 年総数 284 編中、大正版の戦争関連論説が 3 編(『真実』104 頁)、ほかに昭和版以降の所収のものが 4 編(原稿残存)確認できるだけである。「連日」書いていたのは石河である(福沢の指示があったかどうか、それは分からない)。 |
084 | 05 | 「福沢諭吉年譜」 | この年譜は、現行版全集を最大の典拠としている。収録無署名論説もすべて福沢執筆という建前のため、超人的な活動を生涯にわたって行ったことになっている。 |
084 | 12 | 無謀で乱暴な「勇気」 | 『福沢伝』第 3 巻の当該部分が書かれたのは、1930 年代初頭のことである。石河は 35 年前の出来事を、主に時事新報のバックナンバーによって再構成したにすぎない。しかも当時の編集部の幹部はすでに亡くなってる。私は『福沢伝』の記述がフィクションであると決め付けているわけではなく、石河の証言には証拠がない、と言っているだけである。少なくとも書簡による裏づけは不可能なのである。 |
085 | 09 | 基本的に考えられない | この節を含む一文は何を根拠にしているのだろうか?1898 年春頃語られた『自伝』には「新聞紙の事も若い者に譲り渡して段々遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などが専ら執筆して、私は時々立案して其出来た文章を見て一寸々々加筆する位にして居ます」(現行版第 7 巻 250 頁)。つまり時々立案したものにしか福沢の筆は入っていないように読めるのだが。 |
085 | 11 | 「教科書の編纂検定」 | 昭和版所収。何度もいうように、この時期でも福沢は立案を続けているのである。立案していないものはどうか、ということを私は問題にしているのである。 |
085 | 13 | 「独断で掲載」 | 出典を明記するべきであろう。『真実』151 頁 4 行目だとするなら、これは昭和版所収の「旅順虐殺無稽の流言」という特定の論説についての推測である。福沢立案ではない論説を掲載することは、当然あったと考える。 |
099 | 12 | これほど福沢の「脱亜論」を善意に解釈する……知らない | 知らないのは安川が不勉強だからである。これは私の独創ではなく、坂野潤治(1981 年)・飯田鼎(1984 年)以降有力になりつつある、むしろ基準的な解釈である。 |
101 | 02 | ありのままの歩み | 2001 年の安川・平山論争をそのままなぞっているだけである。反論については『真実』168 頁以降を参照。 |
103 | 04 | 福沢の名誉毀損になりかねない | 上にも書いたが『尊王論』の起筆者認定の考証を『真実』は割愛している。安川が述べるような単純な区別により行ったわけではない。結論だけ言うなら、『尊王論』の下書きは確実に石河によるものである。ただし、それに福沢が加筆添削をして自分の名前で出版したのだから、福沢の思想と呼んで一向に差し支えない。もともと単行本の表紙には「福沢諭吉立案石川半次郎筆記」とあるのだから、何から何まで福沢が書いたものでなくてもいいのである。 |
103 | 08 | 全文ことごとく福沢みづから執筆したもの | 『尊王論』の自筆原稿は残存していない。また、富田のこの言明の根拠を私は知らない。『福沢先生浮世談』も『福翁自伝』も口述筆記だが、これらは社説ではないということで例外扱いなのであろうか。 |
104 | 08 | 「臣民」 | 『尊王論』は明治版所収である。「徳教之説」は大正版所収なのであるから、前例検索の対象として適切ではない。とはいえ、「臣民」の用例は明治版に限っても『尊王論』が最初ではない。『文明論之概略』(1875 年)に「伊藤氏の臣民」(現行版全集第 4 巻 205 頁 7 行目)の用例がすでにある。この「臣民」とは、「家臣」と同じ意味のように受け取れる。「徳教之説」の「臣民」については、上に帝室が出ているのでそれに合わせて「臣民」(subject)と呼んでいるだけではなかろうか。内容的に安川がいうような意味での「臣民」であるかどうか、が問題なのである。 |
108 | 04 | はずのない第二の理由 | 誰が『尊王論』を書いたのか?を参照のこと。なお、勘のよい読者なら『真実』40 頁以降の記述から、事態を正しく推理できると思う。 |
108 | 10 | 「上製本」 | この本が献上用のものであるとするのは、富田の解釈にすぎない。現物は石河の手元にあったのである。この上製本作成を福沢に願ったのも石河だと私は考える。 |
108 | 10 | 『日本皇室論』 | 1930 年時事新報社刊行。福沢が関与できたはずもない。また合本『帝室論尊王論』(1911 年)も同様である。『尊王論』に関する福沢自身の言及は全集中たった 1 ヵ所「華族の教育」(大正版所収)の冒頭に引かれているだけである。 |
109 | 04 | 「贔屓の引き倒し」 | べつに贔屓の引き倒しをしたつもりはない。単に考証の結果下書きを担当したのが石河であったということが判明したからそう書いただけである。なお、『真実』83 頁 11 行目に「石河執筆福沢添削」のカテゴリーⅢであるかのような記述があるが、その可能性は排除できないものの、やはり「福沢立案石河執筆」のカテゴリーⅡと見なすのが適当であるようだ。 |
「Ⅱ 井田進也『歴史とテクスト』の杜撰と欠陥」に関して
頁 | 行 | 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の記述 | 平山氏による註 |
---|---|---|---|
127 | 06 | 思想犯罪 | 私はこの言葉を本文中で使用していない。 |
127 | 16 | 石河自身が起草した 14 篇の社説 | 大正版ではなぜわざわざ断り書きをしたかについての推定は、『真実』95 頁以降を参照のこと。さらに、187 頁以降に書いたように、大正版刊行(1926 年)時には伊藤・北川・堀江らが存命であったため、「これら 14 編は備付スクラップブックに入っていなかったじゃないか」という指摘を受ける可能性があった。3 名とも伝記刊行(1932 年)までには亡くなったので、昭和版(1934 年)ではその断りを入れる必要がなくなったのである。 |
128 | 09 | その懸念が不要 | もちろん不要である。なぜなら安川は大正版(社説 224 編)よりもはるかに純度の劣る昭和版(社説 1246 編)に基づいて立論しているからである。ここで安川が大正版所収論説では論を維持できないと明言することによって、大正時代末までの福沢像は、安川のいうアジア蔑視者や侵略主義者ではなかったことが逆に明らかとなってしまうのである。 |
130 | 04 | もっともらしく主張・解釈 | 『福沢伝』第 3 巻の記述が満州事変と密接な関係があることのヒントを与えてくれたのが、安川『アジア認識』であった(同書 214 頁以降参照)。 |
130 | 05 | 「外戦始末論」 | この論説は昭和版ではなく大正版所収である。「積極的な戦争煽動論説」(『真実』184 頁)とは昭和版所収論説のことであるから、本論説や「日本臣民の覚悟」はその中に含まれない。 |
131 | 01 | 「国民に自重を求めた」 | じつは同様の記述は『福沢伝』第 3 巻(775 頁)にも、「三国干渉、遼東還付の始末に関する先生の態度は「他日を待つべし」「ただ堪忍すべし」とて、国民に向つてひたすら自抑自制を勧告せられた」とあって、私の記述と矛盾しないのである。ただ、もちろん石河は戦闘中の諸論説を福沢に帰するので、講和会議中に態度を変えて抑制的になった、とするのであるが、私の立場ではその時期になってやっと福沢は筆を執ることにしたのだ、と解釈するわけである。 |
134 | 03 | 実在の詳細な文献資料 | 詳細だから正しいというものでもなかろう。『福沢伝』の日清戦争に関する記述には、同時的な書簡・記録等に基づいて書かれた部分はほとんどない。 |
134 | 08 | 石河『伝』③には「明白な虚偽」がある | 『真実』102 頁については、『福翁百話』の執筆開始が、『福沢伝』第 3 巻 713 頁には 1894 年春頃とされているのに、『百話』序文には 1895 年以来とあるので、「明白な虚偽」という表現を用いた。113 頁、123 頁、146 頁は昭和版『続全集』についてなので無関係。158 頁にこの言葉は使われていない。 |
134 | 10 | 四千字近い重要な石河の記述 | 35 年前の他人(福沢)の行動をこれだけ詳細に書ける、ということ自体が怪しいのである。自分(石河)のことであった、と解釈するならすっきりと説明がつく。 |
134 | 14 | 十分論証されている | なぜ石河が本当のことを言っていると分かるのだろうか。『福沢伝』当該部分からは、福沢ではなく石河が「日本臣民の覚悟」を非常に重要視していた、ということが証明できるだけである。 |
135 | 05 | いちいちかなり厳密に断っている | 大正版所収論説について言及するときは、①「福沢先生は…と言われた」、当時未刊行だった昭和版に属するものは、②「時事新報は…と伝えた」、となっているのである。そのため、大正版に入っていないのに『福沢伝』で重要だとされている論説は、③「福沢先生は石河に…と書かせた」という形式で引用するしかなかった。「旅順虐殺」がその 1 つの例である。実際に福沢が執筆したかどうかで区別されているわけではない。 |
136 | 05 | 単純な認定基準 | 井田メソッドと私の方法の違いについては既述。私は誰が下書きを担当したかまでは分かる、と言っているのである。当時社説は福沢および 3 名の社説記者(論説委員)の輪番で作成されていた。候補者は 4 名しかいないのであるから、語彙や表現のデータさえ的確ならば、その文章を誰が書いたかくらいは分かるのである。安川が批判する井田の「脱亜論」筆者認定でも、井田の結論は特上 A であって、要するに福沢文という判定なのである。 |
138 | 07 | (福沢のトータルな思想は)大きく変化 | もしそうだとしたら、署名著作(現行版全集第 7 巻まで)の内容相互に矛盾がないのはなぜなのか。安川が「変化した」とするその証拠が無署名論説に限られるのはなぜなのか。安川は1898 年 04 月刊行の全集未収録署名著作『修業立志編』について決して触れようとしないが、それを扱うと福沢が晩年までまったく変わっていなかったことが証明できてしまうからではないだろうか。石河は『修業立志編』 42 編から 9 編の論説を「時事論集」から除いているが、それらが『福沢伝』の立論に邪魔になったから以外の理由を思い浮かべることはできない。排除された論説「忠孝論」には、「御馬前に討死など現在では無意味となっている」と書かれている。福沢真筆のこの文章を石河は読者に読ませたくなかった、ということだけは確実である。 |
145 | 01 | 「日本臣民の覚悟」 | 福沢自身による本論説への言及は 1 つもない。草稿は残存せず、生前の単行本にも収められていない。 |
157 | 03 | 「一大英断を要す」 | 福沢自身による本論説への言及はやはり 1 つもない。草稿は残存せず、生前の単行本にも収められていない。 |
157 | 05 | 珍しく弱気 | 無関与の証拠など提示できるはずがないからである。 |
158 | 13 | (岩波書店の)公式見解 | 安川に同意。私も待ってます。 |
160 | 03 | 「支那を滅ぼして欧州平かなり」 | 昭和版所収論説。 |
160 | 12 | 「敵国外患を知る者は国亡びず」 | 昭和版所収論説。 |
161 | 07 | 「求る所は唯国権拡張の一点のみ」 | 昭和版所収論説。 |
161 | 11 | 「外国との戦争必ずしも危事凶事ならず」 | 昭和版所収論説。 |
161 | 14 | 「唯決断に在るのみ」 | 昭和版所収論説。 |
162 | 02 | 「維新以来政界の大勢」 | 大正版所収論説。 |
163 | 05 | 「滅私奉公論」の形成・成立 | ぜひ「福沢の署名著作だけ」で、その論の形成・成立を跡づけてほしい。 |
165 | 01 | 「大本営と行在所」 | 昭和版所収論説。 |
165 | 02 | 「天皇陛下の御聖徳」 | 昭和版所収論説。なお、1894 年 06 月から 1895 年 04 月までの書簡 105 通において、福沢は明治天皇に一度も触れていない(『真実』153 頁)。 |
165 | 07 | (「福沢の思想・文章」であると)十二分に明らか | 同じ新聞の社説に類似の表現がある、というただそれだけのことである。これで証明が可能だとするなら、第二次世界大戦後の朝日新聞の社説はたった一人の人物によって書かれた、ということも論証可能となろう。 |
165 | 09 | 福沢の真筆 | 私の判定では「唯決断…」以下 4 編の起筆者は石河である。とくに 1892 年は 07 月下旬から 08 月 29 日まで神奈川県の酒匂に避暑に出かけていたため、08 月 2 日掲載の「唯決断…」の執筆は物理的に不可能であったように思われる(『真実』99 頁)。 |
166 | 06 | もともと同一人物が書いた | 石河という同一人物が書いた、という意味ならば同意。安川によって「日本臣民の覚悟」が石河の執筆であったことがますます濃厚となった。 |
166 | 10 | 同時期の福沢の真筆との対比・照合 | 安川自身がこの作業を行っていない。1895 年頃の確実な真筆は『福翁百話』なのであるから、そこでの記述との比較をするべきだったのである。 |
「Ⅲ 日清戦争期の福沢諭吉」に関して
頁 | 行 | 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の記述 | 平山氏による註 |
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204 | 16 | そっくり同じこと | 山口や姉あての手紙は、戦勝を喜んでいるだけである。だからといって「外戦始末論」を書いたことにはならない。それが重要な福沢論説ならばなぜ緊急出版されなかったのであろうか。福沢自身による本論説への言及は全集中に 1 ヶ所もない。 |
205 | 13 | 参勤交代 | 江戸時代末期の参勤交代は行軍などではなく、大名と家来の団体旅行にすぎなかった(いわゆる大名旅行)。これでは西欧諸国の侵略に対処できないということで、1850 年代初頭から各藩で軍制改革が行われたのである。福沢が蘭学を始めたのも、西洋砲術習得が最初の目的であった。初期の著作を見れば分かるように、福沢は軍事学に相当な知識を有しており、それゆえ「外戦始末論」のような素人っぽい論説を書くとは思えないのである。ちなみに石河が生まれた水戸藩は主君定府(いつも江戸にいる)であったため、参勤交代はなかった。 |
206 | 16 | 社会的責任を背負い込んでいる | 福沢が不適切な表現を見過ごした可能性があることは認めたい。 |
214 | 13 | いささかも確認できない | 石河が清国の人民を蔑視しているのに、福沢はその政府を批判している、というこの違いが分からないのであろうか。 |
222 | 09 | 「日清の戦争は文野の戦争なり」 | 昭和版掲載論説。石河は本論説を大正版に入れていなかったため、『福沢伝』では福沢のせりふとしてそのタイトルを紹介している。本論説がもともと編集部備付スクラップブックに入っていなかったことは確実である。また黙って紛れ込ませることもできなかった、と考えられる。それは大正版当時、伊藤・北川らが存命であったからである。文体的にははっきりと石河執筆である。大正版に収めたら「これは君が書いたんじゃないか」というクレームがつく恐れがあったのであろう。 |
228 | 07 | 『訓蒙窮理図解』 | この引用は滅茶苦茶である。原典には「実に西洋人の笑資にて、孟子の罪人なり」となっている。つまり、学ばない人間は馬のようなもので、西洋人には笑われ、孟子には罪人と呼ばれてしまう、である。つまり、批判されているのは勉強しない人間全般であって、中国人のことではない。「賎しむべし、又憐れむべし」も同様。 |
228 | 11 | 『世界国尽』 | アヘン戦争ごろの中国の情勢をありのままに記しているだけである。 |
228 | 16 | 284 編のうちわずか 10 編 | 日清戦争関連論説が大正版全 224 編中 10 編にすぎないことが重要なのである。発刊時存命であった戦争当時の編集部在籍者にとって、福沢作と認められる論説はその程度であった、ということなのである。 |
230 | 04 | 「日清戦争中の論説のほとんどは石河の執筆」 | 安川は大正版のみをサンプリングしたことを批判しているようだが、昭和版所収論説はもともと大部分自分で執筆したと石河自身が語っているのである(『真実』75 頁)。大正版より真筆比率が高まることなどはありえない。前にも触れたが昭和版所収戦争関連論説は、「計画の密ならんよりも着手の迅速を願ふ」(1894 年 06 月 06 日)と「朝鮮の改革に因循す可らず」(09 月 7 日)の原稿が残存している。現行版ではさらに原稿によって「兵力を用るの必要」(1894 年 07 月 04 日)、「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(07 月 5 日)が加わっている。大正版3 編にこれら 4 編を加えても、1894 年 06 月から 1895 年 06 月までに全部で 7 編があるだけなのである。 |
241 | 07 | 「台湾の騒動」の筆者認定 | 桑原三郎は現行版全集の「福沢先生年譜」をそのまま踏襲して、「福沢先生の執筆である」、と書いたに過ぎない。個別の社説タイトルに付せられた「福沢先生」の有無に深い意味はない。 |
243 | 12 | 「明治二十九年」の年譜 | 掲載の 9 編はいずれも昭和版所収論説で、原稿の残存するものなし。 |
248 | 08 | 三月以降は、福沢はもっぱら『百話』の執筆に専念 | 福沢は掲載前に全文を脱稿するのが常であった。『百話』は 1895 年中に執筆が始められ、1896 年 02 月には出来上がっていたと考えられる。序文の日付は 02 月 15 日である。 |
250 | 05 | 基本的な違いは見られない | それは両論説ともに石河の執筆であるからである。 |
256 | 15 | 「義金の醵出に就て」 | 昭和版所収論説。 |
257 | 06 | 「国民一致の実を表す可し」 | 昭和版所収論説。 |
264 | 06 | 『福沢諭吉全集』⑭「後記」 | 富田正文執筆ということになっているが、1933 年 12 月刊行の昭和版『続福沢全集』第 4 巻「明治二十七年篇・本篇の概説」(石河幹明)のほぼ丸写しである。しかも問題なのは、主語が「時事新報」のところまで「福沢」と書き換えられていることで、「「時事新報」は最初から強硬説を執り」(昭和版第 4 巻 2 頁)は、「終始一貫して強硬論を主張してやまなかった福沢」(現行版第 14 巻 687 頁)になっている。実際に開戦当時編集部に詰めていた石河は福沢の関与についてそれなりに抑制的な表現をとっているのに、日清戦争から 65 年後、昭和版刊行からも 25 年を経てリライトした富田は、福沢の果たした役割をより強めているのである。ともかく現行版の「後記」ももとは石河が書いたのだから、石河の言葉の正しさを、石河によって証明しようとする、この試みが無意味であることは言うまでもない。 |
268 | 02 | 筆者が誰であるかを……かなり厳密に断っていた | 既述のように、この使い分けは、大正版所収か否かによる区別である。安川は、昭和版掲載論説全てが「福沢筆でない」と主張しようとしているのであろうか。 |
269 | 11 | 勝手に引用文を「改竄」している | 私は「起草」と「執筆」を同じ意味で用いた。石河が使い分けているとも思えない。 |
270 | 11 | 「一切の証拠を欠いている」 | 私は開戦時のことを言っている。安川が証拠としている書簡 6 通の日付は、1894 年 07 月 30 日、08 月 08 日、09 月 08 日、10 月 05 日、12 月 14 日、1895 年 01 月 17 日であるが、勝敗が決していなかった 10 月 5 日までの書簡に「愉快自から禁ぜざる」ことをうかがわせるものはない。演説は 08 月 01 日、1895 年 04 月 21 日、12 月 12 日。渋沢談話は 08 月 01 日の出来事を後年回想したもの。福沢が率先して行ったのは義捐活動であるが、「開戦したからにはしかたがない、こうなったら勝つように努力しよう」というもので、前々から戦争を画策していたわけではなかったのである。 |
273 | 01 | 十二分に裏付けられて | 戦勝を喜んだからといって、開戦を望んでいたとは限らない。安川は無関係な事柄を証拠としてあげている。私が欲しているのは、「日清戦争開戦前」の「ぜひとも戦争するべきだ」という福沢自身の言明なのである。 |
279 | 13 | 石河の悪意のための平山の創作 | まず「書簡でふれていない」とは、福沢書簡すべてについてのことで、この事件に関心があったとしたなら話題になっていないのは奇妙だ、ということである。「旅順虐殺」の第一報が『タイムス』に掲載されたのは 12 月 3 日、国内では 12 月 7 日の『ジャパン・メール』が最初であった(井上晴樹『旅順虐殺事件』筑摩書房刊)。だから 14 日の掲載までに特派員に実地報告を求める猶予はなかったはずである。実際特派員の報告は文中にない。12 月 8 日の『読売新聞』『自由新聞』の反論を皮切りに、翌 9 日『時事新報』が、神戸で発刊されていた英字紙『神戸クロニクル』の記事の抄訳を掲載した。そして 14 日が問題の社説である。この日は『日本』も反論を寄せている。つまり 1894 年 12 月 10 日前後は国内外はその話題でもちきりだったのである。だが、福沢にはそれどころではない事情があった。前塾長の小泉信吉が 12 月 6 日に危篤となり、8 日には死去。同日の追悼会で演説をし、翌 9 日には弔文を起草、10 日には横浜で行われた葬儀に参列、という慶應関連の緊急事態が発生していたからである。13 日に翌日掲載の社説の草稿を読んだ可能性はないではないが、それ以上に福沢が関与した証拠はない、ということである。 |
283 | 11 | 脳卒中発作以後の福沢諭吉と石河幹明 | 私が『真実』において新たに指摘した事実は、福沢が脳卒中によって失語症となった、ということであった(137 頁以降を参照)。脳障害による失語であるから、リハビリによって回復した可能性はほとんどない。口授などできなかったはずである。78 編のうちに福沢と問題関心を同じくする論説がたまたまあったとしても、それはその点について福沢と石河が見解を同じくしていた、ということにすぎない。 |
295 | 06 | 福沢の病状回復の様子 | 年譜のこの時期の記述は『福沢伝』に基づいている。また、弟子たちは総出で福沢が復活したように装わなければならなかった。慶応義塾が危機に瀕していたからである(『真実』138 頁以降)。 |
297 | 13 | あれが書字能力を喪失した人の字ですか | 身内に失語症の者がいるので知っているのだが、字は書けるのである。ただ、文章の形にはならない、ということである。もちろん痴呆などではなく、認識はできる(『真実』140 頁)。 |
298 | 06 | 作為的な誇張 | 病後のどのような資料からも、福沢が思想を表現できたという証拠はない。私の記述は誇張ではない。 |
298 | 07 | 「豚狩」 | つまり福沢は一時は危篤となるほどの重篤な脳卒中にかかり、写真で判断する限り左方麻痺になってなおも、中国人蔑視をやめなかった、ということになる。発作半年前の 1898 年 03 月には逆に蔑視を厳しく戒める演説を行い、同月 13 日には「支那人親しむ可し」という差別語を使ってはならない、という真筆社説を書いているにもかかわらず(『真実』163 頁以降)。 |
304 | 02 | 「浮世床の巻舌話」 | 大正版所収漫言。既述のようにこれは私の見落としである。ただし、福沢が書いたという証拠はない。大正版編纂時に石河が選択したものの 1 つである。 |
305 | 05 | 「支那将軍の存命万歳を祈る」 | 昭和版所収漫言。福沢が書いた証拠などまったくない。ただはっきりしているのは、こうした漫言を石河は『福沢伝』に盛り込むことを望んだ、ということだけである。 |
308 | 07 | <本藩に対しては其卑劣朝鮮人の如し> | 区切る場所を間違えている。「本藩に対しては其卑劣」が「朝鮮人の如し」であって、旧幕時代の各藩の家来たちの態度を批判しているのである。もちろん朝鮮人をそのたとえに使うのが不適当であることは認める。 |
312 | 13 | 「例外的真筆」 | 他がほとんど偽物だから、本論説が例外的なのであって、福沢本人の主張として例外である、といっているわけではない。署名著作では一貫して主張されていることである。 |
313 | 01 | アジア蔑視観を、福沢が生涯保持していた | アジア蔑視観は商売の邪魔だ、という演説の存在をどのように説明するのであろうか。 |
318 | 04 | なんの不思議もない | 多くの人々が今まで不思議がっていて、私の本によってやっと納得できた、と言ってくださっているのである。福沢真筆論説と内容の矛盾する論説は、石河ら別人が書いたという私の解釈のほうが、まったく「なんの不思議もない」と思うが。 |
319 | 02 | 低い次元の考察 | 福沢諭吉はでたらめな人間だ、と主張することが高い次元の考察なのであろうか。 |
「[補論]『福沢諭吉と丸山眞男』をめぐる反応・反響」に関して
頁 | 行 | 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の記述 | 平山氏による註 |
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367 | 02 | 『東日流外三郡誌』 | この文章は完全な偽書であると、安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂出版・ 1994 年)は主張している。 |