『福沢全集』「時事新報論集」の出鱈目
このテキストについて
平山氏の依頼により、3月19日ZOOMにより開催された八王子サロン」(渡邉昭夫東大名誉教授主宰)の発表内容と質疑をアップロードします。
なお、平山氏よりメールが届いています。
当日の出席者は約30名で、盛況でした。発表後の質疑も活発で、3.質疑に掲げたような応答がなされました。
発表内容
東アジアの革命家たちはマヌケだったのか
本日の研究会には多くのアジアからの参加者が出席されているようです。そこで発表の中身に入る前にまず、現在の『福沢全集』の「時事新報論集」への社説選択が福沢諭吉の真実を歪めているのではないか、ということを想起させるアジアにも関係する一つの事例について話します。
現在の中国や韓国で、福沢諭吉といえば、アジア蔑視の帝国主義者という評価が一択になっています。けれども、考えてみるとこれは奇妙なことなのです。あらかじめ参考資料として提供しておいた福沢健全期『時事新報』社説研究一覧をご覧ください。その16番「中国社会主義核心価値観の源流は福沢諭吉にある」で書いたことは、19世紀末から20世紀初頭の東アジアの革命家たちがこぞって日本に留学し、そこで福沢の著作の影響を受け、帰国後は福沢そっくりの政治的文書を書いて独立運動に邁進したという事実です。
韓国の金玉均・朴泳孝、中国の孫文・梁啓超・陳独秀らがそうした革命家たちですが、もし福沢の生前から明々白々なアジア蔑視の帝国主義者という評価があったなら、彼らは相当なマヌケになってしまいましょう。自分たちの祖国を侵略するべきだ、と主張している思想家をあがめていたことになってしまうからです。
現在、福沢がアジア蔑視の帝国主義者とされる証拠は、主として彼が主宰していた新聞『時事新報』の社説から選び出された、「圧政もまた愉快なるかな」(18820328)・「東洋の政略果たして如何」(18821207)・「脱亜論」(18850316)・「日本臣民の覚悟」(18940828)・「日清の戦争は文野の戦争なり」(18940729)・「対韓の方針」(18980428)などとなっています。ところがそれらが『福沢全集』に収録されたのは福沢没後四半世紀を経た1926年以降のことで、それらを「時事論集」に収録したのは、福沢の弟子で創刊3年後から社説記者として働いていた石河幹明ただ一人であったのです。
「時事論集」に福沢自身が自分の著作と認めた社説は含まれていません。社説欄に掲載されて後に福沢名で出版された著作は、現行版では第6巻より前に収録されています。それに対して石河が社説欄から拾って「時事論集」に収めた社説は、現行版では「時事新報論集」として8巻から16巻までを構成しています。
そこで先ほど述べたアジア蔑視の帝国主義者とされる証拠とされる社説は、石河が書いた『福沢諭吉伝』(1932)で重要視されている論説でもあるのです。「東洋の政略果たして如何」(18821207)の紹介がなされたのち、伝記には次のように書かれています。「先生は「支那が手に入つたら其総督には彦さんが適任であらう」など戯れられたといふ。此応酬の如きは固より一時の座興であるが、又これ鬱勃たる英気の現はれであらう。而して先生の東洋政略は、事の順序として先づ朝鮮の独立を助成するの一事から着手しようとせられ、(中略・さらに)朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」(第3巻684頁)。この部分は資料8福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国にも引用してあります。
要するに、『福沢諭吉伝』は石河が紙面から選んだ社説をもとに書かれていて、石河はそこで明確に帝国主義者・植民地主義者としての福沢像を打ち出しているのです。素材となる社説は福沢存命中に出版された明治版『福沢全集』には入っていないのですから、そもそも帝国主義者としての福沢像など、社説224編を含む大正版『福沢全集』(1925,26)が出版されるまで描き出しようがなかったのです。
石河幹明による『全集』への社説採録
もちろんこれだけのことで、現行版の『福沢全集』(1958~64)の「時事新報論集」が出鱈目だ、ということにはなりません。石河が福沢由来の社説を的確に選択した可能性もあるからです。
問題は、現行版の「時事新報論集」に収録されているのは、編集部備付のスクラップブックに由来するという大正版の「時事論集」224編だけでなく、昭和版『続全集』(1933,34)の「時事論集」1246編が加わっているというところにあるのです。この多数の社説が福沢に由来するかどうかは定かではなく、石河が「これは福沢が立案した」と言って選んだ、ただそれだけのことにすぎません。しかも昭和版『続福沢全集』「附記」には、後になるほど石河が執筆した社説が多くなる、と明言されてもいるのです。もちろん福沢の指示に基づいて、ということですが、その指示なるものはほとんど残されていません。
福沢からの指示のあるものは、かろうじて福沢全集に入れられる資格があると思われますが、その証拠のないものは石河が勝手に書いた社説であるかもしれない。最悪の場合、石河は自分で書いた社説を『福沢全集』に採録し、それに基づいて『福沢諭吉伝』を書いた可能性さえあるのです。
例えば、「日清の戦争は文野の戦争なり」(18940729)は『福沢諭吉伝』第3巻に、タイトルは表示されることはなく、福沢先生は「日清の戦争は文野の戦争なり」と喝破せられた、と内容が紹介されています。これは福沢が日清戦争で清国を野蛮と見做していた証拠とされていますが、日清戦争時の福沢直筆の社説や書簡を調べたところ、清国を野蛮と評している文書は残されていませんでした。そうなると、「日清の戦争は文野の戦争なり」と「喝破」したのは執筆した石河本人だったのではないか、そのように思われるのです。
ことほどさように全集に収録されている「から」福沢の思想だ、とみなされることが多いわけですが、そもそも収録社説の多くを石河が書いたことは、石河本人の証言に明らかです。そのため、石河が書いたのだから石河の考えなのかもしれない、と今一度検討する必要があるのです。
満州事変を正当化する石河『福沢諭吉伝』
こうして石河は『福沢諭吉伝』によって帝国主義者としての福沢をいわば売り出したわけですが、なぜそのような福沢像を描いたかといえば、そのヒントは伝記が出版された時期にあります。すなわち出版された1932年は満州事変の翌年にあたるのです。『福沢諭吉伝』第3巻を今読むと、その侵略思想に不快感が湧き上がるのですが、1932年にその本を読んだ日本人はそうは感じなかったはずです。当時の世論は、満州だけでなく中国本土もやれ、という風潮でしたから、それまで知られていなかった大陸積極策を唱えていた福沢諭吉という、当時にあっては斬新な福沢像が立ち上がったわけです。
最大限石河に寄り添った解釈をするならば、石河は福沢から命じられたと信じている社説を紙面から選びだし、誠実に彼が信じている福沢像を『福沢諭吉伝』で描き出した、という可能性もありえましょう。弟子が自分の見方によって師匠を描くのは当然のことです。プラトンが記述するソクラテスと、クセノポンが描くソクラテスには違いがあります。福音書の作者たち、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの、それぞれが描くイエスにも違いがあります。
発表者も、研究を始めた当初は、石河が福沢の姿を歪めたとしても、それは故意ではなく、福沢を深く愛する故ではないか、という好意的な解釈をしていました。ところがそうではなかったのです。調べていくうちに、石河は福沢が立案した、あるいは福沢自身の直筆であると知っていながら、全集から落としていた社説があったことが分かったのです。
福沢社説を石河は全集から排除した
石河が福沢による社説と知りつつ全集から排除した実例を以下で列挙します。
(1)石河は福沢署名著作『修業立志編』(1898)を単著として大正版『福沢全集』(1925、26)に入れていないばかりか、全42編中9編を「時事論集」に収録しなかった。これらが福沢立案または執筆であることは明らかである。「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」
(2)石河は福沢の直筆原稿残存社説92編のうち50編を全集に収録していない。(2011年現在)。日清戦争中の福沢社説をも落としている。「石河幹明が信じられない3つの理由」
(3)石河は後に単行本となる連載社説に先行する原型社説の多くを全集に収録していない。「福沢署名著作の原型について」(2015)『「福沢諭吉」とは誰か』について
このように石河ははっきり福沢作と分かる社説を全集に収めませんでした。発表者はこうしたあり方を石河の「不誠実」と評したのです。「石河幹明は不誠実な「仕事」をした―都倉武之論文への応答とその他のことども―」
石河は『福沢諭吉伝』で帝国学士院賞を受賞しようとしたのか
それではなぜ石河はそのようなことをしたのでしょう。福沢作の社説を「入れない」ほうが真の福沢像が描き出せる、などということはあり得ません。事態は逆で、それが福沢の真実では「ない」と知っていながら、自分に都合のよい(しかも多くは石河自身が書いた)社説を全集に収録し、それに基づいて『福沢諭吉伝』を書いたのでした。
発表者が『福沢諭吉の真実』を出した2004年の段階では、石河がこのようなことをした動機についての考察は十分ではありませんでした。自分が書いた社説を自分の業績とはせずに自らの師に仮託する、などというのは、例えば師匠福沢の思想の解釈権を自ら独占することで、自分の仕事は無にしてもよいと考えて満足する、というような一種の独占愛ではないかと漠然とは考えていたのです。ところが刊行後まもなくして関西大学の谷沢永一氏より重要な指摘がありました。それはすなわち、石河が『福沢諭吉伝』によって帝国学士院恩賜賞の受賞を狙っていたのではないか、ということでした。
調べなおしてみると、石河が慶應義塾から福沢伝の編纂の依頼を受けたのは、徳富蘇峰が『近世日本国民史』で学士院賞を受賞したのと同じ1923年のことでした。関東大震災のため作業は翌年に始まりましたが、その作業というのは各方面から福沢書簡を収集するのと、『時事新報』のバックナンバーから福沢のものとされる社説を選ぶことでした。その時助手として採用されたのが戦後の福沢研究を慶應義塾の内部から指導することになる富田正文だったのです。彼はその後1965年に『福沢諭吉全集』(現行版)の編纂によって日本学士院賞を受賞しています。
市井の学者の代表にしてA級戦犯容疑者徳富蘇峰
徳富は福沢を仮想敵として1880年代にデビューし、日清戦争中の1894年には『大日本膨張論』を著して帝国主義のイデオローグとして変貌を遂げました。当時蘇峰が主宰する国民新聞社は時事新報社の近所にあり、国民新聞は時事新報の論調を批判していました。その批判の本質は主宰者である福沢にも向けられていました。福沢は個人主義者で愛国心のカケラもないというのです。そうした批判を編集部で受けていたのが石河だったのです。
蘇峰は50歳代半ばの1918年になって『近世日本国民史』を書き始め、1923年に学士でもないのに学士院賞を受賞しました。4歳最年少の蘇峰を勝手にライバル視していた石河が「俺だって」と考えるのは不自然ではないでしょう。そうして石河が著したのが、福沢は今まで考えられていたような個人主義・功利主義の徒ではなく愛国者で帝国主義の信奉者だった、という内容の『福沢諭吉伝』でした。要するに福沢は蘇峰のような人物だった、ということで、この伝記は刊行当初は学士院賞を受賞できなかったばかりか大して話題にもならなかったのに、戦後は一転して左翼による福沢攻撃のネタ本となっています。
1859年生まれの石河は1943年に84歳で亡くなりました。1863年生まれの蘇峰の主張は1894年の『大日本膨張論』以降、日本の領域を「面」として広げるべき、ということで一貫していました。当時は急速な人口増加にいかに対応するかが国家として喫緊の課題とされていたからです。その考えは日本陸軍の思考法とも適合していて、満州事変後、すでに60歳代になっていた蘇峰は再び脚光を浴びることになります。太平洋戦争の開戦後は1942年に文学報国会会長に就任し、1943年には文化勲章を受賞しています。
1945年の敗戦後は日本国民を扇動し、侵略戦争を企画したかどでGHQからA級戦争犯罪人の容疑がかけられました。戦犯裁判については高齢のため不起訴とされ、その後は『近世日本国民史』を1952年に完成させたのち、1957年に95歳で没しました。
なぜ福沢は石河を排除しようとしなかったのか
今から17年前に『福沢諭吉の真実』を出版したとき、全集への社説採録の出鱈目と1932年に転換した福沢像について扱った部分は高い評価を得ましたが、一部に大きな疑問として、福沢と石河の考えに違いがあったなら、(1)なぜ福沢は石河を排除しようとしなかったのか、そうして、(2)福沢の立場とは異なる石河執筆の社説の掲載をなぜ止められなかったのか、ということが指摘されました。次にその2点について、真実以後に明らかになったことを踏まえて説明したいと思います。
まず(1)石河排除についてですが、実は福沢は石河の追放を検討したことがあったのです。それは1888年11月のことで、もちろん『福沢諭吉伝』には一言も触れられていない事実で、なぜ明らかとなったかといえば、戦後(石河没後)に発見された中上川宛書簡に事件の詳細が記述されていたのです。発表者はこの事件をクーデタ騒動と呼んでいます。
1887年4月に中上川主筆が退社してから時事新報は主筆不在となり、福沢が社説を統括の上、実務は総編集の伊藤欣亮が仕切ることになりました。福沢はめったに編集部には顔を出さず、指示は伊藤を通して記者たちに下されていました。社説記者(論説委員)の地位は高くなく、それが不満だった石河と渡辺治は伊藤の追放と自分たちの待遇向上を求めます。その反乱を伊藤を通して聞いた福沢は、伊藤総編集をとるか石河や渡辺をとるかで迷いますが、結局伊藤の地位をそのままとし、石河らの待遇を引き上げることで落着を図りました。詳しくは誰が『尊王論』を書いたのか? その1にありますのでそちらをお読みください。
要するに福沢と石河の間には、石河入社3年後にはすでに一種の緊張があったのです。福沢が自ら新聞の後継者として期待していたのは、1887年7月に退社していた高橋義雄のほうでした。それは時事新報社の外からも丸見えだったようで、徳富蘇峰は高橋を福沢の後継者と見做していて、石河に決して触れようとはしませんでした。
結局福沢は最後まで石河を主筆に引き上げませんでした。石河を主筆としたのは1896年夏に時事新報社社長に就任した福沢の次男捨次郎だったのです。米国に留学していた一太郎・捨次郎兄弟の帰国はクーデタ騒動と同じ1888年11月のことで、彼らはすぐに時事新報社にヒラの記者として採用されています。伊藤欣亮との関係も悪かった石河は、福沢兄弟を庇護下に置くことで自らの立場を維持したものと見えます。
なぜ立場の異なる石河社説の掲載を止められなかったのか
次に(2)、福沢の立場とは異なる石河執筆の社説の掲載をなぜ止められなかったのか、について説明したいと思います。
時事新報社は福沢諭吉が個人で所有している会社でした。紙面には一切福沢の名前は印刷されていませんでしたが、オーナーであったのは周知の事実でした。けれどもそれは、掲載の記事すべてが福沢に由来することを意味しません。創刊時の社告にも、「社説を福沢が立案することがある」とあるだけで、立案社説は福沢名義著作として単行本化され、さらにそれらは明治版『全集』に収録されているのですから、福沢としては自分で明治版『全集』を作った後に、自分のものとも認めていない社説を含む大正版『全集』が刊行されるとは考えていなかったはずです。
もちろん、単行本化されなくても個別に書いた社説は多数あるわけで、石河が採録した大正版・昭和版「時事論集」は福沢に由来するすべての社説が収録されている、と見做されてきました。石河自身「先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く包羅した筈であるが、ただ世上に散在してゐる書翰の中には或は幾分漏れてゐるものがあるかも知れぬ」昭和版『続福沢全集』「緒言」と書いていて、社説についてはこれ以上探しても無駄だ、とたいそうな自信です。現行版の「時事新報論集」は、石河の採録を全面的に踏襲したうえ、直筆草稿が発見された場合にかぎり増補するという立場が堅持されています。
この経過から明らかなように、福沢とは立場の異なる社説はいくらでも掲載されていたし、創刊時からそれは周知の事実でした。『福沢諭吉の真実』の刊行時に呈された「なぜ立場の異なる石河社説の掲載を止められなかったのか」などというのは、そもそもピント外れな疑問ということになります。
福沢は権限を総編集の伊藤にほぼ全面的に譲った1893年頃から社説の事前検閲などしなくなったため、石河による福沢の立場と異なる社説が紙面に載せられた場合、それへの反論を後に掲載するようになった、しかし石河はそうした経緯を無視して自らの立場による社説のみを全集に収録し、福沢本人による反論は福沢全集に入れなかった、そのように思われます。
全集に非収録となっている福沢社説
こんなことがあっていいのか、とお聞きの方は思われるかもしれません。けれどもすでに石河が福沢による社説と知っていながら全集に採録しなかった事例の存在は証明されているので、そのことをいぶかしく感じる必要はないのです。
例えば「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705)という日清戦争開戦直前の社説があります(原文はウィキソースにあります)。朝鮮併合に断固反対し、内政改革の支援だけをするべきだ、という内容の社説ですが、当初この社説は全集に収録されていませんでした。戦後になって草稿が発見されたことにより現行版には入れられていますが、この社説を石河はなぜ落としたのでしょう。
気づかなかった、などということはあり得ません。『福沢諭吉伝』に、開戦直前の時期に福沢は連日筆を執ったとある3日連続の自筆草稿残存社説のうちの中日に当たっているのですから。石河がこの社説を排除した理由を、試みに1932年に身を置いて推測するならば、想像がつきます。要するにこの社説は、1910年の韓国併合の事実と矛盾するということなのです。石河としては福沢を偉大な予言者として仕立てたかったわけで、満州事変直後の状況に鑑みて不都合な社説は、たとえ福沢作と知っていたとしても全集から取り除いたということが推測できます。
草稿残存社説は社説総数に比して1.9%程度とごくわずかですので、石河は自らの立場による社説のみを全集に収録し、福沢本人による反論は福沢全集に入れなかった、ということを証明するのは容易ではありません。けれども、この8年ほど携わってきた全集非収録社説のテキスト化作業により、これは福沢ではないか、という社説がより出され、しかもそれらのうちいくつかは直前の時期の全集掲載社説の反論になっていることに気づいて、その確信を強めました(時事新報社説問題の最終的解決――『福沢諭吉全集』改訂の試み)。以下でその実例を2例挙げます。
最初は全集非収録になっている「植民地の經略は無用なり」(18960105)です。内容は、「面」としての領土拡大は無意味なことで、むしろ日本人を喜んで受け入れてくれる国に移民を行うことで人口増加に対応するべきだ、というものでした。「面」としての日本を広げるべきだ、というのが国民新聞の、あるいは蘇峰の持論でしたから、この社説はまっこうからその意見と対立しています。井田メソッド(時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その2参照)により発表者はこの社説を福沢直筆と判定しますが、ここで注目するべきはこの社説が、例えば全集収録の「外交上の八方美人」(18951119)への反論になっているように見えることです。すなわち、ここには「膨張進取は現在の地位を維持するが為め実際の必要」とあって、国家膨張論が提示されているのです。
次に着目したいのは、全集非収録の「朝鮮獨立の根本を養ふ可し」(18980504)です。ここには日本がより大きな資本投入を行えば朝鮮の人民も日本に好感をもって、親日的な独立朝鮮国が作られる、とあります。この社説はその6日前に掲載された全集収録の「對韓の方針」(18980428)の次の一節「今後朝鮮に對するには義侠の考えなど一切斷念すること肝要なり」への反論に見えます。この「対韓の方針」は現在では福沢の「転向」の証拠として重要視されている社説になっています。この場合も後者が石河による朝鮮独立支援断念論、前者が福沢によるその意見への反論と解釈しないと、なぜこれほど異なる見解の社説が、わずか6日の間に相次いで掲載されているのか理解できないのです。
丸山真男と発表者の見解の違い
ここまでの話によって、現行版『全集』の「時事新報論集」採録の出鱈目については確証はもてたものの、といって発表者による選別が正しいのかについては、何ともいえない、というのが出席者の大方の印象となりましょう。要するに石河が信用できないのはその通りだが、だからといって平山の信用性にも不安がある、ということです。
要するにこの発表の結論めいたものは、福沢はアジア蔑視の帝国主義者などではなく、市民的自由主義を標榜した単なる近代化論者ということで、それは確かに丸山真男と大差がないともいえます。最近の研究論文(尤一唯「初期『時事新報』の清国論説の一分析」)でそう評されているのですが、じつは丸山と発表者には、最後のところに違いがあるのです。
それはいわゆる「転向」に関する見方で、丸山は『福沢諭吉伝』の記述に従って、福沢も最後には帝国主義者に変貌したとするにのに対し、発表者が福沢に由来すると推測できる社説すべてにあたったところでは、どこにも領土拡大を求める記述は見られない、という結論に達したところです。福沢が希求していたのはあくまで商圏(マーケット)の拡大であって、国家そのものの膨張ではなかったのです。
こうした結論は、あるいは、本来福沢が負うべき責務を石河に負わせている、という憶測を呼ぶかもしれません。『福沢諭吉の真実』の刊行以来、安川寿之輔・杉田聡両氏ら反対者による平山批判の本質はそこにありました。例えていうなら、本来ヒトラーが負うべきジェノサイドの責任を親衛隊のヒムラー長官に負わせている、というような。
けれどもそれは的外れな批判なのです。というのは、確かにヒトラー自身によるジェノサイドの命令は発見されていませんが、ヒトラー自身による演説や評論は残っているのです。ところが福沢にはそれに相当するものがない。福沢名義で発表された著作(現行版『全集』第7巻まで)にも、書簡にも、直筆が残っている社説にも、264回記録されている演説(福沢諭吉演説一覧)にも、領土拡大について触れているものはないのです。
新たな『福沢全集』編纂に向けて
さて、そうなると、現行版の「時事新報論集」は参考にならぬとして、1882年以降の福沢の思索の展開はどのようになるのか。未だ暫定的ではありますが、全集非収録社説のテキスト分析を通して、福沢ではないか、と判定された社説が278編見つかりました(時事新報社説問題の最終的解決――『福沢諭吉全集』改訂の試み)。判定してからすでに4年経過しているので、今後多少の増減はあるものの、それらが大きくずれることはないでしょう。あくまで平山判定ですが、参考にしていただければ幸いと思っています。では逆に現に全集に属しているものから、福沢と無関係な社説を取り除くことは可能かといえば、それは難しいです。というのは無関係の証明などできるわけがないからです。
といって、今のまま放置しておいてよいはずもありません。そこで、おおよそ1893年より後の全集収録社説については、執筆者は石河であった可能性が高いと読者に注意を喚起する必要はあると考えています。誰がそうするかについては、全集を編纂した組織を引き継いでいる福沢諭吉協会がことにあたるしかないでしょう。
このような次第で新たな『全集』編纂は困難に直面するわけですが、そこへ向けての手掛かりになるかもしれないと期待しつつ、発表者は現在、福沢の思想研究と限らず、社説の研究一般として主題別の分析を試みています。福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説、福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国、福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における朝鮮、福沢健全期『時事新報』社説における海軍論、福沢健全期『時事新報』の署名入社説についてがそれにあたり、この主題別分析は「陸軍論」・「交通論」・「興業論」・「外交論」・「移民論」と続く予定です。
テキスト化作業の進展により明らかになったことは、あまりに多岐にわたり、また分量的にも膨大になっています。分量についていえばテキスト化した社説の総量はおおよそ400字詰原稿用紙で1万枚程度、その間発表者が公にした論文等も全部で1000枚程度にはなっています。
そうした中で最後にこの研究会とも関係が深い実例を一つ挙げるとするなら、従来まで考えられていた以上に井上馨率いる外務省と時事新報社との関係は深かった、ということがあります。条約改正交渉に関して井上と福沢の間には何らかの密約があったようです。それとは知られないように世論を誘導する、というような了解があったためか、『時事新報』は決して外務省を批判したりはしませんでした。
また、社説記者だった波多野承五郎は時事新報退社後1885年から1888年まで天津領事を務めていましたが、そのとき李鴻章と交流がありました。その一部が『時事新報』で報じられていて、それはいわゆるすっぱ抜きではなく、意図的なリークであったように見えます(支那招商局と日本郵船會社、1886年2月4日付・全集未収録)。社説本文は福沢の弟子にして新聞人・実業家・外交官・政治家、波多野承五郎にあります。
社説テキスト化の完了にともない、1882年3月1日から1898年9月30日までの『時事新報』社説が全部読めるようになることで、今後さらに多くのことが明らかになることでしょう。(発表終)
質疑
質問1
時事新報の文章(社説を含めて)には、福沢が立案し、他の人物が書くものが多いことは以前から知っていますが、そうであれば少なくとも文章の旨は福沢の本意に反しないだろうし、たとえ福沢が立案せずに直接他の人が執筆する場合、福沢が審査したり、文章の旨を確認したりしたうえで載せられたのではないでしょうか。
回答1
その疑問は、今までの定説で、その起源をたどると『福沢諭吉伝』の記述にたどり着きます。そもそも福沢は時事新報社を経営していただけで、編集していたわけではないのです。
石河が伝記を書いたとき、すでに福沢存命中の記者たちは全員死亡していました。
そこで、石河が「全部掲載前に見た」という虚偽を言っても、だれも反論できなかったのです。
たしかに掲載前に社説を点検していた時期もありましたが、私の推測では1892年あたりまでのことです。肝心の日清戦争のころには事前点検はしていなかったのです。
福沢は経営者ですから、紙面に自分の意見とは異なる社説が掲載された場合は反論するため自分の社説を載せました。後年石河が全集を編纂した時、福沢自身による反論を全集に入れなかったと推測します。
質問2
発表のなかで福沢の意に反する石河の文章が発表された理由についても説明しましたが、そのさい疑問に思ったのは、石河が自分に好都合の取捨選択によって『全集』の編纂する際、また伝記を出版する際、福沢の周囲から反発がなかったかということです。
回答2
伝記が出版されたとき、福沢が存命中にどのような社説を書いていたのか知っていたのは当時記者だった長男一太郎だけになっていました。一太郎は石河に恩義があったので、社説選択にもとくに異を唱えなかったようです。また、現在全集に収録されている社説は約1500編程度もあり、問題があるのはごく一部ですので、身内が気が付かなかった可能性もあります。
質問3
もし反発がなければ、石河のこのやり方は、彼自身のみならず、当時社会全体にとっても好都合のことであったということでしょうか。
回答3
すでに満州事変が始まっていて、中国とも米国とも関係が悪化していました。もともと福沢の米国好き、西洋的個人主義者、功利主義者という評判は定着していて、慶應関係者は当時の軍国主義者から疑いの目を向けられていました。ですので、石河の伝記と全集は弾圧を防ぐ壁の役割を果たしたのです。
質問4
発表を聞いたころ、石河が福沢の著作、およびその人物を独占したようなイメージを受けました。もしこの独占のイメージが正しければ、石河はなぜ独占ができたのかという点に疑問があります。
回答4
石河は自分の編纂物としては『福沢伝』と『全集』だけしか残しませんでしたが、そこに自分の社説を入れたことにより、「福沢とは自分だ」と主張したのです。
それが可能だったのは、彼が非常な長命だったためで、『福沢伝』刊行時に73歳になっていました。そのときはもう日清戦争前あたり以後の編集部員は全員死亡していたのです。
当時の福沢を、どのように書こうとも、クレームがつく心配はなかったのです。