福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説
このテキストについて
平山氏の依頼により「福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説」『キリスト教史学』第74集196~212頁(2020年07月・キリスト教史学会)をアップします。口頭発表版も適宜ご参照ください。
本文
はじめに―福沢の豹変
1882年3月1日に『時事新報』が創刊されるまでの諸論説でキリスト教の拡大に懸念を示していた福沢諭吉(1835~1901)が、同紙の社説「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」(18840606・0607、昭和版『続福沢全集』〔1933、34〕所収)によって態度を豹変させたことはよく知られている。
そこで福沢は、動物が生存のために保護色を身につける適応から説き出し、生物の適応を人事の世界に当てはめ、社会全体が自分を保護しようとしている、とし、他方で欧米の文明国は、卓越した「文物、制度、習慣、風俗、宗教等」を持ち、異質の社会を排斥しようとする傾向があるが、東洋諸国は、西洋に倣おうとして、西洋文明の傾向が世界全体の傾向となっている、とする。そこで、もし日本がこれに反抗すれば排斥される危険がある。従って、福沢は、「一切万事、西洋と其色を同うして其間に異相あるを覚へざらしめ」て、日本を「疎外」させないようにするのが至上の策だ、と主張したのである(注1)。
現行版『全集』(1959~64)を調べてみると、第5巻所収の『時事小言』(1881)までの署名著作にはキリスト教容認論は確認できない。また第8巻以降の「時事新報論集」についても、「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」より前の社説でのキリスト教への言及は必ず批判的である。全集に収められた論説や社説を見る限り、この意見の変化は唐突というしかない。なぜ福沢は突然キリスト教容認論に転じたのか、本論考は全集未収録社説を検討することにより、先ずはその謎を解くことを試み、さらに福沢健全期の『時事新報』のキリスト教関連社説を概観することを目的とする。
1 福沢のキリスト教容認論への転換を解く鍵は全集未収録社説にある
西洋で信仰されているのがキリスト教(先進国ではとくにプロテスタント)なのだから、文明開化のためにはキリスト教の移入が望ましい、などという意見は、禁教が解除されてから10年ものあいだ外国人宣教師や日本人信徒から表明されてきたことである。福沢諭吉ともあろうものが今更『時事新報』の社説に掲げるほどの目新しい見解とも思われない。
個人的には親しい宣教師がいたにもかかわらず、福沢は信仰心をもつことがなかったばかりか、一貫してキリスト教を批判し続けてきた。1884年になって突如容認に転じるのはじつに不思議である。従来までの研究では、福沢の意見は、現行版『全集』に当たれば分かるとされてきた。そして論者の考えでは、全集の絶大な権威のため、この問題の真相は明らかにされてこなかったのである。
現行版『全集』の「時事新報論集」への社説採録への全面的疑問を初めて表明したのは平山洋『福沢諭吉の真実』(2004)であった。その内容を要約するなら、「時事新報論集」の事実上の編纂者である石河幹明は、無署名である社説の選択を福沢の関与如何によって行ったのではなく、1930年代初頭という満州事変直後の時代状況に適合する社説を優先的に採録していて、そのため石河による『福澤諭吉伝』(1932)と『続全集』(1933、34)の刊行以降、アジア侵略論者としての福沢という像が強調されるようになった、というものである。要するに現行版『全集』「時事新報論集」の社説を読んだところで福沢の真意は分からないのである。
それでは福沢の真意はどこにあるのかといえば、それは『時事新報』バックナンバーの中にある、というしかないが、実はそれらを読むのは容易ではなかった。縮刷版を所蔵している図書館は少なく、また目当てをつけるための総目録も存在しなかったからである。
この状況は2010年になって劇的に改善された。その第一は慶應義塾編『福澤諭吉事典』に「『時事新報』社説・漫言一覧」が掲載され、福沢存命期(1882~1901)社説の全タイトルと全集への採否が明らかになったことによる。また、第二には、同時期にネット上で公開された「デジタルで読む福澤諭吉」(慶應義塾主宰)により、福沢名で刊行された全著作(ほぼ現行版『全集』第7巻まで)の語彙検索ができるようになったことによる。このサイトは社説の真偽判定に際しても有用である。
さらに2013年以降は、平山を研究代表者とする科研費「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定の進捗により、全集未収録社説のテキスト化とネット上での公開が図られた。そのため従来まではまったく望み得なかった、全集に入っていない社説の語彙検索が可能となったのである。
2 豹変を説明する全集未収録社説の発見
こうして福沢の豹変を説明する社説として発見されたのが「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」(18840602)と「日本教法の前途如何」(18840618・0619・0620)である。前者は「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」の4日前、後者はほぼ10日後の掲載である。
これら一連の社説の真意を理解するためには、当時の井上馨外務卿が主導していたいわゆる鹿鳴館外交が前年1883年の秋から始まっていて、その治外法権撤廃運動に『時事新報』も共鳴していたことを念頭に置いておく必要がある。すなわち「外國宣教師は何の目的を以て日本に在るか」は、「我日本國と歐米諸國との現行條約を改正する事の甚た大切にして、且つ急を要すべきは特に日本國人の爲めを謀りてのみ然るにあらず」に始まっていて、文字数約2400字という平均的な長さの社説である。全体はひとまとまりとなっていて段落分けはなされていないが、おおよそ1100字目あたりで前後に区切られる。
その区切りをもって便宜上前段と後段とするが、まず前段の主題は不平等条約に基づく治外法権の不当性を明らかにすることである。すなわち、「抑も我輩は此國の日本人として此日本國を存立維持せざるを得ず。是我輩の義務にして又其名譽なり。然るに此義務を果たし此名聲を全くせんとするの道に當り第一着の障碍たるものは、現行條約に由て在日本の歐米人等が享有する治外法權なるもの即是なり」とあって、この定めにより在日外国人が日本の法律に服さなくてもよいとされる事態は即刻正されなければならないとしている。
治外法権により納税の義務も免除されているのだから、居留地にいる外国商人たちがその撤廃に反対するのは理解できる。しかし内地旅行の制限によって自由に布教活動ができないキリスト教宣教師までが治外法権撤廃に反対するのは解せない、として後段に続く。この後段は宣教師たちを「君等」と称して、彼らに直接呼びかけるという異色の形をとっている。すなわち本社説のむすびは、
我輩は宣教師に向て經國の事を談せず、唯我輩は宣教師に向ひ君等は何の目的を以て日本に來りたるかと問はんと欲するなり。教祖耶蘇基督の宗旨を弘め罪業深き我々日本人を救濟せんが爲めにあらずや。果して一人にても多くの信徒を得、一郡にても耶蘇教の光の及ぶ處を廣くするが君等の本願ならんには、何が故に日本全國津々浦々までも自由に徃來し、全國の善男善女に親接して耶蘇教に歸依するの法を知らしめ、君等の力を以て東洋の表面に一大耶蘇教國を作るの工風を求めざるや。日本の法律は君等の生命財産を保護するに足れり。日本人民の信心は君等の勞に酬るに足れり。斯る弘教上の大利益を前面に脉めながら、尚ほ他の不學の商人輩の口吻に倣ひて治外法權撤去すべからずと唱へ、掌大の居留地内に籠城して坐して教祖基督の本願を達せんと欲す。盖し思はざるの甚たしきものなり。依て我輩は君等宣教師に切望す。更に集會を催して前議を取消し、治外法權撤去の事を以て各其本國政府に勸告し、我輩と共に此日本國の幸福を増進することを勉むべし。是即ち君等耶蘇宣教師たるものの本分ならんのみ。(句読点は平山による)
と宣教師たちを鼓舞するような調子を帯びているのである(注2)。
次に「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」の10日後に発表された「日本教法の前途如何」(注3)は、冒頭に「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」の続編であることが示されている。すなわち、「我輩は前號の紙上に今日世界の大勢に於て日本にも耶蘇教を流行せしむるの利益なる所以を論したれとも、爰に又利害の考を離れて單に事物自然の進歩より考ふるも耶蘇教は終に日本に流行すべき勢あるを見るなり」と、「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」の主張をさらに進めた論が展開されている。3日分の連載で総文字数は8700字強とかなりな大作である。
その本文は、先の引用に続けて、「我輩今其然る所以を説明せんが爲めに、本論にては今般日本に於て古來の教法なる佛教と新入の耶蘇教とが互に相爭ふときは其勝敗は如何に决す可きやとの一問題を考究せんと欲す」に始まっている。以下でその内容を項目化する。
- (1)キリスト教が仏教を凌いで日本の宗教の主流となるというのは、教義の上からではなく、時代の趨勢による。
- (2)競争の結果としてキリスト教が勝利するというのは、記者(福沢)の望みによるわけではない。
- (3)人間の交際上で人の信心を収攬する元素は、資金力(金力)、知的能力(智力)、道徳性(徳望)、社会的威信(位階)、及び古くからの伝統(久據先主の力)の五つである。
- (4)社会的威信(位階)はキリスト教も仏教も同等である。資金力(金力)、知的能力(智力)、道徳性(徳望)の三点はキリスト教は仏教を凌いでいる。仏教が有利なのは古くからの伝統(久據先主の力)だけである。
- (5)唯一仏教が有利なのは、昔から信心を集めている、というただそれだけであるが、現在の仏教指導者たちの腐敗堕落ぶりからみて、その唯一の優位点の維持も心もとない。
- (6)以上によりキリスト教がいずれ日本の宗教の中心となるのは疑いがない。
この「日本教法の前途如何」が発見されたことにより、福沢がキリスト教容認論に転じた理由が明確となった。すなわちここで福沢は幕末以来提唱してきた、経済活動における競争の重要性を布教活動にまで拡大させ、仏教を時勢の軍門に下らせたのである。キリスト教の浸透によって日本古来の信仰が滅びてしまうならば、それは歴史の必然にすぎず、そうなる危険性があるからといって布教の自由を認めないのはアンフェアだ、ということである。
ところがその主張にはじつは裏があった。それは宣教師の布教の自由を認めるべきという論陣を張ることで、当時進行中だった井上馨外務卿による条約改正交渉(いわゆる鹿鳴館外交)を支援するというもくろみである。確かにこの「日本教法の前途如何」にも、全集に収録されているその10日前掲載の「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」にも、条約改正交渉について一言も触れられていない。とはいえ新聞の読者は連日掲載されている社説をそれより前に読んだ社説から得た知識を基にして理解するのである。治外法権撤廃のため外国人宣教師に奮起を促した「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」(18840602)読んだ読者は、その4日後に掲載された「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」(18840606・0607)を見て、『時事新報』による、条約改正のためには宗教もまた西洋風に従わざるをえない、というメッセージを社論として受け取ったに違いないのである(注4)。
このように福沢のキリスト教容認論はその教義を理解したことによるのではなく、単に日本で信じたい者は信じてもよい、といういたって消極的な理由に基づいていた。つまり内心は広まらない方がよいと考えていたと推測できるわけで、それは福沢が仏教の最大勢力である浄土真宗の門徒の一人であったという事実だけによるのではなく、もっと根深い西洋人(キリスト教徒)への疑念があったからのように思われる。
その真相は福沢健全期(1882~1898)の『時事新報』中のキリスト教関連社説(全集未収録を含む)を概観することにより明らかとなる。
3 ノルマントン号事件前のキリスト教関連社説
以下2節にわたり福沢健全期(1882~1898)の『時事新報』中のキリスト教関連全社説について概述するが、キリスト教関連社説とは、同紙「時事新報」欄(社説欄と通称)に掲載された論説のうち、耶蘇(基督)に言及しているもの全てをさす。『時事大勢論』(1882)から『実業論』(1893)までの単行本は「時事新報」欄に掲載されたので社説に属するが、『福翁百話』(1896)以降の著作は特別欄掲載のため含まれない。現行版『全集』収録分については第21巻所収の「人名索引」による。全集未収録社説については平山洋のサイト「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の語彙検索(耶蘇・基督)による。
社説はあくまで法人『時事新報』の見解であるから、すべてが福沢の個人的意見と完全に一致するわけではない。ただ1892年春までの社説は福沢の個人的意見とほぼ同じであるというのが論者の見解であり、また学界の共通理解でもある。抽出されたキリスト教に言及した社説は全部で66日分あったが、そのうち1892年春までに属するのは53日分で、ここまでは福沢の見解と見なしてよいように思う。〔別掲「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』中キリスト教関連全社説一覧」を参照のこと。〕
全体を通して言えることは、キリスト教に言及している社説であっても、それを主題としている社説は少なく、多くの場合は西洋の政治習俗に触れる中での実例として示されているにすぎないことである。例えば「耶蘇教」の最初の用例は『帝室論』(18820500)の中にあるのだが、それは英国のピューリタン革命の説明で使われている1例だけである。全体を見通しても、前節で取り上げた1884年6月の3編を除くと、それ以降のキリスト教を主題とする社説は、「耶蘇教国」(18841101、全集未収録)・「ノルマントンの不幸に付き耶蘇宣教師の意見を問う」(18861118、全集第11巻)・「耶蘇教会女学校の教育法」(18870729・0730、全集第11巻)・「耶蘇教を入るるか仏法を改良するか」(18880528、全集未収録)のわずかに4編を数えるにすぎない。しかもそのうち「耶蘇教国」は日原昌造の、また「耶蘇教を入るるか仏法を改良するか」は福沢一太郎の執筆ということがはっきりしている。というわけで1884年を例外の年として、それ以外の時期の『時事新報』は、キリスト教に対して冷淡であったと言うことができる。
ともかくその数少ないキリスト教を主題とする社説の内容を見ていくならば、まず「耶蘇教国」(18841101)であるが、「在英國倫敦某」と表示されている執筆者が横浜正金銀行ロンドン支店勤務の日原昌造であったことは、福沢書簡により明らかになっている。本文の前に説明があって、そこには、「左の一篇は八月廿六日附にて在英國倫敦の某氏より寄送し來りたるものなり。宗敎上の道理の爲めにあらずして國際上の方便の爲めに日本が耶蘇敎國たるの必要を論ずる所の如きは、最も我輩の意を獲たるものなり。時事新報記者」とある。つまり「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」(18840606・0607)や「日本教法の前途如何」(18840618・0619・0620)の主張と「耶蘇教国」の見解は同じだということである。
本文は2350字で、これは社説として平均的な長さである。そこで日原はまず「人間世界は出ると入るとの境い目なれば、之れに處するの方法は世間一般の交際を取ると棄つるの二つなり」と説き起こす。そうして、他人との交際を順調に進めたいなら、「風俗萬端人並みに爲さ子ばなら」ないとして、次のように述べる。
國民の衣服とも申す可きものは宗敎風俗なり。宗敎と風俗とはその字面同じからざれども余輩の眼には宗敎はたゞ風俗の一部分と見ゆるなり。而して今の世界は歐米各國の世界にて隱居役の支那人や小作人の印度人は算用の外とし、歐米の國民は何色の衣服を着用するやと云ふに耶蘇敎と云ふ一種の色なり。
そうであるとして、キリスト教という色を日本人が着用しなければならない理由について、日原はある英国人から聞いた興味深い話を留めている。
只今も一英人と物語したるに、英人曰く、「當春埃及(エジプト)の屠殺と云ひ、此度佛清の戰爭に佛兵の擧動慘酷なり抔、取り取りに噂すれども、こは一概に當局將校の罪に非ず。接戰の際に兵卒どもが東洋人を草木蛆虫の如くに心得、人を殺すことを何とも思はぬが故なり。平日に在ても全体に歐洲人が東洋に往て兎角不人情の擧動あるは、皆宗旨の異なるが爲めなり。宗旨の異なるが爲めに人を卑むと云ふは、言語道斷の事なれども、不學の商人や無智の兵卒なれば詮方もなし。東洋人に對しては誠に御氣の毒の至りなり」、云々。
キリスト教徒は異教徒に対して薄情だということから、日原は日本人がキリスト教徒ではないことが条約改正交渉を難しくしていると言う。だから名目だけでもキリスト教化が必要となってくるわけで、「余輩が名目と云ふは眞の名目にして正味の御信心は何にてもよし唯表向日本は耶蘇敎國なりと一應世間へ披露讀者中御異論の御方も有るべければこれより讀者の意中を忖度して少しく陳述すべし」と、予想される日本人からの異論についての反論を試みている。そこで対象として想定されているのは無宗教家と仏教信家による二通りの反論である。
前者についてはまず「無宗敎家は其心水の如く淡冷なり」と説き起こし、すでに水の如くなる以上は、宗旨は何にても便利に任せ、世間並みに爲して可となるではないか、と言う。欧州でも信心深い人などまれで、キリスト教は生活の一部として習慣化しているだけである。そうだとするなら無宗教家がキリスト教信者を装ったとしても不利益は何もないはずで、「内心は兎も角も差當り耶蘇敎と云ふ名目に爲し置くは甚だ便にして妙ならずや」と言うのである。
次に後者の仏教信家については、さらに真宗と禅宗の信者に分けられて、それぞれ反論の仕方が異なる。まず禅宗について言うと、その教義は西洋哲学と異なることがない。そのため「哲學の眼より見るときは宗旨などは卑近のものなり。一たび此眼光に照らせば眞宗の阿彌陀も耶蘇敎の神(ゴツト)も同しものに相違な」く、「眞宗も方便なり、耶蘇敎も方便なり。御多分に付き便利の方がしかるべし」となるのではないか、と言うのである。
もう一つの真宗門徒については、彼らに改宗を求めることはできないが、「我日本に耶蘇敎の行はるゝは事物自然の勢いと觀念し、國の爲めと思ひて騒動を起さゞる樣、靜かに御念佛申して、專ら自分の後生を大事にすべし」と親類朋友がキリスト敎徒になったとしても决して癇癪を起してはならない、と諭すことはできるだろうと言う。
日原のこの考えは、福沢とも重なるが、信仰を単に外面のみの装いと見なしたものである。それ故この社説が、「右の如く逐條に論したれども、余輩の議は必ずしも日本國民の多數を耶蘇敎に入れしめんとの主意に非ず。少數にて足れり百人に一人くらいにてもよし。唯表向き耶蘇敎國の名を冐せは夫れにて事足るなり」という結論となるのは当然のことなのである。
4 ノルマントン号事件後のキリスト教関連社説
日本のキリスト教化を唱えた「耶蘇教国」(18841101)の次に表題に耶蘇が使われている社説は、2年後の「ノルマントンの不幸に付き耶蘇宣教師の意見を問う」(18861118)である。その前日には、キリスト教批判の社説としても重要な、「ノルマントン號事件の輕重如何」(18861117・全集未収録)が掲載されている。「去月二十四日紀州沖に於て沈沒したる英國船ノルマントン號事件に就ては、我々同胞生者は溺死者二十幾名の非業を憐れみ、ノルマントン號船長以下乘組員の所爲を怪しみ中情悲憤に堪へざるものあり」に始まるこの2100字の社説の執筆者を確定することは、語彙の上からはできない。ただ、署名著作には1例の用例もない「鑑戒」が使われているところから、福沢が全部を執筆したものではなさそうである。その後半に約1000字を費やした激烈なキリスト教批判があって、それを現代語で要約するなら、おおよそ次のようになる。
そもそも西洋キリスト教国人がその国人同士の間柄では神妙に道徳論を守りながら、キリスト教国外の人類は牛豚同様、人間の道徳で処遇する必要はない、として、しばしば残酷な扱いをするのは、中世以降スペイン人によるアメリカ原住民、英国人によるインド人への扱いをはじめ、今日に至るまで実例が多い。もちろん文明の程度によりけりとはいえ、西洋人の中国人に対する模樣を見れば、ある意味野蛮人に対する扱いと同じである。1884年の清仏戦争では、フランス軍は溺れかけている中国軍水兵を救助しなかったばかりか、かえって攻撃を行っている。またこの戦争中に英国船が中国の帆船に衝突しながら、中国船の乗員乗客を救助しなかった事例もある。こうしたことは西洋のキリスト教国人による中国人への扱いであるが、日本人も同様の扱いとなるようだ。今回の紀州沖での遭難において、キリスト教国人は一名の怪我死を除くの外は全く無事、日本人の船客はインド人火夫等と共にあたかも同じ運命をたどったのを見れば、今日のところキリスト教国人は日本人とインド人とを区別していないのは明白である。このような事態が続けばキリスト教国人の眼から見ての日本人は道徳の対象外となってしまう危険性がある。だから今回の事件の事後処理は日本の国威に関係しているだけではなく、キリスト教国人の道徳論が非キリスト教徒にも適応されるのかどうかを見定めるための良い機会であることを肝に銘じつつ注視しなければならない。
以上が「ノルマントン號事件の輕重如何」の内容であるが、翌日掲載の「ノルマントンの不幸に付き耶蘇宣教師の意見を問う」(18861118)は、この日本人の抱く素朴な疑念をキリスト教宣教師に問う内容となっている。その概略は以下の通りである。
江戸時代には禁教の対象とされていたキリスト教が、明治以降一定の信頼を勝ち得たのは、ひとえにキリスト教宣教師たちの誠意誠心によるものである。我々から彼らを信じることが深くなればなるほど、逆に彼らも我々を信頼するようになるのは当然のことである。前年のことだが、本来は政治に関係しないキリスト教宣教師が条約改正について本国政府に意見書を送ったことがあった。その中身は日本を独立国として認めるべきだ、といういたって穏当なもので、本国政府がその意見を受け入れたのかどうかは分からない。けれどもその後外交交渉が進捗したのは確かで、このような口添えが日本での布教に有利に働くのもまた疑いがない。この前例に鑑みて、ノルマントン号事件についても誠意誠心の立場から何らかの意見を表明するのが望ましい。というのは、日本人全員を死亡させた船長の裁判は領事裁判権に基づいて行われることになっているが、このままでは軽い量刑の判決しか下されないであろうからである。それは不当であるという我輩と同じ考えのキリスト教宣教師から公正な裁判の実施についての意見表明がなされれば、あるいは判決にも影響があるかもしれない。そうしたことがあれば日本人の宣教師への信頼感はますます高まることであろう。というのがその内容であるが、ここには、キリスト教国人全般への疑いと、宣教師の誠意誠心への信頼というねじれた感情が垣間見られる。
その後「ノルマントンの不幸に付き耶蘇宣教師の意見を問う」(18861118)の8ヶ月後に掲載された全部で4000字強の「耶蘇教会女学校の教育法」(18870729・0730)はミッション系女学校の教育内容を批判する社説である。社説は、日本の女子教育の立ち後れを見て取ったキリスト教界が、そこに布教の活路を見いだしたことを評価しつつ、今日のキリスト教会女学校の教育方法には知育徳育ともに不完全なところがあるという。というのは今のキリスト教会女学校は英米諸国の宗教学校を模倣したもので、その教育内容は語学・音楽・唱歌・経典等を主とし、日本女性に必要とされる習字・読書・手習い等は軽視されている。これでは必要とされる日本女性の育成などおぼつかない。知育の点で欠陥があるばかりでなく、徳育の点でも問題点がある。というのは、モデルになっている西洋の教会学校は、本来貧しい家庭出身の子女に最低限の教育を施すために設置されているのだが、日本では貧しい家の子女と中上流階級の子女が一緒になってしまっている。これは良家の子女にとってはなはだよろしくない環境と言わざるを得ない。庶民階層のための教会学校と良家の子女向けの寄宿学校とを別々に設置して、それぞれの階層に合う教育を施すべきである。以上が「耶蘇教会女学校の教育法」の要点である。
最後の「耶蘇敎を入るゝか佛法を改良するか」(18880528)は、当時米国に留学中だった諭吉の長男一太郎が英語で書いた論説を、おそらくは諭吉本人が翻訳したものである。その内容は「宗教も亦西洋風に従はざるを得ず」(18840606・0607)にそっくりである。あえて違いを指摘するなら、一太郎が幼少期に経験した浄土真宗の宗旨に基づく地獄の教えを強く批判している点である。真宗の教えに背けば落ちるとして威嚇された恐ろしい地獄の描写を記述した後、一太郎は社説終結部で次のように述べている。
余は决して佛法の理に反して爭論を試るものに非ず。余の説は日本の佛法を改良せんとするよりは、寧ろ日本に耶蘇敎を入るゝに若かずと聊か前途の見込を立てたるまでのことにして、物の本色に就て見れば耶蘇と云ひ佛陀と云ひ共に信用す可き敎にして、彼の地獄を以て多數の愚民を嚇すが如き、恬然耻づるなきの方便を造るべきものには非らず、と思へり。
当時米国に留学していた一太郎は、真宗の地獄の教えに類する教義がキリスト教にもあることも指摘していて、キリスト教に諸手を挙げて賛同しているわけではない。国民全体を涵養する宗教として今ある仏教を改良することに期待するより、新たにキリスト教を導入する方がましという程度の消極的な肯定論であって、それは父諭吉と同じ意見だったのである。
福沢健全期(1882~1898)の『時事新報』社説で、表題に「耶蘇教」が使われたのは、この「耶蘇敎を入るゝか佛法を改良するか」(18880528)が最後となっている。以後おおよそ10年の間福沢は健筆を振るい続けたが、キリスト教は彼が書く論説の主題とはならなかったのである。本社説以後にキリスト教に触れた31日分の社説では、西洋に習俗としての説明としてか、あるいは仏教と比較するためにその用語が使われているにすぎない。
5 おわりに―福沢にとってのキリスト教について
以下で本発表により明らかになったことを項目化する。
- (1)福沢は日本人の品性を向上させるため、国民宗教ともいうべき信仰を求めていた。(すでに『学問のすすめ』第15編〔1876〕にその指摘あり)
- (2)キリスト教移入は西洋人による日本人の精神的支配につながるため危険視していた。
- (3)仏教は腐敗堕落しているためそちらもダメだとしていた。
- (4)『時事小言』(1881)まではキリスト教を危険視していた福沢が容認論に転じるのは1884年6月である。
- (5)その理由は主として当時の鹿鳴館外交に呼応して、治外法権の撤廃を目指すため外国人宣教師たちと協働するためであった。
- (6)特定のキリスト教派と福沢が親密な関係を結んだ気配はない。
- (7)ユニテリアンのアーサー・ナップとの関係は留学中だった長男一太郎を介して1887年に始まるが、『時事新報』紙上では一切言及されていない。
福澤健全期『時事新報』中キリスト教関連社説一覧
掲載年月日 | 題名 | 全集採否 |
---|---|---|
18820500 | 帝室論〔署名著作〕 | 全集第5巻 |
18821020 | 真宗の命運久しからず | 全集未収録 |
18830611 | 安南の戦報 | 全集未収録 |
18831110 | 日耳曼の東洋政略(2) | 全集第9巻 |
18840528 | 条約改正論(5) | 全集第9巻 |
18840600 | 通俗外交論 〔署名著作〕 | 全集第5巻 |
18840602 | 外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか | 全集未収録 |
18840607 | 宗教も亦西洋風に従はざるを得ず(1) | 全集第9巻 |
18840608 | 宗教も亦西洋風に従はざるを得ず(2) | 全集第9巻 |
18840618 | 日本敎法の前途如何(1) | 全集未収録 |
18840619 | 日本敎法の前途如何(2) | 全集未収録 |
18840620 | 日本敎法の前途如何(3) | 全集未収録 |
18840801 | 法官必ずしも故障の要点ならず | 全集未収録 |
18840812 | 教導職を廃す | 全集未収録 |
18841101 | 耶蘇教国 〔日原昌造作〕 | 全集未収録 |
18841202 | 通俗道徳論(2) | 全集第10巻 |
18841204 | 通俗道徳論(4) | 全集第10巻 |
18850629 | 宗教不問の大義を忘る可らず | 全集未収録 |
18850911 | 其挙動を見て其勢力を知る | 全集未収録 |
18860219 | 条約改正の必要は独り日本人の為めののみに非ず | 全集未収録 |
18860707 | 日本国人将に宗教の門に入らんとす | 全集未収録 |
18860920 | 僧侶を小学教員に用る事 | 全集未収録 |
18861117 | ノルマントン号事件の軽重如何 | 全集未収録 |
18861118 | ノルマントンの不幸に付き耶蘇宣教師の意見を問ふ | 全集第11巻 |
18861124 | 悲憤して濫す可らず | 全集未収録 |
18861125 | ノルマントン難破事件に関し日本国民の挙動は非難すべき所なし | 全集未収録 |
18870125 | 言論検束の撤去 | 全集未収録 |
18870311 | 移住の気風 | 全集未収録 |
18870509 | 小学の教育を僧侶に任する事 | 全集未収録 |
18870523 | 僧侶西洋語を稽古すべし | 全集未収録 |
18870603 | 西洋の貴族 | 全集未収録 |
18870729 | 耶蘇教会女学校の教育法(1) | 全集第11巻 |
18870730 | 耶蘇教会女学校の教育法(2) | 全集第11巻 |
18880202 | 外務大臣更迭 | 全集第11巻 |
18880300 | 日本男子論 〔署名著作〕 | 全集第5巻 |
18880528 | 耶蘇教を入るるか仏法を改良するか、福沢一太郎氏英文の翻訳 | 全集未収録 |
18880621 | 宗教の要 | 全集未収録 |
18880828 | 人品論、在ボーストン某生 〔日原昌造作〕 | 全集未収録 |
18880913 | 帰朝記事、福沢一太郎氏英文の翻訳 | 全集未収録 |
18880914 | 帰朝記事(前号の続)、福沢一太郎氏英文の翻訳 | 全集未収録 |
18880924 | 国交際は人民の交際なり | 全集未収録 |
18881030 | 宗教不問 | 全集未収録 |
18890226 | リヴァプールの歳暮 | 全集未収録 |
18890412 | 孰れか腐敗に近きや | 全集未収録 |
18890615 | 智と情と | 全集第12巻 |
18890620 | 僧侶の任務 | 全集未収録 |
18890628 | 流行の圧制 | 全集未収録 |
18900318 | 読倫理教科書 | 全集第12巻 |
18900408 | 廃娼論に欧米の例を引く勿れ | 全集未収録 |
18900429 | 商権回復の実手段 | 全集未収録 |
18901104 | 仏教銀行に就き一言 | 全集未収録 |
18910605 | 社会復古論 | 全集未収録 |
18911110 | 義捐者の姓名 | 全集未収録 |
18921120 | 修身書採定の標準 | 全集未収録 |
18930114 | 北海道F.M. | 全集未収録 |
18951013 | 赤十字社の事業 | 全集未収録 |
18951110 | 日本の新聞紙(昨九日の続) | 全集未収録 |
18951123 | アルミーニャ問題 | 全集未収録 |
18951203 | 世界の外交に入るの機会 | 全集未収録 |
18960403 | 宗教家大に賑ふ可し | 全集未収録 |
18970210 | 放免囚と宗教家 | 全集未収録 |
18970404 | 仏教の革新 | 全集未収録 |
18970415 | 移住民拒絶は無法なり | 全集未収録 |
18970729 | 保守論の根拠 | 全集未収録 |
18971107 | 社寺法無用 | 全集未収録 |
18980413 | 教育の方針 | 全集未収録 |
脚注
- (1)
- 本社説には草稿は残存していないが、福沢本人の直筆であると推測できる。なお要約にあたり小泉仰「福澤諭吉と宗教」『イギリス哲学研究』第34号(2011)11~12頁を参照した。
- (2)
- この「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」は、論者の基準(福沢語彙3語以上を含む)に照らすなら福沢直筆とは見なしがたい(平山洋「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定-明治 15 年 3 月から明治 18 年 3 月まで-」国際関係比較文化研究第 13 巻第 1 号後 1-17 頁〔2014 年 9 月〕参照)。また、「デジタルで読む福澤諭吉」で社説中にある特異な語彙である「躱避」「笑罵」「指彈」「慧敏」を検索したところ、いずれにも1例の使用例もないことがわかった。文体は中上川彦次郎(主筆)に似ていて、福沢立案記者起筆のカテゴリーⅡ社説と推測できる。
- (3)
- この「日本教法の前途如何」は福沢の真筆とみてよい。というのは、福沢がしばしば使用する「際限ある可らず」「信向」「氣の毒」(以上福沢語彙)が掲載初日分にすでに見られるうえ、さらに「蠶食」「餘念あることなし」「穿鑿」「汚穢」「贏輸」という比較的珍しい表現も署名著作中に用例が確認できるからである。
- (4)
- この、いずれ日本の宗教の中心はキリスト教になるであろう、という福沢の予言は大ハズレとなった。それは何故なのか。この予言は韓国に関してならば当たったことともあわせて興味深い。とはいえそれはまた別の物語である。