「時事新報社説の起草者推定ー明治24年10月~明治31年9月ー」
このテキストについて
平山氏の依頼により、2015年10月18日に早稲田大学(東京都新宿区)で開催さ れた 日本思想史学会発表「時事新報社説の起草者推定―明治24年10月~明治31年9月―」 の 資料と音声ファイルを、平山氏の了解のうえアップロードします。 音声ファイル中で言及されている学会誌掲載論文とは、『日本思想史学』第47号 掲載 「福沢署名著作の原型について」です。
井田メソッドへの批判は、次の杉田聡氏の論説をご参照ください。
発表資料
① 研究の現状
1882年03月01日から1891年09月30日までは、ほぼ網羅的にテキスト化が終了し、2014年09月までに1424編をHPにアップロードした。2013年10月と2014年10月に福沢語彙による抽出作業を行い、あわせて215編を推定福沢直筆社説とした(2014年度学会発表資料参照)。
1891年10月01日から1898年09月30日までのテキスト化作業は、現在進行中である(約670編終了)。なお、当該期間の社説総数は約2200編、そのうち900編程度が既に全集に収録されているため、本来テキスト化しなければならない全集未収録社説は1300編程となっている。
② 1891年10月から1898年09月までの推定福沢直筆社説の抽出(福沢語彙3語以上、暫定)
福沢語彙85語(カッコ内は署名著作内での出現回数) 身躬から(41)、視做す(9)、冀望(22)、在昔(64)、一系万世(2)、然りと雖(ど)も(220)、之を譬へば(13)、果たして然らば(27)、三五(10)、落路(4)、際限ある可らず(2)、決して然らず(83)、會釋に及はず(3)、惑溺(31)、朝鮮政府(1)、支那政府(7)、滿清政府(3)、頴敏(9)、直段(27)、成跡(58)、駁撃(3)、知る可らず(10)、捷徑(1)、氣の毒(99)、官民調和(5)、甲鐵(6)、懈怠(1)、憂患(6)、鬱散(4)、繁多(60)、國事多端(7)、談天彫龍(1)、彷彿(14)、實學(19)、盲目千人(4)、目あき千人(1)、囂々(5)、輻輳(6)、恣にする(15)、喙を容る(31)、懶惰(33)、無妄(8)、信向(14)、閑を偸まん(1)、大機關(6)、扨々(320)、坐作(5)、莫逆の朋友(6)、折節(23)、鄙見(10)、慥に(40)、羸弱(1)、妄慢(6)、榮辱(31)、情誼(3)、損毛(4)、緩巖(2)、鼓腹(4)、撃攘(2)、放頓(8)、入組(16)、<以上平成25年分と同じ>
ならんなれども(31)、屋漏(4)、缺乏(8)、三舎を讓る(5)、眞成(13)、男子の事(4)、穎敏(37)、愈愈(1)、竊に(232)、計較(1)、敗衂(6)、須臾(5)、覿面(1)、宿昔青雲の志(9)、看做す(1)、鞏固(1)、芽出度(1)、偏頗(22)、小心翼翼々(8)、果して然らば(9)、王政維新(60)、維新の革命(2)、恊議(3)、恐惶(1)、<以上平成26年に追加>
語彙の出現状況:2015年10月10日現在672ファイル 5語彙含2ファイル、4語彙含17ファイル、3語彙含49ファイル、2語彙含155ファイル 1語彙含249ファイル 0語彙200ファイル
当該期間で既にテキスト化を終えたのは、全体の約半数である。そのため抽出された社説の分布には時期的に偏りがある。
■明治24年(1891)10月から12月(網羅的)
- 18911003愛國論(成跡、ならんなれども、竊に)
- 18911006信任投票(成跡、彷彿、然りと雖も)
- 18911023軍艦の遭難(支那政府、知る可らず、然りと雖も、愈愈)
- 18911024聯立内閣組織の手段は如何(ならんなれども、然りと雖も、愈愈)
- 18911125議會の論勢(知る可らず、ならんなれども、愈愈、)
- 18911126第二期議會の開院式(然りと雖も、愈愈、王政維新)
- 18911213議會の成行如何(知る可らず、鄙見、ならんなれども)
■明治25年(1892)1、2月(網羅的)3月以降(選択的)
- 18920103恩威と愛嬌(成跡、ならんなれども、然りと雖も、竊に)
- 18920113衆議院議員の撰擧(知る可らず、宿昔青雲の志、王政維新)
- 18920227社會の耳目は甚だ聰明なり(知る可らず、盲目千人、竊に、)
- 18920403都て斷行す可し(成跡、喙を容る、竊に)
- 18920417教育衰退の時機(知る可らず、ならんなれども、然りと雖も、竊に)
- 18920423大臣の訪問(知る可らず、官民調和、竊に)
- 18920723民黨の方針(視做す、氣の毒、然りと雖も)
- 18920817國民恊會の始末は如何(知る可らず、然りと雖も、竊に)
- 18920911内地雜居怖るゝに足らず(氣の毒、ならんなれども、竊に)
- 18921202施政の方針(際限ある可らず、囂々、鞏固)
- 18921215朝鮮國紙幣の發行(朝鮮政府、知る可らず、喙を容る、竊に)
■明治26年(1893)(選択的)
- 18930126今日と爲りては致方なし(身躬から、決して然らず、然りと雖も、竊に)
- 18930303傳染病研究所の補助費(三五、成跡、知る可らず)
- 18930422文部の當局者に望む(知る可らず、竊に、小心翼々)
- 18930524論より證據(在昔、囂々、竊に)
- 18930530海陸の運輸交通(知る可らず、繁多、ならんなれども)
- 18930803一時の虚影に非ず(直段、氣の毒、覿面)
- 18930808米國の臨時國會に就て(頴敏、成跡、鄙見、竊に)
- 18930829社會好尚の變化(ならんなれども、竊に、王政維新)
- 18931104製鋼業と技師(然りと雖も、竊に、偏頗)
- 18931110海軍將校の技倆如何(三五、知る可らず、甲鐵)
- 18931219議會の始末如何(知る可らず、然りと雖も、竊に)
- 18931221民黨政府亦可なり(然りと雖も、竊に、鞏固)
- 18931223人生恨事多し(知る可らず、然りと雖も、竊に)
■明治27年(1894)(選択的)
- 18940621ペスト病原の發見(成跡、知る可らず、彷彿、ならんなれども)
- 18940628支那人の心算齟齬せざるや否や(朝鮮政府、氣の毒、ならんなれども)
- 18940718故岩倉公の紀念に就て(決して然らず、知る可らず、鬱散、ならんなれども)
- 18940731平和を破る者は支那政府なり(朝鮮政府、支那政府、ならんなれども)
- 18940802支那人民(惑溺、満清政府、頴敏、知る可らず、ならんなれども)
- 18941011有志の壮丁を使用す可し(知る可らず、恣にする、ならんなれども)
- 18941026英國と日本(支那政府、ならんなれども、竊に)
■明治28年(1895)(選択的)
- 18950808嶋民の叛抗(支那政府、ならんなれども、竊に)
■明治29年(1896)(選択的)
■明治30年(1897)1~9月(網羅的)10~12月(選択的)
- 18970204進歩黨の紛議(彷彿、囂々、竊に)
- 18970207威嚴必ずしも尊榮の資に非ず(在昔、情誼、竊に)
- 18970320定期航海の特別助成金・希臘果して開戰するや否や(知る可らず、ならんなれども、然りと雖も)
- 18970325希臘の擧動・列國の去就・會計檢査院の爭論(知る可らず、竊に、鞏固、恊議)
- 18970327領事の選任に就て・敎科書審査會を廢す可し(知る可らず、ならんなれども、竊に)
- 18970404佛敎の革新(在昔、知る可らず、氣の毒、竊に)
- 18970423戰爭の成行如何(知る可らず、竊に、恐惶)
- 18970427文部省の紛紜・東歐問題の成行如何(知る可らず、ならんなれども、然りと雖も、竊に)
- 18970428大學の始末・露兵傭聘の議に就て(朝鮮政府、知る可らず、實學、眞成)
- 18970725自から時勢を制す可し(氣の毒、ならんなれども、竊に、鞏固)
- 18970729保守論の根據(實學、竊に、偏頗)
- 18970923逓信事業を獨立せしむ可し(知る可らず、慥に、ならんなれども)
- 18970926圓銀處分法の改正に就て(知る可らず、彷彿、ならんなれども)
- 18971123保證凖備の制限に就て(ならんなれども、愈愈、鞏固)
- 18971219日本の文明未だ誇るに足らず(満清政府、ならんなれども、竊に)
■明治31年(1898)1~9月(網羅的)
- 18980302紡績業者の覺悟如何(支那政府、知る可らず、鞏固)
- 18980504朝鮮獨立の根本を養ふ可し・國民の負擔(朝鮮政府、支那政府、鞏固)
- 18980512沙市の暴徒・京釜鐵道は朝鮮文明の先驅なり(支那政府、知る可らず、然りと雖も)
- 18980518外交の大要を語る可し(知る可らず、榮辱、ならんなれども)
- 18980702民黨政府の前途(知る可らず、慥に、竊に)
- 18980703政治商賣・官吏の任免・日本銀行の公債買入れに就て(知る可らず、扨々、ならんなれども、竊に)
- 18980719獨逸はフヰリッピンを取らんとするか(知る可らず、氣の毒、竊に)
- 18980731後を顧みよ(之を譬へば、知る可らず、竊に)
- 18980820政黨内閣の試驗石(ならんなれども、然りと雖も、竊に、王政維新)
- 18980902今の政府に分裂の勇氣ありや(知る可らず、ならんなれども、然りと雖も、)
- 18980908繁文縟禮の最も甚だしきもの(知る可らず、慥に、ならんなれども、竊に)
- 18980928支那の政變に就て・憲政黨の長短(知る可らず、ならんなれども、竊に、王政維新)
③ 推定福沢直筆社説の紹介
18930303傳染病研究所の補助費(三五、成跡、知る可らず)
北里博士の傳染病研究所補助費の建議案は政府の採納する所と爲り内務省より追加豫算案として更に議會に提出して兩院共に異議なく通過したるに付ては博士の事業もこれより面目を改めて次第に盛大を致すことならん既に今日に至るまで芝の公園地内に研究の端緒を開き彼の新製のチベルクリンも製造し了りて之を動物に試験して違はず、二月上旬より肺患者に施して昨今は最早や三週を經過し成跡尚ほ未だ詳ならざれども今日までの處にて博士の目的に齟齬したる者とてはなく施療の爲めに發熱せず煩悶せず何等の苦痛を覺えずして病症は少々づゝ輕快に赴くが如しと云ふ抑も黴菌學の事たる〓に數年來の新發明にして特に今回新製のチベルクリンの如きは世界中に其製法用法を知る者なく唯これを知る者は發明の元祖たる獨逸の大醫コツホ氏以下三五名の高足弟子にして其一名は即ち北里柴三郎氏なれば目下この學を研究して實地に施すものは西洋にて獨逸、東洋にて日本の二國あるのみ左れば黴菌學の區域は固より肺患療法のみに止まらず凡そ人身體の甲より乙に傳染す可き性質のものなれば是れまで傳染病外に數へられたるものにても之を豫防し之を治療するの目的にして其試驗上に着々實効を示し遂には全世界の醫學を一新せんとするの勢あれども何分にも事柄の大なるに拘はらず發明の最も新にして知る者の最も少なきが爲めに尚ほ未だ廣く信用を博するに至らず實物に徴して理を明にすれば信ずることなからんと欲するも得べからず左ればとて百千年來研きに研きたる此醫學が黴菌の一新説を以て其根底より動搖せんとは人情に於て疑はざるを得ず盖し火器の發明に際して弓矢を棄るに躊躇し汽車の既に走るを見ながら尚ほ馬車の利を忘るゝこと能はざりしは歴史の語る所のみならず近く我醫道の沿革を見ても漢醫界に洋醫の入ること頗る困難なりしは今尚ほ故老の記臆する所なり恰も人情世界の約束にして怪しむに足らずと雖も如何せん有形の眞理原則の中には人情の運動を許さず今日の黴菌學その發達は尚ほ幼稚にして大に鳴らずと雖も方向は既に巳に明白にして爭ふ可らず之を從前の醫學に比較して一言以て其異なる所を評すれば前者は發症を見て治法を處したるに黴菌學醫は一歩を進め其症を發する所以の原因を捕へて之を制せんとするものなり或は黴菌學者と雖も今正に研究の最中、偶然の間違よりして一朝に連城の璧を得ることあれば千辛萬苦數年の勞を空ふして失望に終る事もあらんいよいよ其目的を達して定めて新醫術の基礎を立てゝ世界に公言し以て舊醫を壓倒し了るの日は我輩これを知らずと雖も人事の進歩駟馬に鞭つの今日案外速成を見るやも亦知る可らず兎に角に醫學社會の人々は斷じて情を離れて理に就き他年一日今の漢醫流の境界に陥るなからんこと我輩の切に勸告する所なり啻に醫士その人の利害のみならず我大日本國の醫道をして文明諸國の競爭塲裡に先鞭を着けしむるの機會は正に今日に在り我輩は一刻の光陰を惜しむ者なり
18940802支那人民(惑溺、満清政府、頴敏、知る可らず、ならんなれども)
世界文明の風潮は甚だ急激にして支那四百餘州の天地も早晩その侵入を免る可らず其時こそは今の滿清政府が滅亡を告ぐるの期にして其時期は支那人自身にて促すか又は他國人に促さるゝか豫め知る可らずと雖も彼の支那人は幾千百年來周公孔子の陳腐主義を遺傳し陰陽五行の妄説に惑溺して絶えて改進々歩の思想なく多年文明日新の空氣に觸れざるに非ずと雖も自から新にすること能はざるものなれば如何なる風潮に際會するも到底自身にて起つの精神はある可らず彼の天地に充滿する腐敗の雲霧を一掃して文明の日光を仰がしむるは何れ他國人の力を要するならんとは我輩の前號に述べたる處にして其時機の到來も甚だ遠からざる可し扨いよいよ其曉に至りて彼の四億の人民は如何す可きやと云ふに今の支那帝國こそ根底より顛覆して全く跡を留めざるに至ることならんなれども人民は國と共に滅す可きに非ず其帝國の存亡如何に拘はらず永く世界に生存することなる可し彼等は政治上には無氣無力にして愛國心に乏しく銘々の利害を犠牲に供しても國の名譽を維持して獨立の體面を全ふせんとするが如き觀念は殆んど絶無とも云ふ可きなれども商賣に頴敏にして金錢を重んずるの氣風は彼等の特性にして此點に就ては一概に輕蔑す可らざるものあるが如し抑も人生の目的は心身の快樂を得るに在り而して其快樂を得ると得ざるとは金錢の有無に存することなれば或は之を略言して金錢即ち快樂なりと云ふも可なり彼の支那人は錢を貴ぶこと非常にして或は商賣に危險そ冐して身命を惜まず或は外國に出稼して種々の艱苦を意とせざるが如き何れも錢を得るが爲めに外ならずして其商賣出稼の間には殆んど人間に堪へざる程の苦痛を忍んで甚だ憐む可き生活を爲せども多年の辛防その效空しからず錢を積んで家に歸るときは衣食住を美にして肉體の快樂を極め安樂に生活するの常にして一般の氣風かくの如くなるが故に彼國には富豪素封の家、割合に多くして若しも一個人の富を云ふときは文明諸國に比して毫も遜色なしと云へり此一點より見れば彼等も亦决して輕蔑す可きの人民に非ざるが如くなれども又一方より考ふるときは大に然らざるものあり既に金錢に富み衣食住を美にして安樂に生活すれば人生の快樂に欠くる所なきに似たれども今の世界は文明開化と稱しながら其實は未だ萬國一家四海兄弟の時代に非ず若しも自國の國土を失ふときは其人民は恰も世界の無宿者同様にして甚だ肩身の狹き感なきを得ず或る一國の人民が他國の人民と相對して相讓らざるは其本國に兵隊もあり軍艦もありて自から頼む所あるが爲めのみ然るに其國既に滅亡して兵隊軍艦は云ふまでもなく立國政府の名義さへ消滅して全く其身其儘なるときは如何なる輕蔑を受くるも之に報ゆるの道なく誠に心淋しき次第なり例へば彼の猶太人の如き世界到る處に散在して人口も少なからず殊に其人種に限り一種の特性を有して商賣に巧に貨殖に長じ猶太人と云へば吝嗇家の異名なるが如くにして實際に金滿家も少なからざれども何故か一般に輕蔑せられて殆んど人間に齒せられざるは其性質自から人をして嫌はしむるの點もあることならんと雖も重なる原因は彼等が世界の無宿者にして自ら賴む所のものなきが爲めに外ならず若しも彼等にして假令ひ小國なりとも猶太國と名くる國を立てゝ其政府の下に居らんには决して今日の如き待遇は受けざることならん支那人も之と同樣にして其帝國にして一旦滅亡に至れば亡國の民として世界の輕蔑は免る可らず既に他に輕蔑せられて共に齒せられざるときは一身の生活は安樂にして肉體の快樂には不足なしとするも精神上には甚だ不愉快にして之を稱して快樂の圓滿なるものとは云ふ可らず人生の目的は果して心身の快樂を得るに外ならずして文明開化に進むに隨ていよいよ其快樂の多きものとすれば亡國の民の如く他の輕蔑を蒙りて常に精神上の愉快を欠くものは今の世界に於ては到底文明人と並び立つを得ずして憐む可き境界に沈淪せざるを得ず支那人にして今日までの如く家あるを知て國あるを知らず只一身の快樂を目的として一國自立の觀念なきに於ては遂に第二の猶太人たるを免れずして世界の無宿者として永く一般に輕蔑せらるゝの外なかる可し我輩は滿清の政府と共に其人民を見限るものに非ず今より注意して亡國の民たるに至らざらんこと敢て勸告する所なり
18960105植民地の經略は無用なり(支那政府、知る可らず、ならんなれども)
我輩が日本人種を海外の各地に移植して盛に繁殖を謀らんとの趣意は一方には國内に人口過殖の患を避くると同時に一方には日本國の勢力を世界に及ぼして大に益せんと欲するの目的に外ならず或は單に植民云々と聞て其目的を解せず日本は海外の土地を蠶食し版圖擴張の野心を實にせんとするには非ずやなど疑ふものもあらんなれども是れは甚だ迷惑なる次第にして實際に無稽の邪推と云はざるを得ず世界の有樣を見れば所謂弱肉強食の常にして儼然たる獨立の國と雖も苟も自衞の法に欠くる所あれば他の呑噬を免れず况んや世界の海洋に散布する嶋嶼に於てをや恰も選取の姿にして力を以て之を〓むるに爭ふものはある可らず大陸嶋嶼の如何に拘はらず日本人の移植に適當して然かも収めて所領と爲すに差支なき土地あらんには遠慮會釋は無用なれども扨實際に他に邦土を略するは無人の地を収ると異にして容易ならざるのみならず好しや之を略したる處にていよいよ自國の所領として其實を全ふせんとするには多數の官吏を置て政令を行ひ海陸の固めを嚴にして内外に備ふる等その費用は容易ならず經濟上割に合はざる談にして智者の事に非ざるなり日清戰爭の結果として臺灣の割讓は國防上の必要に出でたるものなれども彼の遼東半嶋の如きは我に収めて經濟上の得失、果して如何ある可きや支那政府の無力なる正當に負擔す可き戰敗の報償を出すこと能はざるより止むを得ず半嶋を割かしめたるまでのことにして實際の始末は頗る難儀に相違なければ外國の忠告に由て還附したるは寧ろ偶然の仕合なりしやも知る可らず左れば日本人は决して土地の併呑を望むものに非ず否な望まざるに非ざれども實際に得失の償はざるを知りて斯る非望を起さゞるものなり今の世界に人間の移住は勝手次第四海到る處行く可し留まる可し日本人は此天賦の自由に依り他國に移住せんとする者にして其土地の所屬如何は敢て問ふ所に非ず自由の行はるゝ所は即ち吾々の安樂郷にして自由に移住す可し何ぞ必ずしも他の土地を略して自國の植民地たらしむるの必要あらんや或は斯くの如くなれば只人民を外に出すのみにして本國には毫も益する所なきに非ずやなど云はんなれども日本人决して無慾ならず大に人民を移して未開の土地を開き其土地の殖産業を發達せしめ本國との商賣貿易を盛にして以て大に益せんと欲するのみ其目的甚だ明白なりと云ふ可し曾て或る英人の説に英國が加那陀濠洲もしくは其他の所領地を海外に有して政治軍備等の爲めに錢を費し種々の手數を勞するは甚だ無益の沙汰なり英國女皇陛下の領地内には太陽の沒することなしなど誇稱するは眞に空想の威張にして本國の人民が殖産興業の爲めに終身營々額に汗して収めたる其収入を恰も空威張の資に供して實際に無用なる海外の所屬地を見繼ぐとは愚の至り沙汰の限りと云はざるを得ず北米合衆國獨立の際に英國は飽までも其獨立を欲せずして之を戰ひたれども若しも當時、本國の力強くして遂に壓伏したらんには米國今日の發達は决して見る可らず幸に獨立して自由の發達を致したればこそ英米間の商賣貿易も甚だ繁昌して現に大に益しつゝあるに非ずや左れば加奈陀濠洲などの如きは颯々と獨立を許して發達を自由ならしめ以て商賣貿易の利を謀るに如かず云々の言ありしを記憶せり現在の屬地を獨立せしむるは英の國情に於て容易に許さゞる所ならんなれども實際の利害より見れば適切の言と云はざるを得ず日本は臺灣の一小嶋を除くの外、英國の如く海外に屬地を有せざるこそ幸なれ今更ら他の土地を併呑して自から苦しまんよりは寧ろ國民を外に移して未開の地を開き以て大に商賣貿易の繁昌を期す可きのみ植民地經略の如きは事の利害に明なる吾々日本人の斷じて欲せざる所なり
18980504朝鮮獨立の根本を養ふ可し(朝鮮政府、支那政府、鞏固)
西洋の諸強國が各々支那の要地を占領したるは所謂東洋の均勢を破りたるものにして日本に於ても固より之に應ずるの策なかる可らず即ち過日來支那政府に交渉して福建を他國に譲らざること其他一二箇條を約せしめたるよしなれども我輩は一歩を進めて此際朝鮮の開發に盡力せんことを望む其次第は元來朝鮮の盛衰は日本の安危に一方ならぬ影響を及ぼすものなり若しも衰弱の極、自から倒るゝか或は他の強國に侵略せらるゝこともあらんには日本は恰も丸裸にて風雨に晒さるゝの姿と爲るに反して富強獨立を全うするに至れば貿易も繁昌して相共に利すると同時に互に藩塀と爲りて自から立國の易きを見る可し左れば半嶋王國を文明の門に導き以て其獨立を維持せしむるは日本年來の國是にして之が爲めに大に力を費したるは内外人の等しく認むる所にして第一に其鎖國を破て之を世界に紹介したるは日本にして次で支那の干渉を排せんが爲めに大戰爭を戰ひたる者も日本なり又戰爭の前後に於て人を派し金を貸すなど何くれとなく世話して獨立の實を得せしめんとしたる其苦勞は實に尋常一樣に非ず夫れ是れの結果にて日韓の關係は次第に密と爲り現に邦人の彼地に在留する者は萬を以て數ふるに至り貿易の如きも概ね日本の手に歸して他國は只その一小部分を占むるのみ朝鮮の運命に關して最大の權理を有する者は即ち日本なるを見る可し且つ諸強國が北支那の要地を占領したるは取も直さず遠き西洋の勢力を近く日本の面前に移したるものなれば此時に際して朝鮮の獨立を鞏固ならしむるは日本國人の責任にして單に隣國の爲めのみに非ず自から日本自衛の道なりと云ふ可し扨その方法は如何と云ふに第一に京城釜山間の鐵道を敷設す可し此鐵道は豫て朝鮮政府の依頼に由り日本人の手をもって起工す可き約束なりしが爾來種々の事情に妨げられて遂に今日に至りしことなれば此際約束を履行するは我國に於て遁る可らざる所のものなり慶尚全羅忠清の三道は朝鮮の富源にして米の産出少なからず國の富豪は大抵此地方に住するよしなれば一朝京釜兩地の間に鐵道を通ずるに於ては双方の商賣は俄に活氣を催ほして恰も我東海道線と同樣の觀を呈す可し京釜線を我東海道線に比すれば京仁鐵道は即ち我京濱鐵道にして是亦前約に從ひ日本人の手を煩はすことゝして鐵道既に成りて交通の便を開くときは隨て内地の商况も面目を新にして隨て資本の必要を感ずるも自然の勢なれば彼の慣行に於て多年來日年の銀貨を用ふるこそ幸なれ目下我國に餘る銀貨を貸して=====の機もある可し兎に角に朝鮮の全=======て猜疑の念を一掃し要は唯文明先達の人を入れ又その資本を入れて殖産の道を謀るに在るのみ彼の政法の組織の如き先進國人の眼を以てすれば一見堪へ難きものもなきに非ざれども百千年來の情實俄に除去す可きに非ざれば事に大害なき限りは姑く彼等の舊慣に任じて漸進自發の自由を得せしむるこそ智者の事なれ目下の利害に縁もなき事を云々して強ひて干渉を試るは我輩の取らざる所なり露國人が一時大に盡力して兵事に財政に樣々干渉を逞うして頓に手を收めたるが如き斷じて學ぶ可きに非ず我輩の本志は唯彼の憐む可き國民の心を開發して文明の門に入らしめ呼べば答へんと欲する兩岸相對して共に天與の幸福を與にせんとするに在るのみ一國の獨立富強は紙上の空論に非ず先だつものは國民の衣食にして衣食足りて士氣も振ふ可し國防も講ず可し我輩は朝鮮國を我日本の藩塀として共に東洋の安寧を謀らんとするの目的にして直に其政府に迫らず廣く國民に接して交際の基礎を固くせんと欲するものなり
④ 最近の研究動向との関連
平山洋『福沢諭吉の真実』(2004)以降、現行版全集「時事新報論集」を無制限に福沢の思想とすることはできなくなった。
方向性は二つ
(1)自己の研究の立論を福沢関与の証拠のある社説のみに限る(小川原正道)。
(2)全集未収録の社説も福沢関与とみなす(安川寿之輔・杉田聡・坂井達朗・平石直昭・都倉武之)。
(1)では立論の規模が小さくなる恐れがあり、(2)では『福翁自伝』での福沢自身の証言と矛盾する。
『福澤諭吉事典』(2010)と慶應HP「デジタルで読む福澤諭吉」により、時事新報社説全体の研究の基礎と語彙による探究の条件がそろった。
月脚達彦『福沢諭吉と朝鮮問題』(2014)と『福沢諭吉の朝鮮』(2015)は平山の社説判定をある程度評価して立論。福沢を「リベラルな帝国主義者」と規定。領土拡大の欲求を伴わないという点で平山と一致するが、平山の見るところ「対韓の方針」(18980428・昭和版所収)を重要視するところに過誤がある。文中に「独立を扶植するなど…断念し」とあるが、これは石河のオリジナル社説ではないか。「朝鮮獨立の根本を養ふ可し」(18980504・全集未収録)は「対韓の方針」への反論として書かれたとも考えられる。
昭和版『続福澤全集』「時事論集」への石河の社説採録は、あくまで1932年の価値意識でなされたことに留意するべき。たとえ福沢の社説であっても、時局にそぐわないものはハネられているのである。