福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における陸軍論

last updated: 2021-05-15

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主題語

  • 福沢諭吉(Fukuzawa Yukichi)
  • 時事新報(Jijishinpo)
  • 陸軍(Army)
  • 中国(China)
  • 脱亜論(Datsu-A-Ron)

1.はじめに

福沢諭吉(1835~1901)が自ら主宰する新聞『時事新報』(1882年3月1日創刊)で、朝鮮・清国を対象とする対外強硬論を展開していたということは、現在ではほぼ定説となっている。その根拠となっているのは、先の論文(注3)でも触れたことだが、おそらくは石河幹明編著『福沢諭吉伝』第三巻(1932)の、「先生の東洋政略は、事の順序として先づ朝鮮の独立を助成するの一事から着手しようとせられ、(中略・さらに)朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」(684頁)という記述である。

対外強硬を主唱するなら、その前提として軍備増強は必須となろう。そのことを証するかのように、日清戦争の勝利のために福沢が民間の立場から熱心に支援運動を展開したことは、存命中から周知の事実であったし、『福沢諭吉伝』にも、福沢が早くから軍備の増強を主張していたと書いてある。

そこで本論文は、福沢健全期の『時事新報』社説における陸軍論の意義を明らかにすることを目的とするが、それは予想されるほどには簡単ではない。というのは、まず第一に、何をもって軍事論とみなすか、という問題がある。第3節で扱うことになるが、文中に「陸軍」を含む社説は確かに大量に存在している。とくに1894年から翌年にかけての日清戦争期は、戦時ならではの現地報道も多く、当然に「陸軍」という言葉も頻出するが、それらを軍事論として一括するのにはためらいがある。というのは、軍事論というからには、装備充実や人材育成さらには財政的裏付けなどへの長期的な見通しが必要で、単に使われているというだけではとくに陸軍論とは呼べないからである。

個々の社説が軍事論か否かを見極めるのが難しいということに加えて、第二に、どれが福沢の考えなのかをより出すのにも困難がともなう。というのは、福沢の署名著作中独立の軍事論ともいうべきものは『兵論』(1882)と『全国徴兵論』(1884)の2編があるものの、無署名で掲載されているそれ以外の陸軍関連社説がどこまで福沢の考えと一致しているかは定かではないからである。

そこで本論文は、とくに福沢の思想研究としてではなく、『時事新報』社説の研究として陸軍論の展開を追究する。多数ある陸軍関連社説のうちいずれを陸軍論とみなすのかについては第3節で、またそのうち福沢本人の執筆と判定可能な社説については第5節で解説する。なお、軍事論としては海軍論もあるわけだが、海軍についてはすでに先行論文(注4)で扱っている。

2.研究史の概観

従来の研究史では、署名著作である『時事小言』(1881)(注5)の「今我国の陸軍、海軍は、果して我国力に相当して果して我国権を維持するに足るべきものか、我輩万々之を信ぜず」(⑤169頁)(注6)や、『兵論』(1882)の「仏の人口は大数三千七百万にして、陸軍人の数は五十万なるが故に、人口七十に付兵員一名の割合なり。此計算に従て日耳曼は百分の一、露国は百十分の一、伊太利は百三十分の一、荷蘭は五十七分の一にして、英国は殆ど海軍を以て国を守る者と称しながら、人口三千百六十万に陸軍人十三万五千の数ありて尚二百三十分一の割合なり。独り我日本に至ては大に此割合の外にして、人口三千五百七十万余の被保者に主保者たる陸軍人の数は七万四千に過きず。即ち四百八十人に一人の割合なり」(⑤318頁)を根拠として、『時事新報』の社説でも一本調子に軍備増強を唱えているとみなされがちであった。

1945年の敗戦まで、『福沢諭吉伝』や『続全集』(1933,34)に採録された社説の記述は、小泉信三(注7)・富田正文(注8)らにより、戦時局に適合的な福沢の見解として、徳富蘇峰(注9)や平泉澄(注10)らによる国家主義に基づく福沢批判への反論として利用されたが、敗戦後は一転、同じ記述は服部之総(注11)・遠山茂樹(注12)・安川寿之輔(注13)・杉田聡(注14)ら左翼陣営からの批判にさらされることになった。

さらに戦後の福沢擁護者の代表格は丸山真男(注15)であるが、彼は福沢の国民国家論を高く評価する一方、対外積極策・軍拡論についての弁護をしなかったため、戦後の擁護派もその点は認めていると解釈されてきた。(注16)しかしその理解が誤りであったことはすでに論者が指摘している。(注17)

というのは、昭和版『続全集』の編集方針を引き継いでいる現行版『全集』(1958~1964)の「時事新報論集」への社説採録には問題があるのである。その事実を初めて表明した拙著『福沢諭吉の真実』(2004)の内容を略述するならば、事実上の編纂者である石河幹明は、無署名である社説の選別を福沢の関与如何によってではなく、1931年の満州事変後の時代状況に適合するか否かで行っていた、ということである。要するに現行版『全集』「時事新報論集」の社説採録は出鱈目であり、それだけを読んだところで福沢の真意は分からないのである。(注18)

戦前・戦後を問わず、また、福沢擁護・批判を問わず、従来の研究は基礎としている社説の選定が間違っていたことにおいて無意味となった。その点を強調しつつ、まずは陸軍関連社説の中から陸軍論社説をより出して一覧としたい。

3.福沢健全期『時事新報』社説中陸軍論の一覧

まず、装備充実や人材育成さらには財政的裏付けなどへの長期的な見通しを含む陸軍論社説とは何か、について明らかにする。先行論文(注19)において海軍論社説の定義は明確であった。題名に「海軍」または「艦隊」を含んでいる社説が、福沢健全期を通じてまんべんなく50編存在していて、それらを分析すれば一定の結論が得られたのである。

ところが同期間5338号分のうち、題名に「陸軍」を含んでいる社説は、いずれも全集非収録の「陸軍食糧費改正」(18820330,0404)・「陸軍大演習」(18921015)・「海陸軍の軽重」(18951005)・「陸軍の射的場」(18970603)の4編5日分に過ぎず、さらに「徴兵」を加えても、明治版『全集』(1898)に収録されている1884年1月刊行の『全国徴兵論』と、いずれも全集非収録である「徴兵令に関して公私学校の区別」(18840118,0119)・「徴兵遁れの弊風」(18860208)・「官立公立の学校と徴兵令」(18860217)・「徴兵令」(18890123)の5編10日分を加えるのみなのである。以上題名に「陸軍」または「徴兵」を含む社説は合計15日分となるから、全号数に占める割合は0.3%弱に過ぎないことになる。

もちろんこのことは『時事新報』の関心が陸軍に対して薄かったことを意味するわけではない。題名に「陸軍」が使われていなくとも、文中にその言葉を含む社説は多数ある。これらを陸軍論社説より広い意味で陸軍関連社説と呼ぶならば、先行論文(注20)で触れているネットで公開中の「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」(注21)の進展によって、「陸軍」という語彙を含む全集非収録社説403編407日分(注22)がすでに公開されている(テキスト化済全2451日分中の約16.4%)。

テキスト化により全文検索可能となった分だけでもこれだけあるのだから、全集収録済の社説にも「陸軍」という語彙は多く見られるはずである。その中には福沢自らが書いたと推測できる社説(推定カテゴリーⅠ)も、福沢と社説記者の合作と思われる社説(推定カテゴリーⅡⅢ)も、さらに福沢が関与していると見なせない社説(推定カテゴリーⅣ)も含まれている。要するに、陸軍関連社説は極めて多数(全集非収録403編に加えて収録済社説中におそらくは数百編)なのに、陸軍の装備充実や人材育成さらには財政的裏付けなどへの長期的な見通しを含む陸軍論社説を絞り込むのは難しいのである。

全集収録済社説についてはテキスト化されたファイル内の全文検索ができないため、語彙の点からの抽出は事実上不可能である。表題については全5338号分の検索が可能となっているので、そこから「陸軍」・海軍を除く「軍」・水兵と支那兵を除く「兵」(注23)の3語彙を表題に含む社説を抽出することにした。結果として得られた94編119日分を陸軍論社説群と呼ぶことにする。これらが全体に占める割合は約2.2%で、大まかにいって1ヶ月半に1回、年間8回程度の陸軍論が掲載されたことになる。

以下でその一覧を示し、その後全集への収録状況について説明する。

福沢健全期『時事新報』社説中陸軍論一覧

掲載日表題(*は草稿残存)全集
18820324露国東洋の兵備を論ず×
18820330陸軍食費改正(四月四日計二回)×
18820818出兵の要*
18820826兵を用るは強大にして速なるを貴ぶ*
18820909兵論 第一(一一日第二、一二日第三、一三日第四、一四日第五、一五日第六、一六日第七、一〇月三日第八、四日第九、五日第十、六日第十一、七日第十二、一一日第十三、一二日第十四、一四日第十五、一六日第十六、一八日第十七、一九日第十八)
18820927朝鮮滞在の兵員×
18830405全国兵は字義の如く全国なる可し(七日まで計三回)*
18840104改正徴兵令(七日まで計二回、五日、六日休刊)*
18840118徴兵令に関して公私学校の区別(一九日まで計二回)×
18840730兵役遁れしむ可らず*
18840816条約改正直に兵力に縁なし
18841226軍費支弁の用意大早計ならず
18841230国民の私に軍費を醵集するの説(三一日まで計二回)*
18850122兵商不岐×
18850129非軍備拡張論者今如何
18850326兵備拡張論の根拠(二七日まで計二回)
18850425日本兵去て在朝鮮日本人の安危如何
18850509騎兵を養成すべし×
18851211兵備拡張
18860208徴兵遁れの弊風×
18860217官立公立の学校と徴兵令×
18860331軍気を振う可し×
18860520兵士の食物を改良すべし×
18861005軍国の交通×
18870430強兵の手段は陸海直接の固めにのみ限らず×
18870718軍政上の改良は先ず其経済法よりす可し×
18880330兵役税の実行を望む×
18881105軍器を米国に需むべし×
18890123徴兵令×
18900109除隊の兵士×
18900310陸海軍連合大演習×
18900314富国強兵×
18900325軍人と人民×
18900327兵備の足らざるを憾む勿れ×
18900329軍事奨励の機転×
18900402行軍遅速の研究
18900919露国減兵の一報×
18910925兵略と政略×
18911230陸海軍の当局者×
18920305軍事当局者×
18921015陸軍大演習×
18921224軍用鉄道商用鉄道(二五日までまで計二回)〔社友 某〕×
18931130欧州諸大国は能く其軍備を維持し得可きやサー、チヤアレス、ヂルク原文〔翻訳〕×
18940422僧侶の兵役免除
18940505僧侶の兵役免除に就て×
18940605速に出兵す可し
18940619日本兵容易に撤去す可らず
18940623我兵の操練に就き×
18940704兵力を用るの必要*
18940711在韓軍人の糧食に就き×
18940729大に軍費を醵出せん*
18940814軍資の義捐を祈る*
18940818軍費支弁に付き酒税の増加×
18940902半軍人の妨は半医の害に異ならず
18941005従軍夫卒の救護×
18941107従軍者の家族扶助法
18941123b軍事公債募集の発令(注24)×
18941129軍事公債募集の首尾如何×
18941208軍国の急務×
18941216海員の兵役免除×
18941225軍事費の始末と増税問題×
18941226軍事費の始末と官有鉄道払下×
18941230我軍隊の挙動に関する外人の批評
18941231軍事商事必ず併行す可し
18950108兵馬の戦に勝つ者は亦商売の戦に勝つ可し
18950308軍備拡張と外交
18950411虎列刺病と軍隊
18950602捕虜兵の処分如何
18950628兵士の恩典
18950629兵士をして親しく恩典を拝せしむ可し
18950721台湾に屯田兵の組織は如何×
18950724軍備の充実
18950801軍備計画の調査×
18950823台湾遠征軍×
18950830軍備拡張に対する政府の覚悟如何
18950914軍備拡張の真意×
18950925軍備回復
18951005海陸軍の軽重×
18951008軍事公債募集の時機×
18960212軍備拡張の緩急×
18960321軍備拡張掛念するに足らず
18960404軍事公債の不始末と日本銀行×
18960418軍備と実業
18960428軍人と国家の経綸×
18960811軍備拡張に官民一致
18961006軍備拡張は戦争の用意に非ず
18970225軍備縮小説に就て
18970421軍馬の養成×
18970428露兵傭聘の議に就て×
18970603陸軍の射的場×
18970626容易に用兵を談ず可らず
18970703軍備は無用を目的とす可し
18971103軍人の勢力果して大なるか×
18971114実業家の軍備縮少運動に就て

以上が「福沢健全期『時事新報』社説中陸軍論一覧」であるが、それらの全集への収録状況は次のとおりである。1898年の明治版(すなわち署名著作)については、1882年10月刊の『兵論』(1882090918821019)・「全国兵は字義の如く全国なる可し」(1883040518830407)・「改正徴兵令」(18840104,18840107)の3編23日分で、後2編は合本されて1884年1月に『全国徴兵論』として刊行された。加えて1925年kから翌年刊行の大正版で増補されたのは「兵備拡張論の根拠」(18850326,18850327)・「大に軍費を醵出せん」(18940729)・「軍資の義捐を祈る」(18940814)の3編4日分で、後2編は草稿残存となっている。1933年から翌年にかけて出された昭和版『続全集』に収録された分31編32日分は「国民の私に軍費を醵集するの説」(18841230,

18841231)以外は草稿非残存である。草稿発見により1958年から64年にかけての現行版に追加されたのは「出兵の要」(18820818)・「兵を用るは強大にして速なるを貴ぶ」(18820826)・「兵役遁れしむ可らず」(18840730)・「兵力を用るの必要」(18940704)の4編4日分である。残りの53編56日分が全集非収録ということになる。

4.陸軍論社説の概観

陸軍論社説一覧は完璧とはいえないものの、論調の傾向を探る客観性は備えている。先にも触れたように均してみると1ヶ月半に1回は陸軍論社説が掲載されていたことになるが、実際のところその頻度にはばらつきがある。

朝鮮で壬午軍乱のあった1882年24日分、1883年3日分、改正徴兵令についての意見が表明され、年末には甲申政変があった1884年9日分、甲申政変の事態の収拾が図られた1885年7日分、徴兵令の議論が再燃した1886年5日分となっていて、この5年間で合計48日分、全体の39.7%を占めている。その一方、1887年2日分、1888年2日分、1889年1日分、陸海軍合同大演習があった1890年8日分、1891年2日分、1892年3日分、1893年1日分で7年間合計で19日分(15.7%)にすぎない。日清戦争があった1894年21日分、1895年15日分で合計36日分(29.8%)となる。以後は1896年7日分、1897年8日分である。

以下で論調の変遷を見るために、全体を7期に区切ることにする。

第Ⅰ期「朝鮮壬午軍乱期」
―「露国東洋の兵備を論ず」(18820324)~「朝鮮滞在の兵員」(18820927)・6編24日分
第Ⅱ期「徴兵論提言期」
―「全国兵は字義の如く全国なる可し」(18830405)~「国民の私に軍費を醵集するの説」(18841230)・7編12日分
第Ⅲ期「朝鮮甲申政変収拾期」
―「兵商不岐」(18850122)~「兵備拡張」(18851211)・6編7日分
第Ⅳ期「徴兵論再燃期」
―「徴兵遁れの弊風」(18860208)~「徴兵令」(18890123)・10編10日分
第Ⅴ期「軍備充実提言期」
―「除隊の兵士」(18900109)~「欧州諸大国は能く其軍備を維持し得可きやサー、チヤアレス、ヂルク原文〔翻訳〕」(18931130)・14編15日分
第Ⅵ期「日清戦争期」
―「僧侶の兵役免除」(18940422)~「軍事公債募集の時機」(18951008)・36編36日分
第Ⅶ期「軍備拡張提言期」
―「軍備拡張の緩急」(18960212)~「実業家の軍備縮少運動に就て」(18971114)・15編15日分

第Ⅰ期「朝鮮壬午軍乱期」は、創刊から7か月の6編24日分であるが、そのうち『兵論』としてまとめられた分だけで18日分あるので、それ以外の社説は5編6日分にすぎない。しかも朝鮮で壬午軍乱が勃発する前のものは「露国東洋の兵備」(18820324)と「陸軍食費改正」(18820330)の2編のみである。

前者は、アジアの東岸に拠点を設けて「自ら東洋第一の海軍国たらんと欲する」ロシアの脅威を警告する社説である。1200字と短い文章とはいえ、新設のウラジオストック港にバルチック艦隊から抽出された極東艦隊が回航されつつあることが報じられている。創刊当初の時事新報社は海外に拠点を持ってはいなかったので、おそらく英国の新聞・雑誌記事を再構成したものであろう。

後者は、陸軍は入営した兵士たちの体格を改善するためにより質の高い食事を提供するべきだ、という前後編2400字の社説である。日本人の身体能力を向上させないといけないというのは福沢の持論で、語彙の点からみて福沢直筆の作と思われる。(注25)

残りの4編は『兵論』も含めて壬午軍乱関係社説といってよく、軍乱自体についてはすでに先行する拙3論文(注26)で扱っている。本論文の主題に関わる限りで要点を整理するなら、(1)軍乱勃発の情報が入ったばかりの「出兵の要」(18820818)・「兵を用るは強大にして速なるを貴ぶ」(18820826)では居留民保護を名目にした出兵に積極的だった福沢(2編とも草稿残存)が、清国軍の介入の報に触れたとたんに弱腰となり、(2)9月から10月にかけての『兵論』(全18回)では主として海軍の増強を提唱し、(3)中上川主筆作とおぼしき「朝鮮滞在の兵員」(18820927)では、軍乱後に残置した日本軍兵士の数が少なすぎることを嘆息している、ということである。

壬午軍乱という突発事件の発生により、日本の軍事力の脆弱さがはしなくも露わとなった。すなわち海軍については軍艦数が、また陸軍については兵員数が、ともに不十分なのである。

陸軍兵充足に関してはすでに1873年1月に「徴兵令」が制定されていた。それは満20歳以上の男子を徴集し、抽選により3年間服務する常備軍を主軸とするものの、戸主(世帯主)・嗣子(長男)・官吏・官立学校生徒・免役料納付者は免除というおよそ国民皆兵とは呼びえない制度だった。そのため、1879年には全国の徴兵対象者約32万人のうち、28万7千人余りが免役となった。そこで政府は同年に徴兵令を改正して、50歳未満の者の嗣子・養子には免役を認めないなどとする免役規定の制限を行った。

第Ⅱ期「徴兵論提言期」での言論は、この1879年の免役規定をもとに、より一層国民皆兵の実を挙げるべく展開された。「全国兵は字義の如く全国なる可し」(18830405)がその嚆矢となっていて、「国中の男子は戸主も嫡子も学士も官員も一切これを免さずして服役せしめ」ることを求めるものだった。もちろん、体格や健康状態などが基準に達しない者もいるので、その場合は免役税を納付することで就役したとみなすと提案されていた。

1883年12月の徴兵令改正により270円の代人料を収めれば免除となる代人制は廃止された。免役制を平時における徴集猶予制に改め、猶予対象者を60歳以上の者の嗣子・養子などとした。また、満17歳以上27歳未満で官立府県立学校の卒業証書を有する者は1年間現役に服せばよいという1年志願兵制がつくられた。こうして兵役を完全に免除される規定はなくなり、国民皆兵が実現されたのである。

「改正徴兵令」(18840104)はこの事態を受けて発表された社説だが、かねてより唱えていた国民皆兵の実現については高く評価する一方で、新設された1年志願兵制度が官立府県立学校卒業生にのみ認められて、私立学校卒業生は適用外とされたことを問題視している。どさくさに紛れての私立いじめだというのである。全集非収録だがその点を詳述した「徴兵令に関して公私学校の区別」(18840118)がある。また福沢の草稿が残存している「兵役遁れしむ可らず」(18840730)でも主として官立学校優遇が問題視されている。

「国民の私に軍費を醵集するの説」(18841230)は次の第Ⅲ期の先蹤ともいうべき社説である。12月4日に勃発した朝鮮甲申事変に関して、もし清国軍と交戦することがある場合には軍費が賄えない場合があるので、国民に向けての広範な募金活動を行うべきだと主張している。この時は戦争にならなかったが、10年後の日清戦争では福沢は実際に報国会を立ち上げて募金に邁進している。

第Ⅲ期「朝鮮甲申政変収拾期」は日清間で締結された天津条約によって、当面の武力衝突は避けられたものの、今後の有事に備えて軍備の拡充が提唱されている時期である。そうした論調は必ずしも『時事新報』に限られた話ではなかったのだが、時事ならではの主張として、通商の拡大と軍事力の増強は並行させるべきという方策が明確化されていることがある。

その嚆矢となる「兵商不岐」(18850122)は語彙からいって高橋義雄執筆のカテゴリーⅡと思われるが、その後第Ⅴ期までの軍事論の基準となっている社説である。すなわち、「我國に於て兵商の併行を要すると云ふ所以は唯兵を以て商を保護し商を擴張するに在るのみ。左るを或る者は言ふ、兵を強くするとは何國と戰ふの積りなるか、其敵は支那にありや英にありや佛にありやとて、諮問する者さへあれとも、我輩の所見にては敵と云へば世界上皆な商敵ならざるは無く友と云へば世界上亦皆な商友ならざるは無し」とあって、軍備の対象はとくに清国とは限らないとされている。この考えは全集収録済の社説についても貫かれている。

第Ⅲ期までの社説は、全集収録率が高いため、従来から福沢の軍事論として広く知られていた。ところが第Ⅳ期「徴兵論再燃期」となると突然すべてが非収録とされている。福沢の『時事新報』への関与は1892年にかけてむしろ強まっていたので、非収録とされた理由は福沢立案か否かによるのではないようである。

その場合考えらえる理由の第一は、第Ⅱ期の社説と内容的重複が多い、ということである。新聞社説は、連載後単行本化された一部を除いてその日限りのつもりで書かれていたため、社説記者が担当したとおぼしき似たような文章が繰り返し掲載されていたのである。次いで理由の第二は、石河が何らかの事情で改正徴兵令に反対している社説を全集から排除した疑いである。1884年1月刊の『全国徴兵論』はともかくも、それ以外の徴兵令関係社説は昭和版『続全集』の「時事論集」に収録されていない。1889年には徴兵令の大改正が行われ、国民皆兵の原則のもとで、戸主に認められていた平時徴集猶予制も全廃された。こうして相次ぐ徴兵令の改正により、資産家以外の一般民衆が合法的に徴兵から逃れる道は閉ざされていった。この改正に関する「徴兵令」(18890123)は語彙の点から福沢執筆と判定できる社説だが、全集非収録となっている。この事実が、次の理由の第三を導くことになる。すなわち、「徴兵令」においては国民皆兵の実現について高く評価されている一方、免役規定の廃止により今度は兵員過多が懸念されているのである。そこで対案として示されているのが免役税の導入で、入営を免除する税を設けることで陸軍の肥大化が防がれるとある。この提案は、1882年の朝鮮壬午軍乱以降、福沢は来るべき日清戦争に備えるため一貫して軍備拡大を主張し続けていた、とする『福沢諭吉伝』第3巻の記述と相反してしまうのである。これが推測可能な改正徴兵令反対社説を石河が採録しなかった理由である。

大日本帝国憲法の制定により議会が開設され、軍事論もそこで闘わせることができるようになった第Ⅴ期「軍備充実提言期」で、全集に収録されているのは「行軍遅速の研究」(18900402)1編のみである。中上川主筆が編集部を去った1887年4月からおおよそ5年の間は福沢が実質的な主筆として健筆を揮っていたのだが、石河はこの時期の軍事論(陸海両軍論)を全集に収めていない。乏しい軍事予算の中で正面装備をそろえるよりまずは人材の育成に励むべきだ、とする海軍論が全集非収録になっていることは先の論文で触れた。陸軍についても同様で、「兵備の足らざるを憾む勿れ」(18900327)は、日本を狙っている西洋諸国に対する対処如何を主題とする社説である。国防は費用のかかる正面装備の拡充だけでなされるのではなく、知恵を絞った対外交渉次第でも図られるという。(注27)本社説を福沢の筆とするのには証拠は不足しているものの、先ずは貿易を拡大して利益を得た後に軍備を整えるべきだというのは、「兵商不岐」(18850122)以来の主張でもある。

ところが第Ⅵ期「日清戦争期」となると、論調は一変する。朝鮮で東学党の乱が起こった1894年4月に平時から戦時へと状況が変化し、開戦後は清国への敵愾心が高まると同時に、戦争を指導していたとされる明治天皇への野放図な礼賛が始まる。さらには全集への収録率が飛躍的に高まっている。

従来の定説では、日清戦争前には社説から手を引いていた福沢が、開戦の危機に際して社説執筆に復帰し、その後連日健筆を揮ったというのだが、これは『福沢諭吉伝』第3巻に書いてあることである。拙ホームページ内の「福沢諭吉直筆草稿残存社説目録」(注28)で確認すると、確かに「兵力を用るの必要」(18940704)・「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705)・「改革の着手は猶予す可らず」(18940706)の3編の直筆社説が3日間連続して掲載されている。けれどもその次の草稿残存社説は2か月後の「朝鮮の改革に因循す可らず」(18940907)、その次はさらに2か月後の「財政の急用」(18941114)である。直筆草稿の残存状況を見る限りでは、福沢が第Ⅵ期の社説に強く関与していた事実を証明することはできない。

この時期の社説は全集への収録非収録を問わず、進行中の戦争を鼓舞し国民に加担を求めるものが多い。「軍国の急務」(18941208(注29)では、「事の端は内より發するか外より來るか豫め知る可からずと雖も、國土の分割は到底免れざるものとして、扨その曉に至れば日本は假令へ主動者の地位にあらずとするも、自國の利害より又その破滅を促すに大に力を費したる其勞費の點よりして、是非とも諸強國の競爭中に投じて相當の利益を分たざる可からず」と清国の領土割譲を求めてもいる。(注30)本社説への福沢関与の有無は不明で、戦争中の福沢の活動ではっきりしているのは、報国会を組織して募金活動を行ったことだけである。非収録の社説のうちで福沢が書いたと判定できるものはない。

さらに日清戦争後の第Ⅶ期「軍備拡張提言期」となると、草稿残存社説は軍事論とは無関係な3編だけになる。一方同時期にも15編15日分の陸軍論があって、いずれも軍拡を強力に求める内容である。たとえば「軍備拡張に官民一致」(18960811)には、「今後軍国の時務はますます多端にして、現に海陸軍の拡張は少なからざる費用を支出して今正に着手の最中なれども、其拡張は決して目下の規模に止む可きに非ず」とある。こうした主張が果たして福沢本人に由来するのか、そうでないのかは、同様の考えが示された自筆草稿類や書簡、さらには演説筆記等の物的証拠が存在しないため、確認のしようがないのである。

5. 注目すべき全集非収録社説

前節で概観したのは、あくまで『時事新報』社説における陸軍論の論調の変化であった。それが福沢本人の考えと必ずしも一致しないことは、論者がかねがね主張してきたことである。論者の立場は、1882年の創刊から1892年までの社説は福沢の思想と相即し、伊藤欣亮総編集が力をもっていた1893年から1896年までの間に福沢の関与は間接的となり、1896年夏の福沢捨次郎社長就任以降、同年末の伊藤の退社を経て、徐々に福沢捨次郎と腹心の石河幹明の『時事新報』へと変貌していった、ということである。ところが、そうだとしても、福沢が脳卒中の発作に倒れる直前まで福沢立案の社説が掲載されていたこともまた事実であるので、1896年夏以降に社説への影響力を完全に失ったとまでは言えないわけである。

そのことを踏まえたうえで、「福沢健全期『時事新報』社説中陸軍論一覧」の全集非収録社説のうちから福沢直筆の社説(推定カテゴリーⅠ)を選び出すと、まず語彙の点から「陸軍食費改正」(18820330)・「軍器を米国に需むべし」(18881105)・「徴兵令」(18890123)の3編は間違いなく、それに加えて語彙的には十分ではないにせよ、その他の状況証拠から見て福沢作とおぼしき「軍政上の改良は先つ其經濟法よりす可し」(18870818)を紹介したい。

福沢にとって青少年の健康増進は日本の近代化にとって喫緊の課題であった。軍人の身体の壮健は国防上にとっても重要な問題である。それゆえ「過日の雑報に、此頃陸軍省にては兵士の食費を増加云々の事を記したり。此事實に然らば政府近時の一美事にして我輩の大に賛成する所なり。軍人は護國の死士なり其身を犠牲にして國に報し、事あるときは我々人民に先たちて死を致す者なり。其任重くして危険なりと云ふ可し。此危険の地に居て此重任を負ふ之を養ふに厚くするは固より至當の事と云ふ可し」に始まる「陸軍食費改正」(18820330)が、創刊1か月以内の表題に「陸軍」が使われている最初の社説で、しかも2日連載となっていることを発見して、福沢にとって健康増進がいかに大きな問題であったかを再確認した。ほぼ同内容の「兵士の食物を改良すべし」(18860520)が4年後に掲載されているが、こちらは高橋義雄の起筆に見える。彼は『日本人種改良論』(1884)の作者でもあった。

1600文字の「軍政上の改良は先つ其經濟法よりす可し」(18870818)は、表題だけを見るなら経済学の観点から軍事力を分析するような仰々しい内容が想像されるが、実際は緊縮財政下での装備の合理的分配が主題となっている。すなわち、「海陸の軍費は其政府全歳入の一半を占め、我國本年度の歳計豫算表に於ても海陸軍費は歳入總額の三分の一以上に達する程の有樣にして、軍費は諸項の政費中最も肝要なる部分を占むるが故に、當局の人々も亦此軍政上に於て巧みに經濟法を利用すること我輩の希望する所なり」ということで、具体的には、兵士の被服に関して安価な戦闘服(作業衣)を日常着として複数支給し、よって高価な制服(礼装)の消耗を抑えるべきだという、いたって卑近な方法の提案である。語彙の観点からは福沢の特徴は見られないのだが、目の付け所がいかにも福沢的と感じられる。

1700文字の「軍器を米国に需むべし」(18881105)は、兵器の輸入に関して一種の盲点を突いた提言である。兵器を「軍器」と呼ぶ用例は福沢署名著作に多数あり、また「藩籬」も『西洋事情外編』に1例のみではあるが確認できる。さらに福沢が使いがちな「頴敏」があるため、本社説を福沢直筆と判定する。

一種の盲点とは、明治維新以来兵器の輸入といえば、英・独・仏の欧州諸国だったのを、太平洋を隔てた隣国である米国からの輸入に切り替えるべきだとするところである。すなわち、「今日まで我日本に於て軍艦大砲若くは水雷船を購求するに當りては何れも歐州諸國に注文したれども、其距離遠くして獨り運送の點より論ずるも尚且つ不便尠なからざりしに、今や岸を隔てて桑港の海岸に斯る軍器製造所の興るに於ては、日本人は今後これを利用するの工風あらんこと、偏に我輩の祈る所なり」というのである。

本社説は語彙の点から福沢作に間違いないが、内容の点にも福沢の過去と密接な関係がある。すなわち、福沢には実際に「軍器を米国に需」めた経験があったのである。それは1867年の第2回米国行のときで、小野友五郎率いる一行の目的は幕府が米国から購入していた軍艦の引き取りにあったし、福沢も個人的に仙台藩からの依頼で小銃の買付けを依頼されていた。その商談は小野の妨害にあって頓挫したものの、その過程で南北戦争後の兵器払下げを担当していたグラント将軍の知遇を得ている。また、サンフランシスコの「軍器製造所」とは、メーアアイランド海軍工廠のことで、1860年の第1回米国行のときには、咸臨丸の一行や小栗上野介ら幕府使節とともにしばらくその海軍工廠に滞在している。旧幕府関係者にとっては米国からの兵器の輸入は自然な発想だったのに対し、英国と関係の深かった明治政府要人にとってはそうではなかったのである。

さて「徴兵令」(18890123)もまた福沢直筆に間違いない。福沢が1883年12月の改正徴兵令に反対していたことはすでに述べた。その理由は主として徴兵免除の範囲が広すぎること、加えて私立学校生徒への猶予差別があったためであるが、1889年1月の改正によりそれら差別が是正されたため、「我輩は新令に依て免除の區域を減じ全國兵の公平に進みたるを賛成するのみ」とまずは改正を素直に評価している。こうして『兵論』(1882)で指摘されていた兵員不足は解消されることになったが、今度は別の問題が生じてしまった。すなわち、「然りと雖も其全國兵の實際に就て一方より論ずるときは論ず可きものなきに非ず。抑も全國兵とは歐洲の大陸各國恰も割據の勢を成し、唯陸兵の力を以て能く四境を守ること、日耳曼の如く佛蘭西の如きは實際に止む可らざる要なれども、僅に海を隔てたる英國に於ては、四面海に濱して天然銀波の國防あるが故に、全國兵の必要を見ず。又彼の米國などに至りては、國は廣大なれども邊境の虞あらざれば、陸兵は殆んど無用なるが如し。是等の事實に照らし見れば、我日本は紛れもなき海國なるに、果して全國兵の止む可らざる事情あるやなしや、我輩の容易に判斷すること能はざる所のものなり」と、今度は兵員過多の問題が起きるというのである。

つまり兵員数としては縮小を図るべきとの考えで、ほぼ同時期の海軍論において、正面装備が整わない現状ではそれに応じて人員を削減するのが望ましいとの主張と軌を一にしている。とはいえ単なる人員の削減ではせっかくの徴兵免除規定の撤廃を無にすることにもなり、何としても国民皆兵と兵員削減を両立させる方策が講じられなければならない。そこで提案されたのが兵役税なる新税で、「兵役税を拂ふ者は中以上の家に多くして政府は何等の煩もなく毎年數百萬圓の金を得ること容易なる可し。陸軍にも海軍にも金を要すること急にして、國庫は常に其支出に苦しむの時に當り、此税源を空うするは惜む可き次第なり。故に我輩は今回徴兵令の改正を賛成すると同時に、兵役税一項の追加を冀望する者なり」というのである。

以上が「福沢健全期『時事新報』社説中陸軍論一覧」のうち福沢が実際に書いたか、強い関与が推定できる全集非収録社説の紹介である。1889年2月以降1897年11月まで37編37日分が残されているが、福沢作と断定できる社説は見出せなかった。

6.おわりに

最後に本論文で明らかになったことを項目化する。

  • (1)福沢健全期の『時事新報』での陸軍論社説は94編119日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中のおおよそ2.2%に相当する。海軍論社説が50編であったのに対して約2倍の頻度となるが、国民皆兵に関係するのは事実上陸軍だけなので、それは読者の関心に応じてのことかもしれない。
  • (2)論調の変化に即して7期に分けられる。各期の期間に差があるため1期当たりの編数に偏りがあるように見えるが、実際は、第Ⅰ・Ⅱ期で2年半13編36日分、第Ⅲ・Ⅳ期で4年16編17日分、第Ⅴ期3年14編15日分、第Ⅵ期1年半で36編36日分、第Ⅶ期1年半で15編15日分となり、第Ⅵ期(日清戦争期)のみ他の時期の約2倍の掲載頻度の外はほぼ平均している。
  • (3)ところが全集への採録状況を見ると、非常に大きな偏差がある。すなわち第Ⅰ期・24日分中20日分収録・収録率83.3%、第Ⅱ期・12日分中10日分・83.3%、第Ⅲ期・7日分中5日分・71.4%、第Ⅳ期・10日分中0日分・0%、第Ⅴ期・15日分中1日分・6.6%、第Ⅵ期・36日分中19日分・52.8%、第Ⅶ期・15日分中8日分・53.3%という結果である。
  • (4)中上川彦次郎主筆が辞職した1887年4月は第Ⅳ期の半ばにあたり、その後は第Ⅴ期半ばの1892年まで福沢は新聞に強く関与していた。ところが第Ⅳ・Ⅴ期を併せた8年間で、全集収録社説は「行軍遅速の研究」(18900402)1編1日分だけである。福沢が社説を主導していた日清戦争前約8年間の陸軍論を、石河は全集に入れていない。
  • (5)そのため、本論文冒頭に掲げた『福沢諭吉伝』の「朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」を全集所収の社説から後づけることはできない。伝記でいわゆる帝国主義的野心を示す証拠として引照されている社説は朝鮮甲申政変後の1885年かまたは日清戦争開戦後の1894年に掲載されたものに限られる。
  • (6)第Ⅳ・Ⅴ期で全集非収録となっている陸軍論にあっても帝国主義的野心をうかがわせる社説は発見できていない。確かに『兵論』(1882)で陸軍の兵員不足を憂慮しているが、それは西欧の軍隊から日本本土を守るのに不十分であるという認識によるものである。
  • (7)『時事新報』は1879年の改正徴兵令での免役規定撤廃を求めていたが、1883年の改正で免役規定が制限されると同時に私立学校差別の規定が盛り込まれるや、今度はそちらの廃止を求めた。1889年の改正によりその差別は解消されたものの、1883年の改正によって兵員充足が容易となったため、今度は兵員の削減を主張し始めた。日清戦争前の『時事新報』の論調は、本土防衛についてはほぼ目処がついたので、財政逼迫の状況にあって陸海軍とも規模を縮小するべき、というものだったのである。
  • (8)1894年7月の日清開戦後に『時事新報』が戦争を翼賛したのは事実だが、福沢個人が行ったのは報国会を窓口とする戦費調達のための募金活動だけである。現在問題となっている社説類に福沢が関与したかどうかは不明である。
  • (9)日清戦争終結後の陸軍論は、海軍論と同様大規模な軍拡を主唱するものだが、それらに福沢が関与していた証拠は発見できていない。

(本文終)

【参考文献】

  • 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
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  • 杉田聡(2012)「福沢諭吉と明治絶対主義的天皇制:福沢は天皇制とたたかったか」『帯広畜産大学学術研究報告』33巻 http://id.nii.ac.jp/1588/00001763/
  • 杉田聡(2015)「家族・市民社会論、朝鮮改造論に見る「福沢神話」-近年の二つの福沢研究を批判する」『帯広畜産大学学術研究報告』36巻 http://id.nii.ac.jp/1588/00001741/
  • 遠山茂樹(1951)「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号、福沢研究会
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  • 富田正文(1940)「戦争と福沢先生」慶応義塾福沢先生研究会編『福沢諭吉の人と思想』岩波書店
  • 服部之総(1952)「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』河出書房
  • 平泉澄(1937)『本邦史教程』陸軍予科士官学校
  • 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
  • 平山洋(2012)『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』ミネルヴァ書房
  • 平山洋(2017)『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』ミネルヴァ書房
  • 平山洋(2020a)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における朝鮮」『日本近代學研究』第67輯、韓國日本近代學会
  • 平山洋(2020b)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」『日本近代學研究』第70輯、韓國日本近代學会
  • 平山洋(2021)「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号、静岡県立大学
  • 福沢諭吉(1959~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店
  • 福沢諭吉(1933,1934)『続福沢全集』岩波書店
  • 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書
  • 丸山真男(1952)「福沢諭吉選集第四巻解題」『福沢諭吉選集』第4巻、岩波書店
  • 安川寿之輔(2000)『福沢諭吉のアジア認識』高文研
  • 安川寿之輔(2003)『福沢諭吉と丸山真男』高文研
  • 安川寿之輔(2006)『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』高文研

脚注

(1)
静岡県立大学国際関係学部助教。
(2)
『時事新報』創刊の1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を発症した直後の1898年9月30日までの期間である。
(3)
「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」『日本近代學研究』第70輯(2020年11月・韓國日本近代學会刊)205~231頁。
(4)
「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号(2021年3月・静岡県立大学刊)所収。
(5)
単行本名以下丸カッコ内は刊行年を示す。
(6)
現行版『全集』中の所在、この場合は第5巻169頁を示す。
(7)
「徳富蘇峰氏の福沢先生評論について―先生の国権論その他―」『小泉信三全集』第21巻(1968年5月・文藝春秋刊)所収。初出は『三田新聞』546号、1944年5月10日付。
(8)
「戦争と福沢先生」慶応義塾福沢先生研究会編『福沢諭吉の人と思想』(1940年7月・岩波書店刊)所収。
(9)
「蘇翁漫談」『言論報国』1944年3月号(61,62頁)。
(10)
陸軍予科士官学校編『本邦史教程』(1937年8月)。
(11)
「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』(1952年5月・河出書房刊)所収。
(12)
「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号(1951年11月・福沢研究会刊)所収。
(13)
『福沢諭吉のアジア認識』(2000年12月・高文研刊)等。
(14)
「福沢諭吉と明治絶対主義的天皇制: 福沢は天皇制とたたかったか」『帯広畜産大学学術研究報告』33巻(2012)等。21世紀も5分の1が経過した現在、この立場による福沢批判は、管見のかぎり日本国内では安川と杉田の2名によってのみ継続されている。その支持者の総数は1000人弱である(安川が主宰する「『さようなら!福沢諭吉』の会」の会員数に基づく)。日本国内での支持者はもはやごく少数になっていると考えられるが、中国・韓国では依然として一定の影響力がある。
(15)
「福沢諭吉選集第四巻解題」『福沢諭吉選集』第4巻(1952年7月・岩波書店刊)等。
(16)
例えば安川寿之輔著『福沢諭吉と丸山真男』(2003年7月・高文研刊)344~349頁。
(17)
例えば平山洋著『福沢諭吉の真実』(2004年8月・文藝春秋刊)236頁。
(18)
『福沢諭吉の真実』への反論としては、安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年7月・高文研刊)が代表的著作である。論者の『アジア独立論者福沢諭吉』(2012年7月・ミネルヴァ書房刊)の第Ⅲ部「ありがちな批判に答える」は、『福沢諭吉の真実』への批判が全体の7割ほども占める安川同書と、杉田聡編『福沢諭吉・朝鮮中国台湾論集』(2010年10月・明石書店刊)の「解説」への反論である。その後杉田は「家族・市民社会論、朝鮮改造論に見る「福沢神話」-近年の二つの福沢研究を批判する」〔『帯広畜産大学学術研究報告』36巻(2015)〕において論者の方法論への再批判を行ったが、その諸点は論者が『アジア独立論者福沢諭吉』ですでに反駁していた。杉田は「井田メソッド」は疑似研究だというが、石河幹明は井田メソッドに近い方法で全集への社説採録を行っていたのである。しかも井田メソッドの有効性は杉田自身の判定作業によって証明されてもいる(『アジア独立論者』第11章第6節「杉田聡は井田メソッドの達人である」)。だが杉田はその事実に決して触れようとしない。
(19)
前掲「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」(2021)。
(20)
前掲「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」(2020)。
(21)
URLはhttps://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/the_newspaper_archives_and_conclusion_on_the_writer/である。
(22)
「編」とは題名を基準とした数え方で、全集および福沢事典での使用例に準じる。「日分」とは掲載日(社説番号)を基準とした数え方である。2020年7月現在の数字に基づいている。社説のテキスト化作業は未だ完結していないため、今後増加する可能性がある。
(23)
「眼中兵なし」(18881227)は軍事とは無関係、「造船および造兵」(18961124)は海軍関連の社説なので除いた。
(24)
社説番号(掲載日)の後のbとは、同日2編掲載のうちの2番目であることを示す。
(25)
福沢語彙として「在昔」「冀望」「収領」がある。
(26)
「福沢健全期『時事新報』社説における朝鮮」(2020a)、「福沢健全期『時事新報』社説における清国」(2020b)、「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」(2021)。
(27)
第4節冒頭でも触れたように、日清戦争直前の1891年から93年までの陸軍論社説はいずれも全集非収録の6編7日分にすぎない。しかも軍備充実とは、人材育成に傾注することで費用を節減することを意味している。もちろん軍事費削減を提唱していたからといって、それだけで、清国に対して新聞の主宰者たる福沢が帝国主義的な野心をもっていなかった、ということにはならない。そもそも、もっていなかった、ことを証明することなど不可能である。けれども、帝国主義的野心を有していたなら、はなはだしく不自然だ、とまでは言えるのである。
(28)
URLは https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h71/ である。
(29)
『福沢諭吉伝』第3巻で紹介されたことにより有名となった「旅順の虐殺無稽の流言」(18941214)とほぼ同時期の掲載だが、なぜか本社説は全集非収録となっている。なおこの時期、現実の福沢は愛弟子小泉信吉の急病と急死に直面していて、社説執筆どころではなかったのである(『アジア独立論者』271頁参照)。
(30)
「軍国の急務」(18941208)の主張は、1年少し後の全集非収録社説「植民地の経略は無用なり」(18960105)とはっきり相反している。