福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国
このテキストについて
平山氏の依頼により、 2020年11月の 韓国日本近代学会での口頭発表由来の論文 「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」(日本近代学研究第70輯 205~231頁) をアップロードします。
本文
福沢健全期(注1)(1882~1898)『時事新報』社説における清国
平山 洋
hirayama@u-shizuoka-ken.ac.jp
主題語 福沢諭吉(Fukuzawa Yukichi),時事新報(Jijishinpo),独立(Independence),中国人(Chinese),脱亜論(Datsu-A-Ron)
1. はじめに
福沢諭吉(1835~1901)が自ら主宰する新聞『時事新報』(1882年3月1日創刊)で主に清国を対象とする対外強硬論を展開していたということは現在ではほぼ定説となっている。その根拠となっているのは、おそらくは石河幹明編著『福沢諭吉伝』第三巻(1932)の、「先生は「支那が手に入つたら其総督には彦さんが適任であらう」など戯れられたといふ。此応酬の如きは固より一時の座興であるが、又これ鬱勃たる英気の現はれであらう。而して先生の東洋政略は、事の順序として先づ朝鮮の独立を助成するの一事から着手しようとせられ、(中略・さらに)朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」(684頁)という記述である。とりわけ伝記出版後に刊行された昭和版『続福沢全集』(1933、34)に収録された社説「脱亜論」(18850316(注2))は、1951年の遠山茂樹による初紹介(注3)以降、1961年に竹内好により「有名である」(注4)と宣言されてから、福沢の帝国主義的野心を示すものとされてきた。ところがその後1981年の坂野潤治による甲申政変支援の敗北宣言とする新解釈(注5)をきっかけに、21世紀に入ってからはむしろ清国・朝鮮への非介入への提言と理解されるようになっている(注6)。
同じ社説が一方で帝国主義的野心を示すものとされたり、また一方で非介入の提言とされたりするのは、ごく短い社説をそれだけのものとして解釈しようとするからである(注7)。福沢の清国観を正確に理解するためには、彼の清国への言及を網羅的にたどる必要がある。
ところがここに大きな問題がある。従来までの研究では『福沢諭吉全集』(現行版〔1959~1964〕岩波書店刊)全二一巻が使用されるのが通例なのだが、第七巻までの福沢署名入著作はともかくも、第八巻から第一六巻までの「時事新報論集」所収の社説は原則無署名で、その中には先行する昭和版『続福沢全集』の編纂者だった石河幹明を初め社説記者が執筆した分までが含まれているからである。
そこで本論文は、次の第2節において2010年代の『時事新報』社説研究の進展を概説し、ついで第3節では重要と思われる5編の清国関連全集未収録社説を紹介する。第4節では福沢健全期『時事新報』中の清国関連社説の一覧から一部抜粋し、第5節では清国関連社説の論調の変遷をたどる。そして最後の第6節において本論文により明らかになった新事実を項目化する。
2. 2010年代の『時事新報』社説研究の進展
論を進める前に『時事新報』社説を福沢の思想とみなす場合の問題について説明したい。従来の福沢研究は現行版『全集』に基づいて立論されてきたが、そのもとになっている昭和版『続全集』の「時事論集」は弟子の石河幹明が選んだもので、福沢没後の政治的現実と背馳する社説は非採録となる傾向がある(注8)。すなわち、韓国併合(1910)や満州事変(1931)の現実と異なる将来を予想している福沢存命期の社説は、たとえ福沢作の社説でも落とされていて(注9)、結果福沢の清国・朝鮮観に関する研究に歪みを生じさせてきた。現行版『全集』の絶大な権威のため、この問題の真相は明らかにされてこなかったのである。
現行版『全集』の「時事新報論集」への社説採録に関する全面的な疑問を初めて表明したのは平山洋『福沢諭吉の真実』(2004)であった。その内容をかいつまんで述べるならば、事実上の編纂者である石河幹明は無署名である社説を福沢の関与如何によって行ったのではなく、満州事変直後、すなわち1930年代初頭の時代状況に適合的な社説を優先させて収録していたということである(そのため石河著『福沢諭吉伝』と同編『続全集』以後、アジア侵略論者としての福沢という像が強調されるようになった)。要するに現行版『全集』「時事新報論集」の社説採録は出鱈目であり、それだけを読んだところで福沢の真意は分からないのである。
そうであるなら福沢の真意はどこにあるのか。それは『時事新報』バックナンバーの中にある、ということになるが、ごく最近になるまでそれらを読むのは容易ではなかった。復刻版を所蔵している図書館は少なく、また目当てをつけるための総目録も存在しなかったからである。
この困難な状況は2010年になって劇的に改善された。慶応義塾編『福沢諭吉事典』に「『時事新報』社説・漫言一覧」が掲載され、福沢存命期(1882~1901)社説の全タイトルと全集への採否が明らかになった。また、同時期にネット上で公開された「デジタルで読む福沢諭吉」(慶応義塾主宰)により、福沢名で刊行された全著作(ほぼ現行版『全集』第七巻まで)の語彙検索ができるようになった(このサイトは社説の真偽判定に有益である)。さらに2013年以降、論者(平山)を研究代表者とする科研費「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」(https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/the_newspaper_archives_and_conclusion_on_the_writer/)の進捗により、全集未収録社説のテキスト化とネット上での公開が図られつつあるため、従来まではまったく望み得なかった、全集に入っていない社説の語彙検索が可能となったのである。
3. 清国関連全集未収録社説の発見
前節で 述べた「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の進展によって、新たに全集未収録の清国(支那)言及社説761編769日分(注10)が公開されることになった。その中には福沢自らが書いたと推測できる社説(推定カテゴリーⅠ)も、福沢と社説記者の合作と思われる社説(推定カテゴリーⅡⅢ)も、さらに福沢が関与していると見なせない社説(推定カテゴリーⅣ)も含まれている。
全集収録済みの社説も含めるなら清国言及社説は863編998日分にのぼる。そのうち重要と思われる社説の一部抜粋の紹介は第4節で、また全体の論調については第5節で述べることにして、この第3節では全集未収録社説のうち清国を主題とする、論者には重要と思われる社説5編を紹介したい。執筆者の推定については各編の注に譲るが、ここでかいつまんで結論のみ述べるならば、最初から4編目までは福沢直筆(推定カテゴリーⅠ)、5編目は福沢立案北川執筆(推定カテゴリーⅡ)である。これら5編の選択基準は、まず第一には、題名に「支那」が含まれていて、主題が清国とその人民であることが明示されていること、第二には、内容がその時々の時局的なものではなく、より普遍的な日清関係を扱っていること、第三には、論者が指定する福沢語彙を2語以上含んでいることである。これら3条件を満たす社説は他にもあるのかもしれないが、論者の目により重要と思われる社説が選んである。
「日本支那の關係」(18821201) 最初は創刊9ヶ月目に掲載された「日本支那の關係」である。「日本支那兩國の交際は近年益密接に至り、随て其關係漸く困難を加へたる樣に思はるゝなり」に始まる約2000字の本作は、用語と内容の重要性に鑑みて福沢本人の作と推測できる(注11)。社説は次のように続く。明治四年(1871)時の大藏卿伊達宗城が清国に行って日清条約を結ぶまでは両国に関係はほとんどなかった。明治七年(1874)の征台の役では危うく全面戦争の危機に瀕したが、幸い時の内務卿大久保利通により講和が図られた。ところが明治一二年(1879)日本が琉球藩を廃して沖縄県を置いてからは日清間の外交問題となった。
米国前大統領グラント将軍(注12)が世界を周遊中、たまたま北亰に着いたとき、清国政府より琉球に関する日清間の紛争仲裁の事を委託されたとのこと。だが将軍が日本に着いてこの仲裁を試みたとは聞いていない。けれども清国からの最新情報によれば、清国政府は以前から米国政府を信頼していなかったところ、近年ではますます信じなくなったという。その理由は二つあって、一つは米国政府が領内で清国人を過酷に扱っていることがある。この件につき清国政府はたびたび抗議をしていたが、改善されるどころか法律を改正して清国人の入国を禁止するようになったため、清国政府は公然と米国政府を批判するようになった。他の一つは来日したグラント将軍が琉球に関する日本政府の言い分を聞いたとたんに日本を弁護するようになったので、清国政府は大いに不満をもっているという情報である。こうした事情で米清両国間の関係は交際は近年急速に冷却したとある。この報道中の琉球処分に属する一項は果して事実かどうか判断はつかないが、いくらか真実に近いこととして、清国政府が日本の琉球処分を根に持っていて、関係の比較的薄い米国政府にまで八つ当たりをしているということまでは言えそうである。そうだとすると日本政府への怨念はさらに深いと想像できる。
無根拠な不理屈によって自分勝手な不平を訴えるのは清国政府の慣習である。琉球事件についてもきちんとした手続きを経て迅速にことを処分したのであるからいまさら言われる筋合いはないのだが、清国政府の行為は通常の道理によって推測できるものではない。ことに本年七月以降、朝鮮亰城の変(壬午軍乱)に際して被害にあった日本政府が使節に護衛兵を随行させたのを見て、無関係な清国政府が突然三千の大軍を朝鮮に上陸させて自国の軍事力を誇示し朝鮮の小国であることを侮って、親友国である日本人の面前で国王の生父大院君を拘束して北京に送り、さらには国王に指示したり、人民に告示する等、自国民を指導するかのようにしている。以来現在にいたるまで京城内に大軍を駐屯させ続けているのは道理にもとる事態である。
そうして日本人の心配事として、清国が敵対的な行動に出ていることがある。最近の情報によると天津の李鴻章が日本人に対して近来にわかに非礼の態度をとっていることがある。とくに朝鮮人の見ている前で傲慢な様子を見せて大国の威信を示そうとしているようである。あるいは李鴻章の周旋によって招商局から五〇万テールを朝鮮政府に貸与したり、鉱山技師を派遣して鉱脈の調査をさせたり天津芝罘仁川の間に定期航路を開こうとしているそうである。こうした様子は以前の清国には見られないことで、その目的は直接の朝鮮にではなく間接にすぎない日本にある。台湾琉球事件より今回の壬午軍乱まで日清関係はより困難になりつつある。日本政府の担当者はこの事態にどう対処するつもりなのであろうか。
以上が「日本支那の關係」(18821201)の内容であるが、安定した筆致で日清間の問題を分析している。従来までは「東洋の政略果たして如何せん」(18821207~1212)がこの時期の福沢の中国観を示す代表的社説とされてきたが、この「日本支那の關係」を下敷きに波多野承五郎が執筆を担当したと推測できる「東洋の政略果たして如何せん」(注13)より、「日本支那の關係」のほうが福沢の真意により近いと思われる。
「支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり」(18860901) 明治一七年(1884)暮れに起った甲申政変での独立党による天下が短期間で終わりを告げたのち、朝鮮は親清派である事大党政権の統治下におかれることになった。「支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり」(注14)と「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」(18860902)(注15)の2編は、甲申政変の背景ともなっていた清仏戦争の終結とその後の動向、そして直接には8月中旬に長崎で発生した清国軍艦乗組員による乱闘事件をきっかけとして書かれた社説である。
まず2200字の「支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり」は、朝鮮国の独立を冒しつつある清国の批判から始まっている。すなわち、「近年支那人が外國の交際上に活發の色を現はしたるは皆人の知る所にして、例へば朝鮮は獨立國の体面を以て世界各國と對等の條約を結ぶにも拘はらず、支那人は之を属邦視して、明治十五年の亂には其國父を捕へて歸り爾後京城に兵隊を屯せしめ、明治十七年の變に際して其兵は異常の運動を爲す等、一擧一動これを文明の通法に照らして奇ならざるはなし」と。そればかりでなく、米国では清国人への不当な待遇に対して賠償請求を起こすなど対外的な積極策を実施しているのは、単に文明の利器を利用しているからにすぎない。私がかつて言ったように、近来西洋の文明が東に流入して、ようやく清国人も兵制改革に乗り出し、その余勢をかって朝鮮の壬午軍乱や甲申政変に介入しまた安南(ベトナム)をめぐってフランスと交戦した。いずれの場合も清国の負けとはならなかったので、清国人の意気は増長している。そしてその延長上に今回の長崎での清国海軍水兵騒乱事件があるのである。
最近の報道でも、朝鮮政府がロシアに保護を求めたことを知った清国政府が激怒して朝鮮の当局者に説明を求めたということがある。電報報道だけなので詳細は分からないが、甲申政変のときにも朝鮮政府の一部はロシアと内通していたということは聞いている。朝鮮がロシアを優先して清国を後にするようになれば清露の対立は深まることになるが、清国人は引き下がらないだろう。日清関係について振り返るなら、明治七年(1874)の征台の役の時には五〇万円の賠償金を支払わされたし、琉球処分についても清国には不満があるかもしれない。国家間の交際としては貿易を拡大して双方の利益を図るのが望ましいが、今後どのように事態が推移するかは判断がつかない。清国人が文明の利器である軍艦銃砲を利用してことを構える懸念も拭い去れない。事態が悪化する前に収拾するようにしないといけない。思うに清国はここ数年の兵制改革により対外関係が好転したので、対日関係についても強硬に出てくる可能性がある。今後の日清関係についての提言は次号で述べる。
「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」(18860902) そうして翌日掲載されたのがやはり2200字の「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」である。その冒頭は、清国人との交際は注意してことにあたれば数年の間は軍事的衝突にまでは至らないだろう、とひとまず読者を安心させつつ、心配なのは清帝国の内情に不安な要素があることである、と続く。というのは、「今の支那人が西洋流に從て得々たりと云ふも、其西洋流とは唯西洋文明の武器を利用するまでのことにして、錢を以て買たる文明に過ぎず。其人の心身を支配する文明の主義に至ては毫も此國に入らざるのみか、陶虞三代孔孟の道尚存して、自尊卑他謬信惑溺の精神は依然として舊に異なら」ないためである。
西洋文明の本質である精神文明はまったく受容される余地はなく、その内治の様子は儒仏による統治が行われていた北条・徳川の時代とかわるところがない。それなら西洋文明の利器を金銭であがない、それを孔子の精神で運用すれば万事うまくいくかといえば、そうはならないだろう。というのは、便利に使ってしまえばその由来を知りたく思うのは当然のことで、物質文明の起源への関心から、やがては「其國の民情風俗を問ひ、尚進んで教育世教の風は如何、政治法律の仕組は如何、人民と政府との關係は如何を問ひ、遂に大に發明するものある可きや人心の働の定則にして違ふ可らざるものなり」となるからである。
そうして大いに思い至るのは西洋文明の大主義ともいうべきもので、やがては中華は必ずしも華ではなく、天朝といっても天ではないばかりか、社会全般についてもそれまでの常識が通用しないと民衆が気づくようになり、制しようにも制しきれなくなる。これが維新の先駆改革党発生の萌芽となる。こうなると中央政府はこの改革論に従おうとするなら旧弊を一新しないといけなくなる。この旧弊というものは文明主義からは弊害だが清国の宮中にとっては慣行の破壊であり、それはまた多くの国民にとっても同様である。生活を全部替えることになるから改革論を採用するのは難しい。しかし一方の改革党としては、物質文明を西洋風にするばかりでなく精神もすでに洋化して、軍事・鉄道・電信を導入するばかりか外国人との交際が日々親密さを増すなかで、洋書や新聞による情報の流入により支持者はどんどん増加するのを見れば、いまさら国害として禁止することもできなくなる。
こうして国論全体が守旧開進の二派に分裂するばかりではなく、朝廷内にも同様の二派が生じて抗争を始めるのは私としても請合うところである。だから今清国人が西洋物質文明の移入に汲々としているのは、その後に国家の大変革が予想されるのでむしろ好都合なのである。もしそうでなく、西洋文明は利用するだけのことと思っても、実際には大改革を促すだけとなろう。とはいえ守旧派の団結を解くのは難しく、また新主義の流行をとどめるのも困難である。その対立が限界に達すると大変動が生じる。日本の明治維新がそのよい実例である。清国としても大変動の結果日本のようになるかもしれない。清国社会の大変革は早晩免れることはできないこととして予想を立て、そうなった場合に日本はどうするべきかを今から大いに考えておかねばならない。日本の清国に対する外交案件は現在すでに多岐にわたっているが、時間は急速に変化するので今後の対応についてぼやぼやしてはいられないのである。
以上が「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」の内容であるが、辛亥革命に至るおおよそ四半世紀間の推移とその実現を言い当てているのに驚かされる。石河は本社説を福沢直筆と気づきながらあえて『続全集』に収録しなかったのは確かだと思われる。その理由として考えられることは、おそらくは実際の福沢が清国における市民革命の実現に期待しているところにある。
「支那人民」(18940802) 次の「支那人民」(注16)は日清戦争開戦直後の掲載で、現在では有名になっている「日清の戦争は文野の戦争なり」(18940729)の4日後に発表されている。1800字の本社説は「世界文明の風潮は甚だ急激にして支那四百餘州の天地も早晩その侵入を免る可らず。其時こそは今の滿清政府が滅亡を告ぐるの期にして其時期は支那人自身にて促すか、又は他國人に促さるゝか、豫め知る可らずと雖も、彼の支那人は幾千百年來周公孔子の陳腐主義を遺傳し、陰陽五行の妄説に惑溺して絶えて改進々歩の思想なく、多年文明日新の空氣に觸れざるに非ずと雖も、自から新にすること能はざるものなれば、如何なる風潮に際會するも到底自身にて起つの精神はある可らず」と清国の人民の自発性に疑問を投げかけるところから始まっている。
結局彼らを文明化するには外国の力を借りるしかないが、その場合には清帝国自体は滅亡してしまっているだろう。しかし人民は国とともに滅するわけではなく、永く世界に生存することになる。彼らは政治上には無気力で愛国心に乏しく、国の名誉を維持して独立の体面を全うしようとするような観念はほとんどないのだが、商売上手で金銭を重要視する気風については一概に軽侮できるものでもない。そもそも人生の目的は心身の快楽を得ることにあって、快楽を得られるかどうかは金銭次第ということもある。つまりは金銭すなわち快楽なりということもできる。清国人の金銭崇拝は相当なもので、そのためかの国には富豪も割合多いのである。
この一点から見れば彼らも決して軽蔑すべき人民ではないようにも見えるが、また一方から考えるとそうともいえない。というのは、裕福な生活さえ営めればそれで十分なようにも感じられるが、今の世界は文明開化と称しながら実は未だ万国一家四海兄弟の時代になっているわけではないからである。もし自国の国土を失ってしまうとその人民は世界の無宿者同様となって、肩身の狭いことになる。ある一国の人民が他国の人民と対峙して譲らないですむのは、その本国に兵隊もあり軍艦もあってそれらを背景としているからである。しかるに本国が滅亡してしまうと何の後ろ盾もなくなって心細いことこのうえない。
たとえばユダヤ人は世界に散在して人口も少なくない。ところがその民族だけが商売に巧みで利殖に長け、ユダヤ人といえばケチの異名のようで、実際に金満家も少なくないのになぜか一般に軽蔑されて、ほとんど人間扱いされていない。彼らの性格が嫌がられているということもあるが、それよりも彼らが世界の無宿者で背景となる本国をもっていないからである。もし彼らがたとえ小さくともユダヤ国という独立国を有してその政府の下に居られたなら、けっして今日のような待遇は受けずに済んだであろう。清国人も同様のことで、もし清帝国が滅亡してしまうなら亡国の民となって世界から軽蔑を受けることになる。いったん軽蔑を受けてしまうと生活上の安楽は得られても精神上にははなはだ不愉快な状態に置かれてしまう。人生の目的は心身の快楽を得ることだとして、亡国の民になってしまうと他国人の軽蔑を蒙ることになるのでまことに憐れむべき状況となる。清国人が今までのように家は大切でも国のことは知らない、すなわち自分だけの快楽を目的として一国独立の観念がないようでは第二のユダヤ人になってしまうと危惧しつつ、社説は「我輩は滿清の政府と共に其人民を見限るものに非ず今より注意して亡國の民たるに至らざらんこと敢て勸告する所なり」と結ばれている。
「支那の運命」(18960301) さて最後に紹介する日清戦争終結翌年の「支那の運命」は、全部を福沢が書いたとは断定できない社説である。とはいえ前4編との内容的類似性から無関係とも考えにくい社説で、文体は北川礼弼に似ている。カテゴリーⅡと判定するためには福沢自身の証言や草稿の残存が必要なのだが、いずれも発見されていない。そこでここでは暫定的に北川起筆のカテゴリーⅡ社説として話を進めることにする。
2800字の本社説は「日清戰爭は既に過去の出來事にして今更ら其是非曲直を論ずべきに非ず。一旦その局を結びたるの今日に在ては依然舊時の友邦にして假令ひ共に相提携して天下の大局に當る程の親密に至らざるも、我に於て之を敵視する樣の念慮は毛頭あることなし」に始まっている。とはいえ今の清国は外患のために侵略を受けてまったくその国を滅ぼされてしまうか、そうでなければ内憂のために四分五裂、ついに清朝の滅亡に帰してしまうか、二者一択になってしまっている。
なぜ二者択一なのかといえば、今日の文明はいわゆる合理性の文明であって道徳性の文明ではないので、前者を採用する国は世界万国とともにその中で成功できるが、後者を採用する国は世界から孤立してやがては滅んでしまうからである。古来アジアの文明は道徳を中心に組み立てられてきた。わが日本も徳川の末年までは徳を重視し智を軽視していたが、開国以来国の指導者たちは西洋文明の導入のために学者は本を書きまた役人は法律を改めた。このようにしてみると日本の将来は明るいといってよいが清国についてはそうではない。東方の徳義の祖ともいうべき孔子の生誕の地であり、今日まで古例旧式を守って進歩のないこと甚だしい。徳の外に文明があるのを知らず、文明の中に智あるのを知らない清国はますます弱体化していくであろう。
今の世界で西洋文明を導入せずに独立を保っているのはトルコと清国の二か国だけである。トルコは前年ブルガリアとセルビアを割かれ、今またアルメニア問題がある。この国もあるいはトルコの手を離れて分離独立するか、又はある国に侵略されるか、いずれにしてもその本国から分離するに違いない。清国はどうかというと、香港は英国人によって奪われ、コーチシナ(ベトナム)はフランスによって取られ、近頃に至って台湾は日本のものになったではないか。こうしたわけでもし清帝国が今後西洋文明の導入をおろそかにして旧慣を墨守するならば必ずやその国は滅びてしまうだろう。
ということで清国でも先見の明のある者はこの点に思い至っている。このままでは国が滅んでしまうと心配して、がぜん西洋文明の移入に熱心になった。法律習慣を刷新して人民に進取の気風を養成しようとしているが、彼らを啓蒙することで果たして倒れつつある国を再建できるであろうか。それはおぼつかないと私は思う。というのは、改進の優先順位として清国内の至るところに鉄道郵便電信を開通させて、思想や情報の伝達を速やかにし、急速に西洋文明を入れたらどうなるか。今まで息をひそめていた人民は無防備な状態でそれを受け取ってしまい、人心に大波乱が生じるのは必至である。自由民権や四民平等の思想を喜ぶ者が出てきて政府打倒の運動が発生した場合の人心の動揺は察して余りがある。そうなったときに清国政府は人民の圧力に耐えられるであろうか。耐えられなければ清国は四分五裂して滅亡してしまう。
わが日本においても嘉永開国の初めより次第に人心が騒ぎ出し、ついに慶応の末年にいたって時の政府である德川を圧倒して王政維新の大業を爲したのであったが、もしもその時の天下の実権が帝室にあったとするなら、打倒されるべき政府は帝室ということになったであろう。幸いにして幕府が帝室に代わって天下の実権を掌握していたので天下の熱はことごとく幕府に集まり、あたかも一身を犠牲にして朝廷の身代わりとして滅亡したのだが、清国には德川も幕府もない。政府打倒の熱気を真正面に受けるのは今の清朝であって、この代わりを求めようとしても、そのような代替者はいない。となると自から進んで文明に進もうとすれば必らず内憂によって清朝は滅亡することになり、受容を拒否すれば外国のためにその国は亡ぼされよう。何れにしてもその命脈は限りあるものと知るべきなのである。
以上が「支那の運命」であるが、従来までの福沢の見解と矛盾するところはないとはいえ、文章に繰り返しが多いうえ、使われている結晶化作用の例えも分かりにくいように感じられる。
4. 福沢健全期『時事新報』中の清国関連社説
前節で扱ったのは、表題中に「支那」という言葉が使われている、その国自体またはその人民を主題とする社説5編であった。それらが清国関連社説であるのは明々白々であるのに対し、本節で取り上げる『時事新報』中の清国関連社説の範囲はそれよりも広くなっている。というのは同紙「時事新報」欄(社説欄と通称)に掲載された論説のうち、支那(清国)に言及しているもの総てをさすからである。また、「時事新報」欄掲載を条件とするため、『時事大勢論』(1882)から『実業論』(1893)までの単行本は社説に属するが、特別欄に掲載された『福翁百話』(1896)以降の著作は含まれない。
慶応義塾による「デジタルで読む福沢諭吉」では採録対象とされていない全集収録済社説の個人による全文検索は事実上不可能であるので、現行版『全集』収録分については第二一巻所収の「福沢諭吉年譜」にある社説表題を目視で点検した。すなわち『時事新報』掲載社説のうち、「支那」「清」(または中国の地名)が表題に使用されているものを中心に採録したものである。本文を逐一当たっているわけではないから文中に「支那」や「清」が使用されている社説は他にもあると推測できる。全集未収録社説については平山洋のサイト「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」での語彙検索(支那・清)による。こちらは機械的に選別されるので2020年7月現在の全部である。
社説はあくまで法人としての『時事新報』の見解であるから、すべてが福沢の個人的意見と一致するわけではない。ただ創刊丸10年、1892年春までの社説は福沢の個人的意見とほぼ同じであるというのが論者の見解(注17)であり、また学界の共通理解でもある。清国に言及している福沢の署名著作と併せてこれらの無署名社説を通覧すると、福沢の清国観がどのようなものであったかが浮き彫りとなる。
本論文冒頭でも触れたように、福沢健全期の範囲は『時事新報』が創刊された1882年3月1日から福沢が脳卒中に倒れた直後の1898年9月30日までの間で、それまでの発行総数は5338号である。第3節にも書いたように上記の方法で抽出された清国関連社説は863編(998日分)であり、その掲載比率は全号数の約18.7%である。大雑把に言って『時事新報』の読者は毎週1回は清国に言及した社説を目にしていたことになる。
以下の記述はこれら863編を基準にして組み立てるが、紙幅の都合によりその情報全部を掲載することはできない。その代わり題名に「支那」や「清」が使われた社説全部に、「東洋の政略果たして如何せん」・『兵論』・「東洋の波蘭」・「脱亜論」・「旅順殺戮無稽の流言」など、今日では有名になっている社説を加えた一部抜粋194編(233日分)を次に掲げる。それらは清国言及社説全体のおおよそ4分の1にすぎないとはいえ、傾向性を把握することは可能である。
福沢健全期(1882~1898)『時事新報』の清国関連社説一部抜粋
掲載日 | 題名 | 全集 | 草稿 |
---|---|---|---|
18820829 | 支那国論に質問す(九日まで計四回) | 昭 | × |
18820909 | 兵論(一〇月一九日まで計一八回)〔署名著作〕 | 明 | × |
18820919 | 支那政府の挙動 | × | × |
18821201 | 日本支那の関係 | × | × |
18821207 | 東洋の政略果して如何せん(一二日まで計五回)〔草稿残存〕 | 大 | 〇 |
18830117 | 支那朝鮮の関係(一九日まで計三回) | 昭 | × |
18830212 | 未来の支那〔袖浦外史〕 | × | × |
18830512 | 支那人の挙動益怪しむ可し | 昭 | × |
18830514 | 支那人の朝鮮策略果して如何 | × | × |
18830525 | 支那果して東京を争うの決意あるか | × | × |
18830604 | 支那仏蘭西開戦の機熟す | × | × |
18830606 | 北京駐在新任英国公使 | × | × |
18830612 | 支那人民の前途甚だ多事なり(一三日まで計二回) | 昭 | × |
18830706 | 清仏の談判如何 | × | × |
18830710 | 清仏の和戦如何 | × | × |
18830720 | 支那行を奨励すべし | 昭 | × |
18830724 | 清仏の関係は何等の状態に推移るべきや | × | × |
18830725 | 清国は果して安南を争うの意なきか | × | × |
18830827 | 支那の両政党 | × | × |
18830903 | 支那は能く為すことなきなり | × | × |
18830904 | 支那との交際に処するの法如何(五日まで計二回) | 昭 | × |
18830920 | 在東京の清仏両軍開戦す | × | × |
18830922 | 清仏交渉の跡を鑑みて感あり〔豊浜漁夫〕 | × | × |
18831224 | 支那と仏蘭西との喧嘩 | × | × |
18840110 | 西洋の新文明支那に侵入するの影響 | × | × |
18840114 | 清仏葛藤の終局如何(一五日まで計二回)〔DBシモンズ〕 | × | × |
18840304 | 仏国は支那の恩人なり | 昭 | × |
18840305 | 日本は支那の為に蔽われざるを期すべし | 昭 | × |
18840407 | 帝国支那政府是より将さに多事ならんとす | × | × |
18840414 | 支那政府軍機大臣の更迭 | × | × |
18840421 | 支那貿易を拡張すること甚だ緊要なり | × | × |
18840509 | 支那政府の更迭並に安南事件 | × | × |
18840510 | 仏国公使将に北京に入らんとす | × | × |
18840516 | 仏蘭西支那両国間の和約成る | × | × |
18840517 | 支那是より多事ならん | × | × |
18840703 | 支那帝国海軍の将来如何(五日まで計三回) | × | × |
18840707 | 支那政府の失敗支那人民の幸福 | 昭 | × |
18840709 | 支那の鉄道 | × | × |
18840710 | 西洋人と支那人と射利の勝敗如何(一一日まで計二回) | 昭 | × |
18840714 | 清仏両国の葛藤再び起る | × | × |
18840715 | 清仏両国の和戦如何 | × | × |
18840729 | 郎松事件は清仏葛藤の大団円に非ず | × | × |
18840808 | 清仏の談判破裂したり | × | × |
18840813 | 支那外交官の苦心 | × | × |
18840820 | 支那国の運命 | × | × |
18840826 | 仏蘭西と支那と戦争の訳柄 | × | × |
18840827 | 仏清事件憶測論(二八日まで計二回)〔草稿残存〕 | 年鑑 2 | 〇 |
18840908 | 清朝の秦檜胡澹庵 | 大 | × |
18840911 | 清廷の忠臣は君命に違う可らず | × | × |
18840916 | 満清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん | × | × |
18840919 | 仏清事件は欧洲の政治論に関係あり | × | × |
18840924 | 支那を滅ぼして欧洲平なり(二五日まで計二回) | 昭 | × |
18840926 | 仏清熟れが是耶非耶 | × | × |
18840927 | 支那風擯斥す可し | 昭 | × |
18841015 | 東洋の波蘭(一六日まで計二回) | 大 | × |
18841224 | 支那兵士の事は遁辞を設るに由なし | 昭 | × |
18850106 | 和戦共に支那を侮る可らず | × | × |
18850115 | 遺清特派全権大使 | 昭 | × |
18850116 | 支那の暴兵は片時も朝鮮の地に留む可らず | × | × |
18850120 | 支那の談判は速ならんことを祈る〔草稿残存〕 | 年鑑 18 | 〇 |
18850204 | 支那との談判 | × | × |
18850209 | 日清事件と仏清事件 | × | × |
18850210 | 在京城支那兵の撤回 | × | × |
18850217 | 支那談判に付き文明諸国人は必ず我意見を賛成す可し | × | × |
18850220 | 英国は永久支那を庇蔭するものに非ず | × | × |
18850224 | 遣清大使 | × | × |
18850225 | 北京の談判 | × | × |
18850304 | 京城の支那兵は如何して引く可きや | × | × |
18850307 | 条約改正と北京の談判 | × | × |
18850310 | 日清談判、英国の喜憂 | × | × |
18850316 | 脱亜論 | 昭 | × |
18850317 | 仏清事件の奇効 | × | × |
18850318 | 支那帝国に禍するものは儒教主義なり | × | × |
18850410 | 支那将官の罪 | × | × |
18850415 | 仏清の和議、支那の幸不幸 | × | × |
18850418 | 天津の談判落着したり | 昭 | × |
18850421 | 仏清の媾和は以て仏蘭西を軽重するに足らず | × | × |
18850422 | 天津条約 | 昭 | × |
18850506 | 第三回の仏清紛議 | × | × |
18850523 | 支那の版図広大に過ぐるが如し | × | × |
18850615 | 支那貿易に関係する日本の商民と商船 | × | × |
18850616 | 仏清新天津条約 | 昭 | × |
18850622 | 支那の貿易望み無きに非ず(二三日まで計二回) | 昭 | × |
18850831 | 支那は果して其大版図を保つ能わざるか(九月一日まで計二回) | 昭 | × |
18850916 | 英語と支那語 | 昭 | × |
18851212 | 支那人の挙動 | × | × |
18860121 | 支那人の英断 | × | × |
18860204 | 支那招商局と日本郵船会社 | × | × |
18860311 | 米国と支那との紛議 | × | × |
18860429 | 支那政府の外交政略 | × | × |
18860819 | 長崎の支那軍艦 | × | × |
18860820 | 支那軍艦を如何せん | 昭 | × |
18860826 | 支那艦をして漫に其処を去らしむ可らず | 昭 | × |
18860827 | 支那外交官に一言 | × | × |
18860901 | 支那人の括発なるは文明の利器に由るものなり | × | × |
18860902 | 今後支那帝国の文明は如何なる可きや | × | × |
18860910 | 朝鮮の内憂は日清両国の福に非ず | × | × |
18861008 | 支那水兵暴行の談判 | × | × |
18861013 | 支那の貿易(一四日まで計二回) | × | × |
18861019 | 支那の交際亦難い哉 | × | × |
18861204 | 支那との交際 | × | × |
18861222 | 日本人と支那人 | × | × |
18870203 | 長崎事件、支那の外交官に告ぐ | × | × |
18870720 | 支那論(二三日まで計四回) | × | × |
18870805 | 日本の蚕糸家は支那の競争を忘るべからず | 昭 | × |
18870827 | 支那の新立銀行は日支の貿易に関係あり | × | × |
18870924 | 支那朝鮮の外国交際 | × | × |
18870930 | 日本支那の貿易 | × | × |
18880110 | 支那近状 | × | × |
18880201 | 支那に関する西洋人の意見(三日まで計二回)〔DBシモンズ〕 | × | × |
18880519 | 支那の鉄道と日本の鉄道 | × | × |
18880725 | 上海事変 | × | × |
18880825 | 支那人拒絶〔ボーストン某生〕 | × | × |
18890322 | 支那人の来住は条約改正の故障と為らず | × | × |
18891107 | 社会の交際に流の清濁を分つ可し | × | × |
18910722 | 清国軍艦の来航に就て | 昭 | × |
18911009 | 支那に対する各国の談判は其成行如何 | × | × |
18911015 | 支那の交渉事件は我国の好機会なり | 昭 | × |
18920824 | 支那の製糸改良の計画 | × | × |
18921001 | 先ず天津条約を廃す可し | 昭 | × |
18921011 | 天津条約 | 昭 | × |
18921012 | 天津条約廃せざる可らず | 昭 | × |
18930815 | 清韓居留民を安からしむ可し | × | × |
18930905 | 支那日本の銀勢 | × | × |
18940227 | 支那人の内地雑居 | 昭 | × |
18940413 | 金玉均暗殺に付き清韓政府の処置 | 昭 | × |
18940609 | 支那人の大風呂敷 | 昭 | × |
18940614 | 支那兵の進退如何 | 昭 | × |
18940624 | 支那兵増発の目的如何 | × | × |
18940628 | 支那人の心算齟齬せざるや否や | × | × |
18940703 | 大使を清国に派遣するの必要なし | 昭 | × |
18940712 | 朝鮮の改革は支那人と共にするを得ず | 昭 | × |
18940717 | 支那公使と支那兵の退去 | 昭 | × |
18940720 | 牙山の支那兵を一掃す可し | 昭 | × |
18940722 | 支那政府の長州征伐〔石河幹明〕 | 大 | × |
18940724 | 居留清国人の保護 | 昭 | × |
18940724 | 支那朝鮮両国に向て直に戦を開く可し | 昭 | × |
18940728 | 支那人に勧告す | 昭 | × |
18940729 | 日清の戦争は文野の戦争なり | 昭 | × |
18940731 | 平和を破る者は支那政府なり | × | × |
18940801 | 満清政府の滅亡遠きに非ず | 昭 | × |
18940802 | 支那人民 | × | × |
18940805 | 直に北京を衝く可し | 昭 | × |
18940809 | 必ずしも北京の占領に限らず | 昭 | × |
18940817 | 曠日瀰久は寧ろ支那人の為めに患う可し | 昭 | × |
18940822 | 清国当局者の感如何 | × | × |
18940920 | 清人の驕気 | × | × |
18940923 | 支那の大なるは恐るるに足らず | 昭 | × |
18940928 | 清国は濾に和議を請わざる可し | × | × |
18941128 | 支那人容易に信ず可らず | × | × |
18941213 | 眼中清国なし | 昭 | × |
18941214 | 旅順の殺戮無稽の流言 | 昭 | × |
18941227 | 支那の分割、止むを得ざる可し | × | × |
18950117 | 容易に和す可らず〔草稿残存〕 | 昭 | 〇 |
18950212 | 清廷の意向如何 | 昭 | × |
18950216 | 支那には敗算もなし | × | × |
18950315 | 北京進撃 | × | × |
18950321 | 支那人の骨、硬軟如何 | 昭 | × |
18950323 | 支那政府の窮策 | × | × |
18950510 | 清国の為めに悲しむ | × | × |
18950606 | 日清同盟到底行わる可らず | 昭 | × |
18950725 | 支那内地の企業を奨励す可し | 昭 | × |
18950803 | 戦後の支那人 | × | × |
18950918 | 支那の事情を知ること肝要なり | × | × |
18951013 | 上海紡績会社 | × | × |
18951017 | 支那の外交及び貿易 | × | × |
18960301 | 支那の運命 | × | × |
18960311 | 露清秘密条約に就て | × | × |
18960510 | 日清貿易 | × | × |
18961030 | 日清通商航海条約 | × | × |
18961111 | 日清両国間議定書 | × | × |
18970226 | 露清韓駐在公使 | × | × |
18970425 | 銀価下落と支那貿易 | × | × |
18970728 | 教育社会の自尊排外熱 | × | × |
18980112 | 十四年前の支那分割論 | 昭 | × |
18980113 | 支那分割今更驚くに足らず | 昭 | × |
18980114 | 支那分割到底免る可らず | 昭 | × |
18980115 | 支那分割後の腕前は如何 | 昭 | × |
18980210 | 支那償金の延期を許す可し | 昭 | × |
18980306 | 支那米の輸入を謀る可し | × | × |
18980322 | 支那人親しむ可し | 昭 | × |
18980324 | 支那の近状 | × | × |
18980415 | 支那兵大に用う可し | 昭 | × |
18980416 | 支那人失望す可らず | 昭 | × |
18980420 | 支那を存するの道なきか | × | × |
18980427 | 支那に対して更らに要求す可きものあり | 昭 | × |
18980428 | 速に支那米輸出の禁令を解かしむ可し | × | × |
18980430 | 対清要求の理由 | 昭 | × |
18980922 | 支那の改革に就て | 昭 | × |
18980925 | 支那の政変 | × | × |
18980928 | 支那の政変に就て | × | × |
以上が「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』の清国関連社説一部抜粋」であるが、先にも書いたように、これら194編の採録に際し現行版『全集』の「時事新報論集」収録社説については目視によっている。また、平山洋のサイト「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」と現行版『全集』「時事新報論集」からの社説抽出は掲載日毎(日分基準)だが、署名著作掲載分については単行本全体の表題のみの表示(編基準)である。例えば1882年11月刊行の『兵論』は、9月9日初回掲載、10月18日最終回の全18回であるが、各回の掲載日を示すことはなく、掲載初日での一括表示(18820909)となっている。
一部抜粋は総数863編の4分の1弱の採録にすぎないとはいえ、清国関連社説の全体的論調の傾向を見ることはできる。
5. 清国関連社説の論調の変遷
前節でも述べたように、清国関連社説一部抜粋は完璧ではないが、それでも論調の傾向を探る客観性は備えている。とはいえ以下の議論は健全期全号数5338号の約18.7%にあたる総編数863編・総日数998日分ある一覧(非掲載)を用いて進めることにする。先にも触れたように均してみると1週間に1回は清国に言及した社説が掲載されていたことになるが、実際のところその頻度にはばらつきがある。
壬午軍乱のあった1882年68日分、第1次清仏葛藤のあった1883年80日分、第2次清仏葛藤と甲申政変があった1884年114日分、清仏戦争が終結した1885年118日分、長崎清国海軍水兵騒乱事件があった1886年84日分となっていて、この5年間で合計464日分、全体の46.5%を占めている。その一方、1887年から日清戦争が始まる前年である1893年までの6年間は合計で223日分(22.3%)にすぎない。1887年4月に主筆の中上川彦次郎が退任したためこの時期の福沢は『時事新報』の社説に深く関係していたのであるが、清国に対して福沢より強硬な意見をもっていた波多野承五郎や中上川の退社によって、かえってその論調は貿易関係を中心とする穏健なものが多くなったように感じられる。
以下で論調の変遷を見るために、全体を8期に区切ることにする。
- 第Ⅰ期「前朝鮮壬午軍乱期」―「朝鮮国の変乱」(18820309)~「生糸荷作の説(二)」(18820711)・18日分
- 第Ⅱ期「朝鮮壬午軍乱期」―「人和論」(18820817)~「学校教育(四)」(18821024)・42日分
- 第Ⅲ期「第1次清仏葛藤期」―「日本支那の関係」(18821202)~「西洋人と支那人と射利の勝敗如何(二)」(18840711)・123日分
- 第Ⅳ期「第2次清仏葛藤甲申政変期」―「清仏両国の葛藤再び起る」(18840714)~「朝鮮事情(二)」(18860308)・189日分
- 第Ⅴ期「長崎清国水兵騒乱事件期」―「外国に行く者は其往くに任す可し」(18860309)~「支那朝鮮の外国交際」(18870924)・100日分
- 第Ⅵ期「生糸貿易競合期」―「露国大に商売上の与国たる可し」(18870929)~「朝鮮政府の防穀令」(18931028)・194日分
- 第Ⅶ期「日清戦争期」―「進取と平和」(18940209)~「先づ朝鮮より始む可し」(18961027)・214日分
- 第Ⅷ期「貿易拡大期」―「日清通商航海条約」(18961030)~「支那の政変に就て」(18980928)・118日分
第Ⅰ期「前朝鮮壬午軍乱期」は、創刊から4か月の18日分の社説でしかない。この期間に「支那」や「清国」を題名に含む社説はないため、一部抜粋には1編も採録されていない。清国について言及されているのは主として生糸輸出についての社説で、「生糸荷作の説(一)」(18820710)には、米国では生糸1斤がイタリア産が5ドル90セントから5ドル60セント、清国産が5ドルから4ドル60セント、日本産が5ドル60セントから5ドル10セントで取引されている、とある。生糸の品位において日本産は清国産よりやや優位にあり、以後『時事新報』は、国内産生糸の品位をより高めて米国への主要輸出品とするべきだ、という社説を掲載するようになる。
第Ⅱ期「朝鮮壬午軍乱期」から清国を題名に含む社説が出始める。その最初「支那国論に質問す」(18820829~0901)は朝鮮で勃発した壬午軍乱に際して清国が大軍を派遣したことを批判する社説で、創刊から5か月間ほとんど清国に関心を示していなかった『時事新報』が清国の対外進出ににわかに警戒心をあらわにしたものである。壬午軍乱では朝鮮の新式軍錬成のため派遣されていた日本人軍事顧問が殺害されたことにより日本も派兵を検討したが、清国が先に大規模な出兵を決めたため断念した。旧式軍を扇動した大院君は閔氏政権の要人を排除して一時は政権を掌握したものの、清国軍は大院君を天津に護送して閔氏政権の回復を図った。この軍乱により独立党は勢力を失い、それがまた2年後の甲申政変の原因となった。この第Ⅱ期を締めくくるのが『兵論』で、その内容は清国に対する日本の軍事的劣勢を認めて、当面は衝突を回避しつつ軍備の増強を図るべきことが提唱されている。
第Ⅲ期「第1次清仏葛藤期」は、朝鮮では壬午軍乱以後閔氏政権の背後に清国の軍事力があるため、独立党の勢力拡大も思うに任せないという状況下での社説群である。注目される清国関連社説は、第3節で紹介した「日本支那の関係」(18821201)が第1に挙げられる。この社説は「東洋の政略果たして如何せん」の原型となっていて、主張の要点はほぼ重なっている。ただ違いとしては清国への批判が「東洋の政略果たして如何せん」より弱い点、さらに、清国を牽制するためには米国の力を利用できることが示唆されている点にある。この考えは以後の『時事新報』社説のうち、全集未収録のものにはあるのに収録されているものには見られない主張である。
今日清仏戦争と称される軍事衝突は1883年6月開始翌年5月終結の第1次と1884年7月に始まり1885年4月に終わる第2次葛藤に区分される。アヘン戦争以来40数年ぶりとなる清国と欧州の大国との軍事衝突ということもあって、『時事新報』もその動向を注視した。この清仏戦争についても全集はほとんど採録していないため、軽視されがちである。実際には第Ⅲ期123日分のうちで19日分の関連社説を指摘できるが、全集に採録されているのは「仏国は支那の恩人なり」(18840304)の1編にすぎない。この時期を締めくくる「仏蘭西支那両国間の和約成る」(18840516)は、第1次清仏葛藤の総括になっていて、そこではあまりにあいまいな休戦条件の不備が指摘されていて、さらに近い将来に第2次紛争が起きるであろうことが予言されている。
第Ⅳ期「第2次清仏葛藤甲申政変期」は暫定的和平がわずか2か月で破れた後「清仏両国の葛藤再び起る」(18840714)に始まる。5月の天津条約には休戦の証として両軍の東京(ハノイ)からの撤退が明記されていたが、実際は両軍ともに相手の動静をうかがっているうちに、ちょっとした拍子に戦闘が再開されてしまったのだった。しかも第2次葛藤は第1次のときよりも大規模となることが予想されて、それが朝鮮の情勢にも影響を与えた。清国陸軍の主力が南方に移動するのを看取した朝鮮独立党の勢力は、政権を掌握している事大党が後ろ盾を失うのではないかと期待したのである。
第Ⅳ期の社説群を一覧すると、「清仏両国の葛藤再び起る」(18840714)から「百事都て西洋風たるを要す」(18841211)までの65日分はほとんどが第2次清仏葛藤に関するものである。代表的なものは草稿が残存していながら石河は全集に入れなかった「仏清事件憶測論」(18840827、0828)である。後世の評価ではこの清仏戦争の結果としてベトナムの宗主権を失った清国の敗北とされているのだが、ここにはフランス軍の意外な劣勢が詳細に記述されている。アヘン戦争以来40年、清国も国防に手をこまねいていたわけではなく、英国軍の指導の下着実に軍事力を強化していたのである。清国軍は強い、というのがその時点での福沢の見解であった。
当初は清国南部を主戦場としていた清仏戦争の戦場が台湾にまで拡大したのは第2次葛藤の最中の1884年10月のことである。「沖縄県は指呼の間に在り」(18841006)が発表されたのはその直後のことで、戦場に近い沖縄が戦禍に巻き込まれる事態を憂慮している。というのは、清国が琉球処分に不満を抱いていることは周知の事実であったから、清仏戦争のどさくさ紛れに沖縄奪取を企ててこないとも限らないからである。福沢健全期に「沖縄」を題名に含む社説は5編あるが、そのすべてが1883年から86年の間に掲載されている。その最後の社説が「薩摩沖縄間の海底電線」(18860821)で、海底電線設置により本土との連絡を緊密にして有事に備えるべきだ、と主張している。
話を少し戻して、朝鮮で甲申政変が勃発したのは1884年12月4日のことであった。いったんは政権を掌握したものの、独立党の見込みは外れて清国軍が介入したため彼らの天下は短期間に終わり、その支援により閔氏政権は迅速に立て直された。日本と清国の間で結ばれた天津条約は朝鮮を一種の中立地帯とすることが取り決められた。一方朝鮮領内で捕縛された独立党の協力者への処分は過酷で、その措置を批判する「朝鮮独立党の処刑」(18850223、0225)や「脱亜論」(18850316)が掲載されたのは、閔氏政権による乱の事後処理が行われていた時期であった。
甲申政変の首謀者たちは密かに日本に亡命し、一時期は福沢邸に匿われていたが、当然ながら『時事新報』はその事実に触れていない。そのかわり、ときの朝鮮政府を操縦しているとされた清国への批判記事が多く掲載されている。甲申政変の余波というべき社説は「朝鮮事情」(18860308)まで継続的に載っているので、そこまでを第Ⅳ期とする。
第Ⅴ期「長崎清国水兵騒乱事件期」は、朝鮮への表立った関心が薄れて、その背景となっている清国を牽制する社説が掲載されている時期である。長崎での清国水兵の騒乱事件自体の発生は1886年8月であるが、その前にも清国民と他国民との間に起きた紛争についての報道がある。それが「米国と支那との紛議」(18860311)であるが、すでに「日本支那の關係」(18821201)で触れられていた米国での清国人放逐事案の後日談となっている。本社説の基調をなすのは米国における黄禍論への批判ではあるものの、それを西洋文明社会の常識として受け入れなければならない残念な事実であるともしている。
長崎清国水兵騒乱事件は8月13日から15日にかけて起きた。8月1日以来長崎港内に停泊していた清国北洋艦隊の軍艦定遠・鎮遠・済遠・威遠の乗組員約500名が無許可のまま上陸し、市内で乱暴を働いたという事件である。13日は2名の逮捕者を出したところで鎮まったが、15日になって逮捕者を奪還するため再び上陸した水兵たちが交番の周辺で乱闘して、清国側に士官1名と水兵2名死亡、日本側に巡査2名死亡、他に双方併せて100名近い負傷者を出してしまったのである。
本件は偶発的に発生した暴力事件ではあったが、北洋艦隊の長崎寄港自体に日本への示威的意図がうかがわれた。とくに2年前の清仏戦争時には就役前だった最新鋭艦定遠・鎮遠は7000トン級の大型艦で、日本海軍の3000トン級艦である高千穂・浪速では歯が立たないと予想された。北洋艦隊が沖縄奪取に動き出したらどうなるのか、日本国内に恐怖にも似た感情が沸き上がった。先に紹介した「薩摩沖縄間の海底電線」(18860821)はそうした中で発表されているのである。
第Ⅴ期の代表的社説は第3節で紹介した「支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり」(18860901)と「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」(18860902)であるが、いずれも清国の西洋物質文明、とりわけ軍事力の導入を高く評価しつつ、西洋の精神文明の受容に逡巡する清国人に懸念を表明している。長崎事件に関する社説は第1報「長崎の支那軍艦」(18860819)から翌年2月の「長崎事件、支那の外交官に告ぐ」(18870203)まで8編を数えることができる。また、長崎事件の余韻もさめやらぬ10月24日にはノルマントン号事件が発生して、11月から12月にかけて同号のイギリス人乗組員による日本人乗客差別を指弾する社説が、併せて清国に言及しているものだけでも6編掲載されている。そこでの論調は、日本人が差別されたのは英国人から日本人が清国人(とインド人)と同等にみなされたからで、日本人の精神は西洋人と全く同じことを英国人により広めることでその偏見を解消させなければならない、というものであった。
長崎事件に直接言及している社説は「長崎事件、支那の外交官に告ぐ」(18870203)が最後であるのに、第Ⅴ期の終結が「支那朝鮮の外国交際」(18870924)となっているのは、『時事新報』の対清国論調は対朝鮮論調と対応関係にあるからである。第Ⅴ期の基調は長崎事件を教訓に清国の軍事的脅威を読者に示しつつ日本の国力の増強を促すというものであった。綿密な調査の下に書かれている4回連載の「支那論」(18870720~0723)は、全体の骨子を「支那人の活溌なるは文明の利器に由るものなり」(18860901)と「今後支那帝國の文明は如何なる可きや」(18860902)に負っているものの、随所に清国政府に由来するインサイダー情報が垣間見られる社説で、当時現職の天津領事であった波多野承五郎の執筆と推察できる。
第Ⅵ期「生糸貿易競合期」は清国に比肩できる経済力をつけるためにはますます貿易を盛んにしなければならない、という社説が量産された時期で、貿易相手国として重要視されているのは米国と清国である。清国は仮想敵国ではあったが、軍事的対立も表面化していなかったので、近隣の超大国として輸出できるものはどんどん輸出するべきだというのが『時事新報』の立場である。「日本支那の貿易」(18870930)には明治10年(1877)から明治19年(1886)までの貿易統計が掲載されていて、日清間の貿易収支は明治17年までは日本の輸入超過で、黒字化したのは直前2年前からだったことがわかる。主たる輸出品は清国内陸部では入手しがたい海産物が主で、輸出品の開拓は未だしだった。そのため日本の商人に清国探訪を薦めるところで本社説は閉じられている。一方輸出対象国である米国に対しては日本と清国は主要な輸出産品である生糸をめぐって競合関係にあった。「米国の生糸市場に注目す可し」(18900509)では、同国の生糸輸入量の6割が日本製を占めていて清国製を圧倒していること、また「支那の製糸改良の計画」(18920824)では清国製生糸の品質向上が顕著で日本製の優位が失われつつあることが警告されている。
第Ⅵ期は日清戦争前の6年間ではあるが軍備増強を声高に唱える社説は見られない。逆に「兵備の足らざるを憾む勿れ」(18900327)では、日本の軍事力が不足しているのは事実であるが国家の強さは正面装備だけではない、外交努力など工夫次第で自国を守ることは可能である、としている。
またこの時期は防穀令をめぐって朝鮮との関係が悪化してもいた。すなわち朝鮮の地方官が防穀令に基づいて、不作となった大豆の日本への輸出を禁止したのは1889年のことで、両国民の感情的な対立にまで発展して解決は1893年まで持ち越されている。全集収録社説「先ず天津条約を廃す可し」(18921001)・「天津条約」(18921011)・「天津条約廃せざる可らず」(18921012)3編が掲載されたのはこの防穀令事案の最中のことで、その主張は日清両国の兵力相互撤収を規定した1885年5月の天津条約の破棄を求めるものである。天津条約がなくなれば日本は自由に朝鮮半島に派兵できることになるので、それが朝鮮政府への圧力となることを考慮してのことであろう。
第Ⅶ期「日清戦争期」は第Ⅵ期終了後3か月半の空白期を挟んで後の「進取と平和」(18940209)を嚆矢とする。そこには、「東洋の有樣を見れば、我近隣なる朝鮮の如きは殆んど亡國の状を呈して、其運命甚だ久しからざるが如し。若しも自から支ふること能はずして他の強國に併せらるゝにも至らば、我立國の爲めに事態の容易ならざるは、今更ら云ふを待たず。之に對するの用意は目下の急にして、單に退守を事とするの時に非ざる可し」、とある。
案の定、防穀令事案で日本・朝鮮両国民の間に不信感が残っている間に、1894年には3月に上海で金玉均が暗殺されるや5月には東学党の乱(甲午農民戦争)が始まった。閔氏政権の要請により清国軍が朝鮮領内に入ると、日本軍も天津条約によって派兵を行い、両軍は乱の平定後も半島内で対峙することになった。7月末に開戦となり、連日の戦争報道となる。この時期の社説で今日有名になっているのは「日清の戦争は文野の戦争なり」(18940729)であるが、本社説に福沢が関与したかどうかは判然としない。というのは『福沢諭吉伝』第3巻(1932)の初出に起筆者は明示されていないうえ、同時期の社説等で清国を野蛮とみなしているものはこの1編だけであるからである。
福沢自身が執筆した社説は少なくなるが、草稿が残存している「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705)(注18)は、朝鮮併合に反対する朝鮮関連社説として当時の福沢の考えをよく伝えている。1895年4月締結の「下関条約」により日清間に講和が成り、朝鮮半島から清国の軍事的政治的影響力が消滅したことによって、朝鮮では独立党を主軸とする政府による改革が進められた。しかし国王高宗は日本の影響下にある政府を嫌ってロシア公使館に移ったことで独立党政府は崩壊、直後の1896年2月に親露政権が発足した。
第Ⅷ期「貿易拡大期」は「日清通商航海条約」(18961030)に始まる戦後の日清貿易の拡大期で、それは同時に清国撤収後の朝鮮政府自体が親露派によって占められていることを前提に、ロシアとの関係を調整しつつ朝鮮(大韓帝国)との交流を再構築しようとしていた時期でもある。新条約は日本に極めて有利な不平等条約で、清国に関税自主権は認めていなかった。また日本人が清国領内で自由に経済活動を行えることも決められていて、日本製品の市場は大いに拡大されることになった。日本国内は好景気に沸き立った。ただ問題となるのは南下策を国是とするロシアとの関係である。全集未収録の「露清韓駐在公使」(18970226)には、前外務次官・前駐清国公使の林董が今度は駐露国公使として任地に赴任する旨の報道がなされている。この林は1896年夏に時事新報社社長に就任した福沢捨次郎の義父である。
日清戦争の結果、清国弱しと見た西洋諸国は進出の度合いを強めた。1897年11月にドイツは山東省を攻略翌年3月には青島を中心とする膠州湾周辺地域がドイツの租借地となった。租借条約はドイツの勢力拡大に一定の歯止めをしたにもかかわらず、ロシア(大連)・英国(威海衛及び香港周辺)・フランス(広州湾)への同様の99年間租借につながってしまった。こうした情勢を背景に「支那分割今更驚くに足らず」(18980114)などの諸編が掲載されている。戦勝の余勢をかってともすれば清国蔑視につながりかねない論説が『時事新報』を含む日本国内各紙に掲載されたが、編集部内にも漂うそうした風潮を戒めるためにか、「支那人親しむ可し」(18980322)という推定福沢執筆の社説が掲載されている。そこには清国は大切な貿易相手国であり、日本にとって顧客でもあるのだから、清国人を侮蔑することなどあってはならないと書かれている。
6.おわりに
最後に「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』の清国関連社説一覧」中の社説から読み取れることを項目化する。
- (1)福沢健全期の『時事新報』での清国関連社説は確認できる分だけでも863編998日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中のおおよそ18.7%に相当する。この事実により朝鮮関連社説が約7.5%(注19)、キリスト教関連社説が約1%(注20)であったのに比べて同紙の清国への関心は高かったと言うことができる。
- (2)全集への採録・非採録を問わず、日本による植民地獲得の志向を明確に示す社説は発見できなかった。日清戦争より前に日本による台湾領有を予言したといわれる「東洋の波蘭」(18841015,1016)は、単に将来における状態を仮想の地図上に表示しているだけで、ことさらに当時の日本による台湾領有を奨励しているわけではない。また朝鮮についていえば、「脱亜論」(18850316)の主題は清国と朝鮮への不介入を提唱しているだけである。さらに「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705)では、国内に渦巻く朝鮮併合論に断固反対している。
- (3)『福沢諭吉の真実』(2004)の刊行まで定説とされてきた、『時事新報』は創刊以来対清強硬論を唱えていた、という見解は、石河幹明著『福沢諭吉伝』第三巻(1932)中の「時事新報」編の記述に由来している。しかしそこで重要視されている社説「東洋の政略果たして如何せん」(18821207~1212)には厳しい清国批判こそ見られるものの、それ以上の具体的な策は示されていない。本社説の原型とおぼしき「日本支那の関係」(18821201)の主張はそれよりはるかに穏健である。また以後の論調は対清強硬論というよりはその時々の状況に応じて柔軟に対処するべきだ、というもので、あえて言うならば是々非々とでも評するのがふさわしい。
- (4)本論文冒頭で引用した「朝鮮は着手の手段で其目標は支那であつた」という進出の順序を示す社説を見出すことはできなかった。福沢健全期の『時事新報』においては、一貫して朝鮮の独立を支持する一方、清国については、朝鮮や日本に介入することがなければ、西洋諸国による清国への進出も傍観するというのが基本的な立場で、日本のほうから清国に何らかの軍事的働きかけをするべきだという主張の社説は見当たらない。
- (5)長崎清国水兵騒乱事件の事後処理の終結から日清戦争への緊張が高まるまでの第Ⅵ期は6年に及ぶが、その間に軍備増強をことさらに主張する社説は見られず、論調の核は貿易の振興にある。これは1894年2月に緊張が高まるまで『時事新報』は対清国戦争を予期していなかったことを意味している。本論冒頭の『福沢諭吉伝』の引用にある事態を、福沢本人に由来する書簡や草稿残存社説から証明することはできない。日清戦争が勃発するまで、福沢にとっての清国は一つの貿易相手国にすぎなかったように見受けられる。
- (6)全集未収録社説をも併せて通読するならば、福沢が希望していたのは西洋の精神文明をも受容した日本と同じ価値観を有する独立国家としての清国であった、ということが分かる。むやみに政治的軍事的に進出して先方の怨みを買うよりも安全保障上そのほうが安心だし、何より貿易上の利益を見込むこともできる。そうした考えが基本にあったため、福沢は清国における市民革命に期待し、またその人民の先行きを案じたのであった。
以上こうした結論に、あるいは違和感を感じる読者がいるのかもしれない。それは、アジア蔑視者にして侵略論者としての福沢諭吉のイメージが、あまりにも長くまた深く根付いてしまっているせいである。だが、従来の研究史において、そうした虚像がいかにして造られたかについて順を追って検証するならば、それが石河幹明編の『福沢諭吉伝』(1932)と『続全集』(1933,34)の刊行以降のことであることは、容易に確かめることができる。
現在侵略者福沢として批判されている論説は、『続全集』になって収録された、しかも自筆草稿が残存していない社説ばかりである。また逆に福沢自らが編んだ明治版『全集』(現行版『全集』第7巻まで)には、アジア蔑視も侵略主義も見出すことはできない。明治版が出版された1898年には、たとえそうした野心を抱いていたとしても、それを秘匿する必要など少しもなかった。福沢が自作と認定した著作に侵略性が見いだせないのは、単に彼がアジア侵略など考えていなかったためなのである。(本文終)
【参考文献】
- 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
- 竹内好(1961)「日本とアジア」『近代日本思想史講座』第8巻、筑摩書房
- 遠山茂樹(1951)「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号、福沢研究会
- 西村幸祐(2015)『21世紀の「脱亜論」‐中国・韓国との決別』祥伝社
- 坂野潤治(1981)「解説」『福沢諭吉選集』第7巻、岩波書店
- 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
- 平山洋(2012)『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』ミネルヴァ書房
- 平山洋(2017)『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』ミネルヴァ書房
- 福沢諭吉(1959~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店
- 福沢諭吉(1933,1934)『続福沢全集』岩波書店
- 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書
- 松沢弘陽(1993)『近代日本の形成と西洋経験』岩波書店
- 渡辺利夫(2017)『決定版・脱亜論‐今こそ明治維新のリアリズムに学べ』扶桑社
脚注
- (1)
- 『時事新報』創刊の1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を発症した直後の1898年9月30日までの期間である。
- (2)
- 1885年3月16日掲載を示す。
- (3)
- 「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号(1951年11月・福沢研究会刊)所収。
- (4)
- 「日本とアジア」『近代日本思想史講座』第8巻(1961年06月・筑摩書房刊)所収。
- (5)
- 「解説」『福沢諭吉選集』第7巻(1981年03月・岩波書店刊)所収。
- (6)
- 西村幸祐著『21世紀の「脱亜論」 中国・韓国との訣別』(2015年04月・祥伝社刊)、渡辺利夫著『決定版・脱亜論 今こそ明治維新のリアリズムに学べ』(2017年12月・扶桑社刊)等。
- (7)
- 社説「脱亜論」がいかにして有名になったのかについては、平山洋著『福沢諭吉の真実』(2004年08月・文芸春秋社刊)第5章「何が「脱亜論」を有名にしたのか」を参照のこと。
- (8)
- 『福沢諭吉の真実』第3章「検証・石河は誠実な仕事をしたのか」第5節「石河は何を基準にして「時事論集」への採否を決めたのか」を参照のこと。
- (9)
- 石河が福沢作の社説をそうと知りながら全集から排除した証拠については平山洋「福沢署名著作の原型について」(『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』〔2017年11月・ミネルヴァ書房刊〕所収)を参照のこと。
- (10)
- 「編」とは題名を基準とした数え方で、全集および福沢事典での使用例に準じる。「日分」とは掲載日(社説番号)を基準とした数え方である。2020年7月現在の数字に基づいている。社説のテキスト化作業は未だ完全には終了していないため、今後増加する可能性がある。
- (11)
- 当初「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定ー明治15年3月から明治18年3月までー」(『国際関係比較文化研究』第13巻第1号後1~17頁・2014年9月・静岡県立大学刊)において論者は本社説を中上川起筆福沢修正によるカテゴリーⅡと判定したため「六 前石河社説群中の推定福沢直筆社説」の一覧に含めていなかった。福沢語彙3つ以上を含む場合を福沢直筆のカテゴリーⅠとするという判定基準からは2語彙(視做す・支那政府)しか発見できなかったためであるが、本稿執筆にあたり改めて読み返したところ「慣手」という珍しい熟語が使われていることに気づいた。この熟語は署名著作にも使われているので福沢語彙に加えることにし本社説を福沢真筆(カテゴリーⅠ)と判定する。
- (12)
- 福沢はグラント将軍と面識があった。2度目の渡米時(1867)、福沢は仙台藩の依頼により米軍の払い下げ兵器の買い付けを試みたのだが、その時の米政府の担当者がグラント将軍だったのである(平山洋「福沢諭吉は公一万五千ドルを横領したか」『アジア独立論者福沢諭吉』を参照のこと)。
- (13)
- 『アジア独立論者福沢諭吉』150頁「「東洋の政略果して如何せん」の前半部は波多野の文章」を参照のこと。
- (14)
- 福沢語彙「三五」「朝鮮政府」「知る可らず」「繁多」「鄙見」「慥に」「纔か」(平山洋「『時事新報』社説の起草者推定ー明治18年4月から明治24年9月まで」静岡県立大学『国際関係比較文化研究』第13巻第2号後1-18頁・2015年3月参照)。
- (15)
- 福沢語彙「冀望」「然りと雖ども」「惑溺」「繁多」(平山洋「『時事新報』社説の起草者推定ー明治18年4月から明治24年9月まで」『国際関係比較文化研究』第13巻第2号後1-18頁・2015年03月・静岡県立大学刊、参照)。
- (16)
- 「惑溺」「満清政府」「頴敏」「知る可らず」「ならんなれども」(日本思想史学会発表資料・於早稲田大学・2015年10月18日付)
- (17)
- 『福沢諭吉の真実』第3章第3節「石河が『時事新報』社説で主導権を握った時期はいつか」を参照のこと。
- (18)
- 本社説は石河編の『続全集』に採録されていない。草稿発見により現行版『全集』に収録された。
- (19)
- 平山洋「福沢健全期『時事新報』社説における朝鮮」『日本近代学研究』第 67 輯 165-188 頁韓国日本近代学会。
- (20)
- 平山洋「福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説」(20190913)キリスト教史学会2019年度大会発表。