福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における興業論

last updated: 2021-09-04

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1. はじめに

福沢健全期(注1)の『時事新報』社説(注2)の主題別分析については、2019年以来、キリスト教関連社説・清国論・朝鮮論・海軍論・陸軍論・移民論と続けてきたが、今回の主題である興業論にいたって大きな問題に直面することになった。というのは、それ以外の主題とは異なり、何が興業論かという点において、社説を題名中の用語を手掛かりとして限定するのが難しいのである。

報告者の定義によれば、興業とは業を興すこと一般である。それを主題とする社説を題名に基づいてではなく、内容の観点から選べばよい、とあるいは読者は思われるかもしれない。しかし、社説は総数で5000編程度はある。400字詰原稿用紙に換算して2万枚はくだらないであろう。しかも社説中の語彙検索が可能なのは、全集に収録されていない、しかもテキスト化が終わっている約2500編だけで、全集に収録されている残り約半数は本文中の語彙を検索することができないのである。

また、そもそも興業論をいかに限定するかという問題もある。福沢が『時事新報』を創刊した動機の一つに、殖産興業の手段を広く世間に知らせるということがあったから、政治や外交を主題とするもの以外はすべて興業に関する社説と言ってよいほどである。そこで、興業のための理論を主題とするもの、と限定するなら、その数はかなり絞り込めそうである。だが、そうだとしても今度は何が興業理論なのかという問題が生じてしまう。結局、本文で使われている語彙の観点から社説を選別するのは不可能であることから、最初に戻って、題名で使用されている語彙に基づいて選ぶしかないようだ。

そこで本報告では、題名に銀行・会社・商工・工業・授産・養蚕・殖産・相場・興業・尚商・実業・経済・商業の13語彙を含んでいるものを興業論関連社説と呼ぶことにした。これだけが興業に関するすべての用語か、と問われれば、そうではないと答えるしかない。また、これらの用語が題名に使われているとしても、業を興すこととまったく無関係な社説も含まれている。さらに、実際には題名がこれらの語彙を含んでいなくても、実質的に興業について論じている社説も当然あるであろう。だが、このようにでもしなければ多数ある社説を扱える範囲にまで限定することはできないのも事実である。

そのような次第で、上に示した13語彙を題名に含む社説を、全体として興業論とみなして話を進めることにする。

2.『時事新報』創刊前の興業論

『時事新報』の刊行前にも、福沢には興業論に関する複数の著書がある。本報告の目的はあくまで『時事新報』社説の分析にあるから、多くの紙幅を割くわけにはいかないが、こと興業論に関する限り、『時事新報』社説は、それ以前の署名著作で展開されていた議論の延長線上にあるように見える。社説は福沢ばかりでなく社説記者や外部寄稿者など7,8名の人々によって書かれていたのだが、同時期に発表された社説相互に矛盾がないばかりか、健全期全体を通覧しても論調に変化がほとんどない。ああまたか、という感じなのである。

こうなった理由として考えられることは、新聞創刊前にすでに公刊されていた『民間経済録』(1877,1881)(注3)・『通貨論』(1878)・『民情一新』(1879)といった書籍の内容が弟子たちに深く浸透していて、新聞刊行後は、社会の情勢や政府の方針が書籍の内容と齟齬をきたしつつある時には公論に反対の論陣が張られ、またそれらの内容に沿っている場合には賛成の意見が表明されるような紙面が構成されていたからのようだ。要するに『時事新報』における興業論の中身は、福沢の署名著作によってあらかじめ定まっていたと言ってよいのである。そこで以下では3著の内容を、興業論と関係する部分を中心に紹介したい。

まず『民間経済録』であるが、1877年12月刊行の初編と1881年8月刊行の二編からなる古典派経済学を基礎とした経済学教科書である。ジョン・ヒル・バートンの政治経済学読本やフランシス・ウェーランドの経済学書などの、いわゆる「俗流古典派経済学」が基礎となっているが、それらを日本人にもよく理解できるように咀嚼している。頭注部分に内容に関する設問が細かく書かれているのは、教科書として理解を助けるための工夫であろう。

その初編では「居家の経済」としてミクロ経済学が、二編では「処世の経済」としてマクロ経済学が説かれている。試みに目次を示すならば、初編は、第1章「物の価の事」・第2章「賃銭の事」・第3章「倹約の事」・第4章「正直の事」・第5章「勉強の事」・第6章「通用貨幣の事」・第7章「物価高下の事」・第8章「金の利足の事」・第9章「政府の事」・第10章「租税の事」、二編は、第1章「財物集散の事」・第2章「保険の事」・第3章「銀行の事」・第4章「運輸交通の事」・第5章「公共の事業の事」・第6章「国財の事」となっていて、これらに軍事と外交の項目を付け加えれば、そのまま『時事新報』の社説分類目録に転用できそうである。

1878年5月に刊行された『通貨論』は『民間経済録』初編の第6章と第7章の議論を発展させて、国内に流通する貨幣は金銀貨よりも紙幣のほうが利便性が高いことを説いた論説である。金銀貨がまったく不要であるとするわけではなく、紙幣の信用の裏打ちとしていくらかは必要で、紙幣が信用されているかどうかは物価の高下によってはかることができるので、その状態に応じて流通量を調整すればよいとある。この考え方も、その後『時事新報』の銀行関連社説で展開される考え方である。

1879年8月に刊行された『民情一新』は、福沢が独自の技術史観を展開した著作である。そこで彼は19世紀の文明を「人間世界を覆したる」ほどに画期的なものとし、その大本は蒸気の力であると捉えた。そのエネルギーに支えられた蒸気船・鉄道・電信・郵便・印刷という19世紀における交通・情報手段の発達が、交通量や情報の伝達量を飛躍的に増進させ、それが人々の間に活発進取の気風を養成し、民情を一新し文明化をもたらしたというのである。

さて、福沢本人が『文明論之概略』(1875)でも述べていたように、未だ日本は半開国であるという現状認識からいえば、そうした文明の利器の移入は、文明国たる欧米先進諸国と比較すれば今だしと言うしかない。文明国に追いつくためには国民への不断の啓蒙宣伝が必要となる。その手段として使われたのが、『民情一新』の3年後に創刊される『時事新報』だったのである。

3. 福沢健全期『時事新報』中の興業論関連社説

第2節でも述べたように、厳密な意味での興業論を5000編程度ある社説から抽出するのは困難である。そこで本報告では便宜上題名に銀行・会社・商工・工業・授産・養蚕・殖産・相場・興業・尚商・実業・経済・商業の13語彙を含む社説を興業論関連社説と呼ぶことにした。そこには業を興すという字義にそぐわない社説も含まれているのであるが、本報告はそれらも排除していない。その福沢健全期『時事新報』中の興業論関連社説の一覧は以下の通りである。

福沢健全期『時事新報』中の興業論関連社説一覧

掲載日題名署名全集筆者備考
18820422国立銀行の準備金×
18820519中央銀行×
18820603中央銀行×
18820629日本銀行条例(七月三日まで計四回、七月二日休刊)×
18821122銀行の鎖店×
18830303合本会社の用を審かにす可し(六日まで計三回、四日休刊)×
18830312国立銀行の貸付法を論ず天外迂史(注4)×中上川推定
18830414商工農論×
18830424工業を論ず×
18830507国立銀行条例の改正加除(九日まで計三回)×
18830913士族の授産は養蚕製糸を第一とす(一七日まで計四回、一六日休刊)福沢推定
18830927連合商工業会×
18840303大に鉄道を布設するも商業顚滅の来る気遣いなし×福沢推定
18840306蒸気機関の事を記して併せて三菱共同運輸両会社に論及す 第一(七日第二、八日第三、一〇日第四、一一日第五、一二日第六、一三日第七)
18840419外国人に公債証書を所持せしめて安心ならば会社の株券を所持せしめても安心ならん×
18850416二大会社の競争
18850527経済法自然の運行は不景気を救うに足らず(二八日まで計二回)×
18850718日本商工業者の商標×
18850812養蚕の業漸く盛なるに随て蚕病の予防甚だ大切なり×
18850912工商社会に栄誉権力を重んず(一四日まで計二回、一三日休刊)
18850918次の三菱会社東京日本橋南の一商人×
18851209日本郵船会社の紛紜
18860104日本郵船会社の事情如何(五日まで計二回)
18860204支那招商局と日本郵船会社×
18860206殖産の機転を促がす×
18860218成学即身実業の説学生諸氏に告ぐ福沢諭吉〔演説〕福沢演説
18860712相場所の一新を望む
18860719蚕糸相場所の設立を望む×
18860721蚕糸相場所製糸の改良を促すに足〔る〕×
18860722政府は相場所に課税干渉す可らす×
18860802米価騰貴せざれば国の経済立ち難し
18861016養蚕は国権の根本たる可し×
18861023共同相場会所設立の噂あり×福沢推定
18861025相場所の改革は君子の改革たらんことを祈る×
18861101日本郵船会社の始末を如何せん(二日まで計二回)
18861103相場所の陋風は一掃す可し商売社会の安寧は重んぜざる可らず×福沢推定
18861104相場所の改革は機密を要す×
18861220日本の商売工業をして自然の行路を進ましむべし×
18861227養蚕製糸の業×
18861230商業主義×
18870216社会改良は殖産興業と伴うを要す×
18870304北海道大商社の設立×
18870316工芸商業の学問漸く将さに流行を成さんとす×
18870331商工社会の維新×
18870429ブールス果して行われて旧相場所の処分は如何×
18870512養蚕論(一四日まで計三回)×
18870521九州鉄道会社に質す×福沢推定
18870611新会社発起人諸氏に告ぐ×
18870704実業教育の第一着×
18870714教育の経済(一六日まで計三回)福沢推定
18870718軍政上の改良は先ず其経済法よりす可し×
18871112新養蚕地の資本家に望む×
18871116商業教育の法如何×
18871128日本鉄道会社の工事×
18871205経済小言(六日、八日、九日計四回)福沢推定
18880309生命保全会社創立小林梅四郎×小林梅四郎署名記事
18880316会社創立の発起人×
18880323米国の養蚕業奨励法×
18880426日本の工商業家に告ぐ(二七日まで計二回)英国高橋達×高橋達署名記事
18880508教育の経済(一〇日計二回)シモンズ原文翻訳×シモンズ署名記事
18880613今の経済社会の有様は変態にあらざるか×
18881005相場所営業の延期福沢草稿残存
18890118巴奈馬運河会社岩本述太郎×岩本述太郎署名記事
18890328実業社会(二九日まで計二回)×
18890702養蚕家の注意(三日まで計二回)×
18890911実業家の利害は如何
18890912実業の利害最も大切なり×
18890919工業社会の名誉×福沢推定
18890920鉱業投機の成行〔英国倫敦経済雑誌抄訳〕×
18891012日秘鉱山会社
18891014日本商工家諸氏に告ぐ(一五日、一六日、一八日、一九日計五回)×
18891218工業家油断す可らず×
18891224商工社会に藩閥を作る可らず×
18900113〔実業商売と学問〕
18900122相場所の所望
18900129学理と実業と密着するの機会あり×
18900205東洋商業上の軽重×
18900305実業家の学術思想福沢修業32(注5)
18900428商業家の眼界×
18900510国会議員に商業思想あらんことを要す×
18900512商業上の焦点、白耳義の事例×
18900513商業上の国是、英吉利の事例×福沢推定
18900606横浜に生糸相場所を設立す可し(七日まで計二回)×
18900620日秘鉱業会社の失敗×
18900808商業会議所論 一(九日二、一二日三)×
18900818政治家と実業家(一九日まで計二回)×
18900826東京商工会の議題×
18900827尚商立国論(九月一日まで計五回、三一日掲載なし)福沢草稿残存
18900827尚商立国論(九月一日まで計五回、三一日掲載なし)福沢草稿残存
18900911相場所営業の延期年鑑 16(注6)福沢草稿残存
18900913商業会議所条例発布したり×
18900926東京商業会議所発起会×
18901023日本工業の危急×
18901024工業上の便利を与う可し×
18901104仏教銀行に就き一言×
18901113製糖会社株式の売買×
18910121日本鉄道会社命約改正の建議
18910122日本郵船会社達書更正の建議(二三日まで計二回)
18910131生糸相場所×
18910306郵船会社に関する議会の質問×
18910411尚商時代×福沢推定
18910517東京商業会議所×
18910613正金銀行記×
18910619諸会社の注意を促す×
18910705銀行会社に関する風説
18910714日本製茶会社補助金の返付×
18910826商業会議所の諮問に就て×
18910922公債証書と銀行預金と損得如何事典(注7)福沢草稿残存
18910926軍事経済×
18911021私立銀行始末(二二日までまで計二回)福沢草稿残存
18920329炭礦鉄道会社々長×
18920406実業社会と後進生×
18920416政治と実業者×
18920419山陽鉄道会社(二〇日まで計二回)
18920428現相場会所に望む×
18920512銀行
18920726日秘鉱業会社事件
18921019実業学校×
18921115明治二十五年十一月五日慶応義塾商業俱楽部の演説筆記(一六日まで計二回)福沢諭吉演説福沢演説
18921201商業上の代理者に就て×
18921228日本銀行×
18930211富豪と相場×
18930328冒険と実業×
18930330実業論(四月一五日まで計一五回、四月三日、一〇日休刊)福沢草稿残存
18930603実業と政治×
18930610濠洲に於る銀行の破産紐育
Nation
翻訳
×
18930617相場所の利用
18930628実業家は自衛の謀を為す可し×
18930718シャーマン法と為替相場×
18930819農民喜ばず実業家苦しむ
18930914第十五国立銀行×
18931005会社株式の投機売買×
18931015鉄道会社の倹約は遂に危険なきを保証す可らず×
18940208鋳鉄会社の善後法×
18940408実業界に人なし×
18940420日本銀行の金を売る可し
18940502養蚕の前途危むに足らず×
18940526養蚕の奨励
18940622国立銀行福沢草稿残存
18940707郵船会社と孟買航路×
18941007商工社会の警戒
18941009経済の安不安如何
18941017経済の無事を維持して果して無事なるを得るや否や
18941018経済上の危険
18950116商界独立の主義を論じて国立銀行の事に及ぶ
18950126紙幣の氾濫は工業に影響すること大なり
18950219日本銀行論(二二日まで計四回)福沢推定
18950502台湾殖民会社を設立す可し×
18950727日本銀行
18950728戦後の経済
18950813気候と殖産
18951006商業家の熟考を望む×
18951013上海紡績会社×
18951106日本鋳鉄会社の末路
18960222工業の前途
18960312農工銀行及び勧業銀行×
18960317日本銀行課税小川原著(注8)福沢草稿残存
18960404軍事公債の不始末と日本銀行×
18960418軍備と実業
18960724会社の重役×
18960728会社の風紀×
18960825日本銀行所有の黄金×
18961010鉄道会社の大小×
18970115銀行家と起業家と自から区別す可し
18970326船舶検査と郵船会社の掃除×
18970414郵船会社の改革×
18970612実業社会の風紀×
18970618日本銀行の個人取引×
18970810電灯会社の反省を望む×
18970826勧業銀行の営業×
18970827幣制改革と産銀地の経済×
18970903工業発達の原因×
18971015日本銀行の独立×
18971114実業家の軍備縮少運動に就て
18971209郵船会社の臨時総会に就て×
18971210経済社会の危機×
18971211実業家の運動に就て×
18971217郵船会社重役の責任×
18980123納税力の余裕
18980211日本銀行の金利引上げに就て×
18980212中央銀行の金利に就て×
18980219工業の前途×
18980220経済社会は自然に放任す可し×
18980225商工立国の外に道なし
18980303日本鉄道会社×
18980309日本鉄道会社の改革を望む×
18980325日本銀行の銀貨準備×
18980327人民銀行を設立す可し×
18980513財政の方針と経済社会×
18980514朝鮮に銀行を設立す可し×
18980609経済社会前途の困難×
18980623商工業者は政党に人る可らず×
18980701経済財政の方針×
18980703日本銀行の公債買入れに就て×
18980712銀行預金の増減×
18980723小銀行の合併を望む×
18980726会社重役の行状×
18980927市街宅地の増税は商工業いじめなり×

以上197編260日分を興業論関連社説群と呼ぶわけであるが、繰り返すが、この一覧は業を興すという語義的な意味での興業論を集めたものではなく、単に題名に13語彙を含んでいる社説の集合体というにすぎない。197編260日分は福沢健全期全5338号のうち4.9%程度である。ちなみにその内訳は銀行37編46日分・会社45編57日分・商工11編17日分・工業14編14日分・授産1編1日分・養蚕10編16日分・殖産3編3日分・相場18編18日分・興業1編1日分・尚商2編6日分・実業22編38日分・経済18編25日分・商業18編21日分(同一題名中に複数語彙がある社説を含む)であった。興業論関連社説とはいいながら、実際に題名に興業が含まれているのは「社会改良は殖産興業と伴うを要す」(18870216)1編のみである。

全体の論調については第5節で述べることにして、ここで全集採録の傾向性について気づいたことをあげるならば、海軍論・陸軍論・移民論とは異なり、1895年以前の掲載が多いのに対し、96年以降の掲載分がほとんどないということである。『福翁自伝』(1899)の、新聞からはだんだん遠くなって、という記述と一致しているようでもあり、採録の信憑性の高さを物語っているのかもしれない。

4. 興業論関連全集非収録社説の紹介

第2節にも書いたように、興業論関連社説については、『民間経済録』・『通貨論』・『民情一新』の3著作の内容と社説の主張との乖離が少ないばかりか、福沢作とはっきり分かっているものとそうでないものとの差もほとんどない。さらに時期による変化も指摘しにくく、他の主題に比べて時期区分も困難である。とはいえ文体と語彙の観点から福沢作とおぼしき社説は抽出が可能なので、その中から3編を紹介したい。

先ず第1は「大に鉄道を布設するも商業顚滅の来る気遣いなし」(18840303)である。『民間経済録』二編第4章「運輸交通の事」と『民情一新』の内容と密接に関わる内容で、「然りと謂も」「三五」「譬へば」「懶惰」の福沢語彙(注9)4語を含んでいるので福沢自身の執筆と判断した。以下で全文を掲げる。

「大に鉄道を布設するも商業顚滅の来る気遣いなし」18840303

鉄道は人間の福利を増進するの最大要具にして、一國の文明富實を知らんとするには、國内に現存する鉄道の里數を計へ、以て其高卑多少を判定するの通法なり。目下我日本に於ても疾く既に鉄道の効用を了知し、全國所在其興業を企て、又其工事に着手して漸く進歩の色あるは、我輩が欣喜措く能はざる所にして、國家の幸福之に過くるものなしと信ずる所なり。此際唯僅かに我輩の意に満たざる者は、斯る必要具にありながら、日本人が之を求むるの応、未だ十分に深切ならず。一年にして竣功し得べき工事も、其成を十年の後に期し、今日に着手して可なる線路も、來る幾年の後を待て、始めて其工事に掛らんと欲し、緩々慢々獨り自から樂みて、老の將に至らんとするを知らず。世界の風潮は駁々疾走して晝夜を舎てず。日本人の懶惰不活溌に遠慮して、故らに其歩を徐々する者ならずとの事を知らざるが如き有様あるの一事なり。故に我輩は日本人の幸福を祈望するの一人たる權理を以て、幾度か此紙上に鉄道論を記載して大方の貴覧に供したるも、亦唯彼の懶惰者の眠を驚かして、他日噬臍の悔なからしめんとするの微意のみ。

我輩が日本の鉄道布設を急ぎ、又其及ぶ所を廣大にせんとするの説を聞き、これを不可とするの論者ありて、曰く目下日本の福利を増進せんとするには鉄道布設の右に出るものなしとは時事新報記者の論の通にして、我等と雖とも飽くまでこれに同意賛成する所なり。然りと雖とも記者の熟知する如く鉄道を布設するには莫大の資金を要す故に、僅々三五年又は十數年の時を期して全國所在鉄道を布設し、運輸の便に遺憾なからしめんとするには千億万を以て數ふるの金額を使用せざるべからず。而して鉄道布設に使用するの資本を得んとするには、必ず先す他の事業に使用するの資本を滅し之に融通すべき道理なるが故に、鉄道成るの日は即ち各業の資本非常に欠乏するの時にして、全國の事業一も爲すに澁滞せざるものなく、折角の鉄道も其運送すべき物資と旅客とを見出さざることあらん。即ち全國大不景氣商業廃滅の時にして、其惨害測り知るべからず。千八百四十七年(弘化四年)英國にて商業顛滅(コンマルシアルクライシス)の騒動ありしは全く鉄道過設に原因し、國内流通資本の大部分を取りて一時に鉄道事業に沈めたるがために、忽ち金融の閉塞を來たし、以て商業社會に破産の惨害を散布したるなり。今我日本の鑑遠からず前年の英國に在り。鐵道布設は宜しく漸を以て進むべし、決して急にす可らざるなりと我輩は此説に荅ふるの前に、千八百四十七年の商業顛滅の次第を略記し、読者諸君が自ら英國史の記臆を喚ぶの勞を省くべし。

世界に始めて鐵道の興りたるは、千八百三十年(天保元年)英國「リヴァプール」と「マンチエスタル」との間を聯絡したるものを以て第一とす。是より以前鐵道の工風裡々ありしと雖とも、僅かに鑛山の用を爲すに過ぎざる位のものにして、旅客貨物等を運送するの用に供するに至らざりし「リヴァプール」「マンチエスタル」の鐵道、一旦成就するに至りて全英國の人民皆其公益の大なるに驚き、上下爭ひて新線路の布設に從事し、漸く進むに從て、益其利の大なるを悟り、千八百四十六年の頃に至りては、全國の人民鐵道に狂癲するの有様と爲りたり。即ち千八百二十七年より同四十三年迄十七年の間に、英國諸鉄道會社にて株金又は社債を募集するに政府の許可を得たる金額、無慮三億九千五百万圓、其翌同四十四年新に又募集の許可を得たるもの七千五百万圓、合計四億七千万圓なり(是は募集許可の金額にて實際拂入れの金額は未詳)。然るに同四十五年には全國諸鐵道會社の實際拂入れ金額總計四億四千二百万圓と爲り、其翌同四十六年には増して六億三千一百万圓と爲り、又其翌同四十七年には更に増して八億三千六百萬圓の巨額に達したり。當時諸鐵道會社の株券の價の騰貴したる實に法外の事にして、全く狂人の沙汰と評するより外なし。一二例を擧れば「リード」「ソルスク」間の鐵道株券は一株額面二百五十圓実際拂込額十二圓五十銭なるもの、千八百四十五年三月には十七圓五十錢にて賣買し、同年九月には百十八圓七十五錢にて賣買したり。「ボルトン」「ウイガン」及び「リヴァプール」間の鐵道株券は一株額面二百圓拂込済二十圓なるもの、同年一月には二十二圓五十錢にて賣買し九月には二百十三圓七十五錢にて賣買したり。又大西鐵道會社の株券は同年一月に一株七百八十圓にて取引せし者九月には千百四十圓にて取引し、中央鐵道會社の株券は同年一月に一株五百七十圓にて取引せしもの、九月には九百四十圓にて取引したり。斯る狂乱なる市塲の有様の永く持續すべき筈なく、追々諸株券跡金拂込の辨護となれとも、其金を得るの道なく、金融逼迫、信用閉塞、株券貸物頓に下落して遂に商業顛滅の實を成したるなり。然れとも當時英國政府調査委員の報告に依れば、千八百四十七年の商業顛滅の大原因は其前年の饑饉に在り。これに次ぐ他の原因は綿花の不作と鐵道の過設と商業社會信用の過度なりしとに在り、と云へり。

今我輩が論者の詰難に答ふるの前に、先づ千八百四十七年英國の商業顛滅は其原因果して何れに在るかを論究すること議論の順序なれとも、兎角我輩はこれに一歩を譲り、其原因全く鐵道過設に在りて他に其咎を歸すべきものなし、と仮定すべし。然れとも論者が此英國の例を以て今日我日本の鐵道論に適用せんとするは、雙方の國柄と時と塲合とを知らざるの空論たるを免かれず、と答ふるの外なかるべし。英國は世界の金穴なり、金源なり。古來金の英國より流出して他國を潤すの例はあれとも、他國より英國に流れ入りて其不足を補ふの例なし。これを譬ふるに、蜜柑の紀州に於ける、酒の灘伊丹に於けるが如く、酒蜜柑共に各其産地の需要を供給したるの剰餘は、溢れて他方に出づべしと雖とも、一旦の變に際し紀州又は灘伊丹にて例年の輸出を止むるの外、尚ほ更に多額の酒蜜柑を要することありとするも、日本國中其需用に應するの方法なかるべきなり。故に英國に於て鐵道を過設し、他の農商工業に使用すべき資本にまで溢食したりとせんか、彼の紀州灘伊丹人が土地の産物を飲食し盡くし、尚ほ飽き足らずして渇を訴ふるの類にて、到底其救助を他の地方に求むべからず。唯黙して其無謀の咎に任するの外工風なからんのみ。況んや千八百四十七年は今を距る三十五年前の未開世界、萬國の金融も今日の如く自由なるにあらず。英國の理財は英國内に辨するの外に方案を得ざりし折柄なれば、卒然商業の顛滅に遇ひて之を救治するの策に乏しかりしは一概に其理なし、と云ふべからざるなり。

今や幸に我日本は然らず。興業資金の本源國ならずして他の剰餘の資金を借り來り、以て大に内の富源を深くせんと欲する末流の寒國なり。今日國内に存立する所の各業の資本金を剥奪して新に鐵道の資本を集めんとするにあらずして、從來の資本は從來の儘に今日以後にも保存し、鐵道布設の爲めには廉利の資本を外國より輸入し來り、以て我不足を補はんとするなり。これを譬へば自國の橙樹に自家所用に供給すべき丈けの橙實ありて不自由を覚えざりしを、卒然數名の來客ありたるが爲めこれに樹園の橙實を分配せば家人の供給を減少すべき筈なれとも、左はせずして來客の爲めに要する丈けの新需用は紀州の輸入品を以てこれに應じ、家人をして前後供給の過不足を感覚せしめざるものに異ならず。斯の如くしても尚ほ家内に渇て訴ふるの人あるべし。日本國内の金融逼迫して千八百四十七年英國の商業顛滅の二舞を爲すべしと云ふは、我輩其理由の何邊に存するかを審かにせず。一言これを空想空論の甚しきものなりと斷定する所以なり。我輩は論者に忠告す、今日我日本の鐵道を布設するに當り外國の資本を輸入して其需用に應ずるに於ては、全國の事業に資本欠乏の憂を見るべき理なし。英國歴史の古は以て今の日本に適用するに足らず。斷然汝の心身を蓋して、鐵道布設の事に從ひ、時に狐疑躊躇する所なくして可なりと。(句読点平山)

本社説で指摘されている英国における1847年の不況の分析は大変興味深い。見られるように『時事新報』は創刊以来鉄道線路の敷設を提唱してきたが、その開発がかえって商業の発展を阻害するという懸念があったのである。不況が起きた理由は敷設の費用を英国内の資本に求めたせいだが、本社説によれば、外資を導入することでその危険を軽減させることができるというのである。

第2は「相塲の陋風は一掃す可し商賣社會の安寧は重んぜざる可らず」(18861103)であるが、旧態依然たる相場所の近代化を求める社説である。「冀望」「頴敏」「成跡」「鄙見」「竊に」の5語彙を検出できたので福沢直筆の社説と判定する。その全文は以下の通り。

「相塲の陋風は一掃す可し商賣社會の安寧は重んぜざる可らず」(18861103)

人間世界の治亂とは唯兵馬戰爭の有無を云ふのみにあらず。治世の人事に治まるもあり又亂るゝもあり。例へば、内乱に治亂あり、外交に治亂あり、學問教育に治亂あり、宗旨道徳に治亂あり、一般の商賣に治亂あり、人々の家道に治亂あり。然り而して一國の政府たる者は時として或は大波瀾を起すことなきに非ずと雖ども、其波瀾は治を求る爲めの運動にして、結局政府の目的は社會の治を助成して亂を防ぐに在り、と云て可ならん。即ち社會の秩序安寧を重んずるとは此事なり。左ればにや我日本政府に於ても此邊の注意は頗る周密丁寧にして、兵亂の豫防は勿論、内治に外交に安寧一偏の主義にして、内國の人民を視ること火の如く、常に其燃るなからんを欲し、外國の人を待つこと水の如く、常に其汎濫せざらんことを祈り、法律の正明確實なるのみならず、臨時の智略政策も至り盡さゞる所のものなきが如し。彼の警察法の如きは直に人民に接して社會の秩序を維持し、人々の身体財産を保護するの本分にして、之が爲に國財を費すことも少なからず。隨て其法の能く行屆きたるは、殆んど諸外國にも此類稀なるほどの有樣にして、此點より視れば我輩も日本國人として竊に誇る所なり。

以上は今日我政府の針路にして、其秩序安寧を重んずるに頴敏なるは疑ふ可きにあらず。些細なる事件に至るまでも間接に直接に其變亂を豫防せんとするの注意は、若々事跡に就て見る可きもの甚だ多し。然るに近来東京の商賣社會に圖らざる大變亂を生じたるこそ不幸なれ。此變亂は過日我時事新報にも大略を記したる如く(十月二十三日二十五日時事新報)今度東京に共同相塲會所なるものゝ新設ある可し、との風聞天外より吹來りて始めて端を發きしものにして、舊相塲所(株式取引所並に米商會所)の株主等は之に狼狽して自家の廢滅を恐れ、俄に所有の株式を賣出さんとすれば、其價格を落し又狼狽して之を買戻せば又高値に上り、其際には百方より樣々の軍士の現はれ出でゝ商略の秘術を振ふも、亦相塲所の常にして一勝一敗禍福瞬間に變化し、哀しむ者あり、喜ぶ者あり、泣く者あり、笑ふ者あり、甚だしきは妻子を捨てゝ欠落する者もあらん、發狂して斃るゝ者もあらん。凡ろこの二週日以來相塲所の天地は殆んど頓覆の有樣にして、日の勝負は何十萬圓の巨額に達し、幾十百人の間に容易ならざる禍福を與奪して、詰る處今日までの成跡を見れば、十數日前に株式取引所と米商會所との株式合して、三千株その價格の合計凡そ百二三十萬圓なりしものが、昨今の處にては凡ろ八九十萬圓に減少し、其減少する間に幾回か人の手に出入して、一出一入毎に其主人を泣かしめ、又笑はしめ、今後も亦同樣にして際限もなく商人社會を惱殺することならん。實に以て近年稀有の大變亂なりと雖ども、其原因を尋れば明々白々にして、唯共同相塲會所設立の風聞に吹倒されたるものより外ならず、風聞も亦恐る可きものと云ふ可し。抑も從前の相塲所は其政府に對する關係も餘り錯雜に過ぎて、官民双方の爲めに便利ならず。所の内部は素町人の巣窟にして、商賣上の氣義に乏しく、時としては醜に堪へざるほどの弊害も見ゆることもあるよし。速に之を一掃して正に反らしめんとするは、固より我輩の宿諭なれば、共同相塲會所の新設も甚だ妙なり。其新會所がいよいよ君子の會所にして、反正の目的を達することならば、一も二もなく之を賛成す可きなれども、我輩が從前の相塲所を一掃せんと發言したるは、唯その所の陋風弊害を除き去るの意味にして、其弊害と共に其資産をも一掃し去らんと言ふに非ず。相塲所の規則完全ならず、此に出入する商人等の人物宜しからずと云も、是れは規則と人物との罪にして、株主の株式には罪ある可らず。人に罪あるも錢に罪なし。然るに今其規則を非とし、其人を惡むが爲めに併せて其資産をも無に歸せしめんとするが如きは、社會の秩序安寧を重んずる長者の爲めに謀て取らざる所なり。盖し社會の秩序安寧とは唯政治上のみに在らず。商賣上の安寧も政事に比して輕重あらざればなり。明治十六年の統計表を見るに、一箇年間全國にて人に盗まれたる金高七十一萬六千餘圓とあり。之を三百六十日に割れば全國一日の盗難二千圓に過ぎず。或は全國博奕の勝敗を統計しても、其金高は一日に平均して僅々たる者ならん。今盗賊博徒の心術如何を問はずして單に其金圓の得失のみを見れば、盗難博奕に由て謂れなく人に金を取られ、又謂れなく人の金を取る其趣は、相塲所の株式が漫に騰貴して其株主等が漫に金を得失するものに異ならず。相塲乱高下の禍も亦大なりと云ふ可し。然るに全國の警察は此盗難と博奕とを豫防せんとて、非常に盡力する其の最中に、目下東京の中央には世上の風聞を聞いて、日に幾萬圓の得失する者あり。實に法外千萬なる次第なれども、世間に之を怪しむ者さへなきは、我輩の遺憾とする所なり。固より相塲所の事は常に風聞に由りて動搖する者にて、或は朝鮮の事件と聞き、或は支那の云々と傳へ、一報の電信以て大勝負を決するが如き、毎度動搖の事例あるも、是れは人力を以て左右す可らざる風聞なれば、人々の覺悟に任ずるの外なしと雖ども、今度相塲所の動搖は其原因たる風聞の性質分明なるが故に、苟も政府の筋に於て商賣社會の秩序安寧を重んずるの深意あらば、一度び其風聞の源を斷て鎮静の處分あらんこと、我輩は深く冀望する所なり。次に鄙見を記して數を乞はんとす。(句読点平山)

本社説は幕政時代以来の旧相場所が、近代的な証券取引所へと移行するにあたって起きた混乱を早急に政府が鎮めることを求めたものであり、文末には翌日掲載の「相場所の改革は機密を要す」(18861104)が予告されている。こちらは語彙の点から福沢作とは断定できないのだが、おそらく福沢本人の執筆だったのだろう。

第3は「尚商時代」(18910411)である。「冀望」「在昔」「鄙見」の3語彙の存在により福沢の執筆と判定した。幕政時代しきりにもてはやされた尚武の気風をもじって明治の現在は尚商の時代だというのが福沢の持論で、最初にその言葉が題名に使われたのは前年の「尚商立国論」(18900827)であった。本社説はその要約ともいうべき論説で、とくに目新しい見解があるわけではない。全集編纂者の石河幹明も本社説が福沢作であると気づいたはずだが、8ヶ月前の連載社説と同内容のものを全集に採録する必要を認めなかったのであろう。とはいえ福沢直筆というのは間違いないので、以下で全文を紹介する。

「尚商時代」18910411

日本は古來農を以て國を立て、國家生存の資力は一に之を農に収めたるのみならず、封建戰國の習として、兵粮の準備は最も必要なりしが、故に政道の筆法は農を尚ぶこと决して等閑ならず。例へば田地を潰して家屋を建設し、又は森林となすが如きことあれば、其制裁は頗ぶる嚴重なりしに引換へ、荒地を拓き荊棘を耘りて米田となすに於ては、假令へ公けの認可を得ずと雖も、之を寛大に看過して唯農民の營利に任せ、地目變換を云々し、鍬下年限を規律するが如き、其大法を設るのみにして、曾て面倒なることなく、恰も人民の自由に任せて、暗に奬勵誘掖するは、各藩寧ね然らざるはなし。左れば之を保庇するの法も自ら偏重にして、地方によりては特別の權利を與へて愛護するもの珍しからず。當時田畑の近傍に柱を立て制札を掲げたる其文に「作物あらし候者は此柱に縛り付置可訴出、若し手むかひ致し候はゞ打殺候ても不苦候」と云へる如き、往々見る所にして、農安を重んずるの精神想ひ見るべし。政道にして此の如くなれば、與論も亦自ら農を尚び、儒者の敎にも、農は本なり商は末なり、本を務めて末に走ること勿れ、抔と云ふは動かす可らざるの定則にして、殊に武士も浪人となりては、身を農に投する者少なからざるより、其人を貴ぶと共に其業を貴び、社會一般尚農の主義なりしかば、文字にも士農工商と綴りて、農は士に次て重きを成し、他の商工業者の同列すべきに非ざりしなり。必竟鎖國の上に武斷の世の中なりしことなれば、時勢相應の必要に出でたるものにして、實に左もこそある可きなれども、今や國情は封鎖にあらず、政道は武斷にあらず、萬國と交通貿易して富強を爭ふの時勢なれば、國務自から多端にして其繁劇に處して、永遠萬歳の基礎を定めんと欲するには一々金を要すことのみにして、政府の費用は决して今日の儘にして止む可らず。八千萬圓の歳入を以て之を諸外國の財政に比較するときは實に赤面の至りのみか、斯る少額を以て列國の競爭塲裡に馳聘し、人後に落ちざらんと欲するは、抑も至難の事にして、國民たる者は宜しく衣を脱いで租税の負擔を甘んぜざる可らざる所なれども、農民に向て今より以上の税額は之を求めて得可らず、否寧ろ地租率を低減せんとするの議論さへ世間に行はれて有力なれば、自今立國の計は唯商を顧るの外なくして、歳入の泉源は唯商利の供給を俟つべきのみ。即ち政府が從來商農主義の政道を一轉して、尚商に改むるの止む可らざる所以なれども、此事たるや獨り政道の掛引のみに非ず。經濟の學理より觀察しても農事と云ひ、工業と云ひ、將來猶ほ多少の改良進歩あるべきにもせよ、國運の命脈を托するに足らざるは勿論にして、且又古來尚農主義の因縁により、國内耕地の割合に農民の數多きに過ぎ、其勞働に報酬の薄きは多年の事實なれば、今若し商賣の道を開通して之を振起するの曉に至らば、恰も轉業の便宜を與ふるものにして、一は以て農民の過多なるを減じ、一は以て其産出の販路を便にし、一擧して兩樣の効益を見るべし。何れの點よりするも、商賣の發達伸張は、日本國の國是と定め、以て列國と競爭を共にすべきものにして、政道も與論も茲に一新せざる可らず。其これを成すの實手段に付ては、聊か鄙見なきに非ざれども、先づ第一に商賣社會の品位を高くするこそ急要なれば、曾て封建の世に浪人の武士が農業に就き、人によりて業を重くしたるの事例を擴張して、今の政界に推尊せらるゝ人々の如き、續々心事を飜へして、商賣に從事する等は、蓋し最も有効の一策なるべし。其他政府が商安を保護すること、猶ほ在昔農安を保護したる精神に從ひ、恰も商賣に偏重して着々發達の歩を進め、爰に新に尚商時代の面目を開かんこと、國家生存の爲め我輩の切に冀望する所なり。(句読点平山)

見られるように『学問のすすめ』初編(1872)を彷彿とさせる名文ではあるのだが、要するにこれからの時代にはかつての武士階層すなわち士族も商売に携わるべきだ、という従来からの意見が開陳されているだけで、目新しい部分はない。書き方には違いがあるにせよ、この主張は9年前の創刊当初からあるわけで、陸軍論・海軍論・移民論などの他の主題とは異なり、こと興業論については論旨の展開による時期区分がし難い、というのはこうしたところにも現れているのである。

5. 興業論関連社説の概観

経済政策との関係からいえば、福沢健全期は、松方財政(1881年開始)・銀本位制の導入(1885年)・日清戦争での戦時国債の発行(1894年)・賠償金を原資とする金本位制の導入(1897年)とほぼ重なっている。松方財政の余波で、日清開戦前までの国内経済はおおむね低調であったが、農村の窮乏は農民の都市への流出を招いたことにより、新たに労働者階層が形成されることになる。自由民権運動はこうした経済状況を背景として盛り上がりを見せたが、『時事新報』は自由党系の政治運動にほとんど関心を寄せていない。

政府の経済政策が興業論関連社説の論調に影響を与えているのではないかと一覧を見直したが、明確な連関性は見出しがたい。とはいえ13語彙を表題に含む社説の掲載が数か月間途絶える時期が数回あり、その前後で論調に変化が見られるようでもある。そうした断絶期に着目するなら興業論関連社説群は次の5期に区分される。

  • 第Ⅰ期「松方財政期」―「国立銀行の準備金」(18820422)~「成学即身実業の説学生諸氏に告ぐ」(18860218)・26編45日分
  • 第Ⅱ期「銀本位制導入期」―「相場所の一新を望む」(18860712)~「実業社会」(18890328)・38編48日分
  • 第Ⅲ期「産業資本形成期」―「養蚕家の注意」(18890702)~「鉄道会社の倹約は遂に危険なきを保証す可らず」(18931015)・68編99日分
  • 第Ⅳ期「日清戦争前後期」―「鋳鉄会社の善後法」(18940208)~「鉄道会社の大小」(18961010)・30編33日分
  • 第Ⅴ期「金本位制導入期」―「銀行家と起業家と自から区別す可し」(18970115)~「市街宅地の増税は商工業いじめなり」(18980927)・35編35日分

経済政策に基づく区分が4期であるのに対し社説が5期区分になっているのは、1889年の立憲体制の確立を境として銀本位制導入期が前後に分かたれ、その後期を第Ⅲ期「産業資本育成期」としたことによる。

これら5期の区分は、明確な論調の変化に基づいたものではない。各期相互の論調の差は、他の主題における時期区分間の差に比べ小さいのである。また、編集方針の変換は主筆や総編集の交代等で起こりがちであるが、中上川主筆の山陽鉄道への転籍は1887年4月であり、また、福沢が事実上の主筆となり統括を伊藤欣亮総編集に任せていたのはその後1892年頃まで、その後1895年一杯は伊藤と社説記者たちの共同運営となり、1896年夏の福沢捨次郎社長就任により彼の庇護者だった石河幹明の発言力が強まったという経緯から見ても、実業論関連社説群の時期区分とは微妙にずれている。とはいえ大雑把には第Ⅲ期までは福沢の影響力が大であったとまでは言えるであろう。

第Ⅰ期「松方財政期」の初年、創刊直後の1882年から83年までの興業論関連社説は、1872年に制度が開始された国立銀行の業態の変革と、準備されつつあった中央銀行すなわち日本銀行に関する社説が多い。

国立銀行は、1871年の廃藩置県によって藩札の発行が停止されたことを受けて翌年の国立銀行条例に基づいて設立された民間の金融機関である。金貨との兌換義務をもつ兌換紙幣の発行権をもっていたが、現在でいう自己資本比率が高く設定されたことにより、設置は進まなかった。1876年には金禄公債をも原資とすることと不換紙幣の発行が認めらられたことにより設置の要件は大幅に緩和され、その結果1879年までに153行が設立された。

国立銀行などというたいそうな名前をもたされたとはいえ、実態は数年前まで各藩で藩札を発行していた両替商人に過ぎなかったから、融資の方法も確立していなかった。そうした中で発表されたのが「国立銀行の準備金」(18820422)で、その厳格な運用は銀行の信用を高め、またかつての大隈財政によるインフレーションの収拾にも効果的であると主張している。

1876年に完全な民間銀行となった国立銀行は依然として紙幣発行権を有していたが、そのままでは政府による金融の統制がきかなくなる恐れがあった。そのため構想されたのが中央銀行の設立で、紙幣発行権限を中央銀行のみに制限しようというのである。5月と6月に2編の中央銀行設立に関する社説が掲載されたのち「日本銀行条例」(18820629)が4回連載されている。

天外迂史筆の「国立銀行の貸付法を論す」(18830312)は経営不振のため前年に2行の閉店を見た国立銀行について、経営健全のためには整理もやむを得ないという内容の社説である。執筆者は中上川と推定できるが、本社説のみ筆名が付されている理由は、内容が必ずしも『時事新報』の公的見解と同一ではないためであろう。創刊当初の銀行論は「国立銀行条例の改正加除」(18830507)をもっていったん終わり、次の銀行論は7年半後の「仏教銀行に就き一言」(18901104)となっている。

銀行についての一連の社説の掲載が止むと、興業論の中心は輸出産業として有望な養蚕業の拡大と、流通のために必須な鉄道網の整備さらには日本郵船会社による海運業の振興へと移る。産業育成が十分ではない段階なので当然に資金難が問題となるわけだが、「外国人に公債証書を所持せしめて安心ならば会社の株券を所持せしめても安心ならん」(18840419)という長大な題名の社説に代表されるように、外債や外資を募集すれば乗り切れるというのが『時事新報』の見解である。第Ⅰ期掉尾の「殖産の機転を促がす」(18860206)にも、金詰まりで資本の流出を見過ごすより外資の導入で国内経済の活性化を促すほうが得策である、とある。

第Ⅱ期「銀本位制導入期」では松方財政の結果インフレが終息して銀本位制へと移行し、さらに金融制度も整ったことにより、相場所の近代化へと話題が移されている。現代ならさしずめ証券取引所の改革ということになるが、当時は現物取引の場が商品ごとに設置されていて、とりわけ養蚕業の取引所の整備が求められていたのである。第Ⅱ期を通じ養蚕業の振興が非常に重要視されていて、『時事新報』がいかに絹製品を重要な輸出産品とみなしていたかが分かる。それ以外では「生命保険会社創立」(18880309)が目立っていて、保険会社の整備もこの時期になってやっと本格化したことが確認できる。

第Ⅲ期「産業資本形成期」は「養蚕家の注意」(18890702)に始まるが、主題は養蚕のみに偏ることはなく、題名に13語彙を含む興業論関連社説がまんべんなくちりばめられている。確かに未だ資金は不足している、しかし資本家や起業家を自由に活動させるための道具はそろったのだから、あとは彼らの意欲に任せればよい、新聞紙面はそう読者に訴えかけているようである。この時期の重要な社説は、15回もの連載後単行本化された「実業論」(18930330)で、福沢が強く紙面に関与してきた創刊以来10年の興業論関連社説の集大成となっている。そこで彼は、前の時代までの古い商人とは違う、きちんとした教育を受けた新商の出現に期待し、わが国の実業が進むべき具体的方向を、製造業の振興を基調とする外国貿易の推進という形で提示するのである。

第Ⅳ期「日清戦争前後期」は第Ⅲ期終結後3か月の中断を経て「鋳鉄会社の善後法」(18940208)に始まるが、実際の開戦までは第Ⅲ期とほとんど同じ調子なのは、『時事新報』が日清戦争を予見していなかったからであろう。7月の清国との開戦は興業論関連社説にも影響を及ぼしている。軍事関連の需要増大で経済界にも一挙に発注が増え、また戦時国債の起債によって潤沢に資金が回るようになって景気は拡大し、さらにその結果としてインフレが発生したのである。

戦時経済に由来する興業論関連社説は多く全集に収録されている。戦争が終了すれば当然に戦後不況となるわけだが、清国からの賠償金2億両の入金もあって、立ち遅れていた鉄道敷設や港湾設備の充実などに投資が可能となったため、産業発展の基盤の整備が進められ、さらに、銀本位制から金本位制への移行も図られることになった。

第Ⅴ期「金本位制導入期」sは第Ⅳ期から3か月の中断の後「銀行家と起業家と自から区別す可し」(18970115)に始まるが、第Ⅳ期の後半あたりから、戦争景気のある種の余波の反映なのか、企業経営者の不正を戒める社説が多く掲載されている。「実業社会の風紀」(18970612)はその一つで、主に銀行の重役による横領が批判されている。

また、設立15年を経過した日本銀行について、「日本銀行の個人取引」(18970618)・「日本銀行の独立」(18971015)・「日本銀行の金利引上げに就て」(18980211)・「中央銀行の金利に就て」(18980212)・「日本銀行の銀貨準備」(18980325)・「日本銀行の公債買入れに就て」(18980703)とわずか1年の間に6編もの社説が掲載されている。その骨子は、大蔵大臣の言いなりになっている日銀の独立性を高めて、公定歩合の決定は日銀総裁の管轄とするべきこと、また、公債買い入れはせっかく収束したインフレを再び招くことになるので控えたほうがよい、という内容である。これらは全集非収録となっており、おそらく執筆者は後の経済学者堀江帰一であろうが、120年後の今日にも通じる問題として興味深い。

銀行関連の社説として日本銀行の次に取り上げられているのは勧業銀行である。同行は1897年に農工業の改良のための長期融資を目的に設立された特殊銀行である。第Ⅳ期に属する「農工銀行及び勧業銀行」(18960312)と「勧業銀行の営業」(18970826)がある。長期融資によって産業の育成を図るという当初の目的からして『時事新報』はその設立に賛成かとおもいきや、そうではなく、明確に反対の意見が表明されている。その理由は、融資というのは私人間の綿密な検討の後にはじめて実行させるべきで、ほとんど官営ともいえる勧業銀行がどんぶり勘定で融資をする場合、見込みの甘さから焦げ付きが発生するに違いない、というのである。

以上興業論関連社説を見てきたが、全期間を通じて実業人の心構えとでもいうべき社説の内容にはほとんど変化が見られないのに対して、刻々と整備されつつあった金融や証券取引制度については『民間経済録』と『通貨論』での主張をなぞる形で賛否が示されている。また、鉄道網や港湾設備の建設については『民情一新』の内容を引き継いでいて、外資を導入してでも早急な整備が図られるべきだという主張で一貫している。

6. おわりに

最後に本報告で明らかになったことを項目化する。

  • (1)福沢健全期の『時事新報』での興業論関連社説は197編260日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中の4.9%弱に相当する。
  • (2)興業論関連社説の論調は、『民間経済録』(1877,81)・『通貨論』(1878)・『民情一新』(1879)の内容に相即している。
  • (3)興業論関連社説群を時期区分するのは難しい。どの時期の主張であっても内容に大差がないからである。
  • (4)興業論関連社説群のうち福沢本人の筆によるのは、論者の判定分も含めれば、最低でも22編ある。昭和版『全集』所収分については語彙検索ができないため判定していないのだが38編を数える。福沢はこの問題に関して草稿残存の「日本銀行課税」(18960317)までは確実に関与している。また、全集収録社説としては「商工立国の外に道なし」(18980225)が最後となっている。1896年以降の興業論関連社説の採録はまれなのであるが、それだけに本社説が収録されているのには相応の理由があると考えられる。福沢は健全期を通じて興業論に関して発言を続けたことはまず間違いがない。
  • (5)海軍論・陸軍論・移民論を主題とする社説群ではおおむね1896年を境に立場の変更が見られるが、興業論ではそのような変化はうかがわれない。
  • (6)石河幹明は全集への社説採録に際して、清国論・朝鮮論・海軍論・陸軍論・移民論については、福沢が社説を指導していた1886年から1892年までの社説をほとんど収録していないが、興業論については逆に1896年以降の社説をほとんど採っていない。
  • (7)石河は福沢が社説に強く関与していた時期の清国論・朝鮮論・海軍論・陸軍論・移民論をほとんど全集に採録しなかったかわりに同時期の実業論を多く収録している。結果として時期による採録社説数が平均化されたことにより、読者は違和感を抱きにくくされているのである。

以上。(本文終)

参考文献(著者等50音順)

  • 小川原正道(2012)『福澤諭吉の政治思想』慶応義塾大学出版会
  • 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
  • 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
  • 平山洋(2012)『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』ミネルヴァ書房
  • 平山洋(2017)『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』ミネルヴァ書房
  • 平山洋(2020a)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における朝鮮」『日本近代学研究』第67輯、韓国日本近代学会
  • 平山洋(2020b)「福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説」『キリスト教史学』第74集、キリスト教史学会
  • 平山洋(2020c)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」『日本近代学研究』第70輯、韓国日本近代学会
  • 平山洋(2021a)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における海軍論」『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号、静岡県立大学
  • 平山洋(2021b)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における陸軍論」『日本近代学研究』第72輯、韓国日本近代学会
  • 福沢諭吉(1898)『福沢全集』時事新報社(明治版)〔福沢本人による編纂〕
  • 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書(大正版)〔石河幹明による編纂〕
  • 福沢諭吉(1933,1934)『続福沢全集』岩波書店(昭和版)〔石河幹明による編纂〕
  • 福沢諭吉(1958~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店(現行版)〔富田正文による編纂〕
  • 福沢諭吉協会(1989)『福沢諭吉年鑑』第16巻、同協会

脚注

(1)
『時事新報』が創刊された1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を起こした直後の1898年9月30日までの期間を示す。全部で5338号分である。
(2)
その全タイトルは『福沢諭吉事典』(慶応義塾編・2010)にある。現行版『福沢諭吉全集』(岩波書店刊・1958~1964)にはそのうち約1500編が収録されている。残余はホームページ「平山洋関連」の「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」にある。
(3)
単行本名以下丸カッコ内は刊行年を示す。また、社説に付された8桁の番号は掲載日を示す。これを社説番号と呼ぶ。
(4)
この筆名は『時事新報』で1度しか使われていないが1890年5月21日付『神戸又新日報』に同じ筆名の「神戸選出の国会議員は実業者たるべし」という寄稿があると知った。第1回総選挙関連の記事で、実業者ではない候補を批判する内容で、この実業者ではない候補とは慶應義塾出身の鹿島秀麿のことである。選挙結果はこの鹿島が当選したが、46票差で次点となった候補が山陽鉄道副社長の村野山人であった。この人物は1887年4月に『時事新報』主筆から山陽鉄道社長に転じた中上川彦次郎の片腕だった。そうだとすると天外は村野を推す人物となるので、中上川本人の可能性が高まるのである。『時事新報』主筆だった中上川が筆名で社説を公にした理由は、内容が編集部ではなく個人の見解であったためであろう。
(5)
福沢諭吉著『修業立志編』(1898)の第32編を指す。
(6)
福沢諭吉協会編『福沢諭吉年鑑』第16巻(1989)所収を意味する。
(7)
慶應義塾編『福沢諭吉事典』(2010)の記載に基づく。
(8)
小川原正道著『福沢諭吉の政治思想』(慶應大学出版会刊・2012)の指摘による。
(9)
福沢語彙については平山洋著『福沢諭吉の真実』(文芸春秋刊・2004)、『アジア独立論者福沢諭吉』(ミネルヴァ書房刊・2012)第Ⅱ部「「時事新報」論説の作られ方」等を参照のこと。