福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における交通論
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1. はじめに
福沢諭吉健全期(注1)の『時事新報』における交通論関連社説(注2)抽出することは、陸軍論(注3)や興業論(注4)といった他の主題を扱う場合よりも容易である。要するに交通・鉄道・航路・道路等を題名に含む社説を選択すれば間違いはないといってよい。また、これは興業論関連社説でもそうであったのだが、時期による主張の差を見極めることが難しいこともある。もちろん健全期16年半のうちに着々と鉄道は延伸され、航路は遠方に至り、道路は整備されていったので、社説で扱われている路線・航路が建設・設置される場所は異なってくるわけだが、にもかかわらず多数ある社説の間に、時期を区切るための指標となるような本質的な違いを指摘することはできないのである。
その理由は興業論の場合と同じで、福沢の署名著作である『民情一新』(1879)(注5)と『民間経済録』二編(1881)とにすでに明快な方針が示されていて、新聞創刊後はそれに沿った見解がよどみなく表明されていることによる。
そこで本論文は次の第2節で『時事新報』創刊前の交通論として、『民情一新』と『民間経済録』二編との関連部分を要約する。続く第3節で福沢健全期『時事新報』中の交通論関連社説の一覧を示し、第4節で交通論関連の全集非収録社説を紹介する。さらに第5節・第6節では交通論関連社説の論調の変遷を整理し、最後に本論文で明らかになったことを項目化する。
2.『時事新報』創刊前の交通論
『時事新報』の刊行前にも、福沢には交通論を扱った著書がある。本論文の目的はあくまで『時事新報』社説の分析にあるため多くの紙幅を割くわけにはいかないが、こと交通論に関する限り、『時事新報』社説は、それ以前の署名著作で展開されていた議論の延長線上にある。社説は福沢ばかりでなく社説記者や外部寄稿者など7,8名の人々によって書かれていたのだが、はじめにでも触れたように、同時期に発表された社説相互に矛盾がないばかりか、健全期全体を通覧しても論調に本質的な変化はほとんどない。
こうなった理由として考えられることは、新聞創刊前にすでに公刊されていた『民情一新』(1879)と『民間経済録』二編(1881)の内容が弟子たちに深く浸透していて、新聞刊行後は社会の情勢や政府の方針が書籍の内容と齟齬をきたしつつある時には公論に反対の論陣が張られ、またそれらの内容に沿っている場合には賛成の紙面が構成されていたからのようだ。要するに『時事新報』における交通論の中身は、福沢の署名著作によってあらかじめ定まっていたと言ってよいのである。そこで以下では両著の内容を、交通論と関係する部分を中心に紹介したい。
まず1879年8月に刊行された『民情一新』は、福沢が独自の技術史観を展開した著作である。そこで彼は19世紀の文明を「人間世界を覆したる」ほどに画期的なものとし、その大本は蒸気の力であると捉えた。そのエネルギーに支えられた蒸気船・鉄道・電信・郵便・印刷という19世紀における交通・情報手段の発達が、交通量や情報の伝達量を飛躍的に増進させ、それが人々の間に活発進取の気風を養成し、民情を一新し文明化をもたらしたというのである。
『文明論之概略』(1875)の続編といってよい『民情一新』は、概略が産業革命が本格化する前の19世紀初頭までを扱っていたのに対して、それ以後の約半世紀の西洋文明の移り行きを主題としている。この半世紀の大きな変化が蒸気船・鉄道・電信・郵便・印刷で、それら文明の利器は世界をますます緊密に結びつけさせ、諸地域間の交易の拡大は富の増大をもたらしている。そうして経済の発展は、諸地域内での権威主義的な政治機構に変革を促して、今ある君主制国家はやがては立憲君主制に移行するであろうと予言する。
『民情一新』はあくまで文明論であるので、蒸気船・鉄道といった交通論上の主要な素材も、文明全体にとってどのような意味をもつのかという観点から扱われている。その主要な部分は第三章「蒸気船車、電信、印刷、郵便の四者は千八百年代の発明工夫にして、社会の心情を変動するの利器なり」である。すなわち、「此大発明を以て世界の全面を一変したるは今更喋々の弁を俟たず。電信を以て商用の報知を達し、蒸気船車を以て貨物を運輸するときは、物価も各地に平均して仮令ひ投機の商売にても復た旧套に依頼す可らず」(⑤25頁)(注6)というのである。こうした状況は西洋世界において顕著なのであるが、我が国についてどうかといえば、「我日本にても既に鉄道電信あれども、鉄道は未だ論ずるに足らず」(⑤27頁)という状況にあるので、なによりその敷設の推進が望まれる、としている。
ついで『民間経済録』であるが、1877年12月刊行の初編と1881年8月刊行の二編からなる古典派経済学を基礎とした経済学教科書である。ジョン・ヒル・バートンの政治経済学読本やフランシス・ウェーランドの経済学書などの、いわゆる「俗流古典派経済学」が基礎となっていて、それらを日本人にもよく理解できるように咀嚼している。頭注部分に内容に関する設問が細かく書かれているのは、教科書として理解を助けるための工夫であろう。
その初編では「居家の経済」としてミクロ経済学が、二編では「処世の経済」としてマクロ経済学が説かれている。試みに目次を示すならば、初編は、第1章「物の価の事」・第2章「賃銭の事」・第3章「倹約の事」・第4章「正直の事」・第5章「勉強の事」・第6章「通用貨幣の事」・第7章「物価高下の事」・第8章「金の利足の事」・第9章「政府の事」・第10章「租税の事」、二編は、第1章「財物集散の事」・第2章「保険の事」・第3章「銀行の事」・第4章「運輸交通の事」・第5章「公共の事業の事」・第6章「国財の事」となっていて、これらに軍事と外交の項目を付け加えれば、そのまま『時事新報』の社説分類目録に転用できそうである。
目次からも明らかなように、交通論が扱われているのは『民情一新』の2年後に刊行された二編の第4章「運輸交通の事」である。経済学の教科書内での交通論であるから、交通網の発達がいかに経済上の利益をもたらすかから説き起こされている。
すなわち、山奥にある奇石は運搬に手間がかかるため、都会で売る場合従来なら五円になるが、運搬法を工夫してそのコストを減らせば三円で売ることができる。この場合の値下げ分二円は誰かが損を被ったわけではなく、突然湧き出た利益ということになる。こうした運搬費の節減によって大きな利益を得ている地方として開港以後の奥羽地方があげられる。この地方は木綿の生産には向かないので絹を生産しているのだが、その絹が高値で外国商人によって引き取られるうえ、従来まで高値で購入していた木綿は安価な輸入品が入ることによって差し引き大きな利益となっている。それも横浜港の開港により運搬法の工夫がなされた結果である。
布地については輸出入も関係しているわけだが、米の国内流通においても海運業の発達により米価の平準化という効果があがっている。すなわち運輸交通網が未発達であった時は米価は生産地近くが安くて都会になるほど高くなっていたのを、流通の円滑化によって生産地近郊ではやや高いが都会では安価となる価格に統一されてきたのである。これは東北の農家にとっては増収、都会の消費者にとってはより安く米の飯を食べることができるため双方にとって利益になっている。
ここまでは蒸気船利用の促進による経済的利点であるが、次は陸上輸送の中心となる鉄道事業の説明となる。郵便や電信については迅速に普及したが、敷設に資金や手間がかかる鉄道網についてはなかなか進捗しない。思うに鉄道敷設が急がれる理由は、内陸部からの物資搬出の利便性の他に、主として次の二点がある。
一つ目は国内での迅速な移動が可能となることにより、国内人口の偏在が解消されるということである。細長い日本列島では関東地方以西の人口密度が高く、東北地方や北海道では低い。未開拓の広大な土地がある東北以北にまで鉄道網が広がれば、関東以西からの移住が推進できて人口偏在が解消できる。それと同時に移住先での産業振興により収入の増加も見込めるので、国民全体の生活水準の向上も計られるのである。
二つ目は軍事上の利点である。すなわち全国に鉄道網が敷かれることにより兵員の迅速な移動が可能となれば、国土防衛のための軍隊を全国各地にまんべんなく配備する必要はなく、危機が生じた場所に素早く再配置することが可能となる。これは巡り巡って軍事費節減に役立つので、余った資金を別の方面で使うこともできる。
以上が鉄道敷設の二つの主要な目的であるが、鉄道網を全国に行き渡らせるのには何より資金が必要である。資金ができるまで待てばよいなどという悠長なことは言ってはいられない。最優先事項として国は費用を支出するべきである。黒字化の見込みがある路線に投資すれば、すぐに費用は回収できるはずである、と『民間経済録』二編の段階では鉄道敷設は国費で賄うべきとされているだけで、資金調達や経営どのような方法をとるべきかについての具体的提案としてはやや弱いように感じられる。
以上、福沢本人が『文明論之概略』(1875)でも述べていたように、未だ日本は半開国であるという現状認識からいえば、そうした文明の利器の移入は、文明国たる欧米先進諸国と比較すれば今だしと言うしかない。文明国に追いつくためには国民への不断の啓蒙宣伝が必要となる。その手段として使われたのが、『民情一新』の三年後、『民間経済録』二編刊行の翌年に創刊される『時事新報』だったのである。
3. 福沢健全期『時事新報』中の交通論関連社説
はじめにでも触れたように、交通論関連社説を抽出することは難しいことではない。要するに交通論とみなし得る用語が表題に使われている社説を選び出せればよいわけで、本論文で検索したのは交通・鉄道・港・航路・航海・車・道路の6語彙である。これらの用語を表題に使っていない交通論があるとしても、それはわずかであると考えられる。
福沢健全期『時事新報』の交通論関連社説一覧
掲載日 | 題 名 | 筆 者 | 全集 |
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18820712 | 運輸交通論(一三日、一七日、一八日計四回) | × | |
18820922 | 鉄道論 第一(二五日第二) | 昭 | |
18821108 | 鉄道布設 | × | |
18830427 | 鉄道敷設の資金を得ること難きに非ず | × | |
18830505 | 文明の交通法は必ずしも高尚ならず | (福沢・推定平山) | × |
18830716 | 江越鉄道敷設に就ての問題 | (福沢・推定平山) | × |
18831011 | 米国来信抜萃(鉄道と仮名の事) | (福沢加筆) | × |
18831130 | 東京大阪間の鉄道連絡 | × | |
18831201 | 大に鉄道を布設するの好時節(四日まで計三回、二日休刊) | 昭 | |
18840108 | 中山道鉄道公債証書条例并に金札引換無記名公債証書条例(九日まで計二回) | × | |
18840124 | 東京に新港を築くの方法 | 昭 | |
18840228 | 外国の資本を借来りて鉄道を興し以て内国の富源を深くすべし | × | |
18840301 | 何故に東海道鉄道を布設せざるや | × | |
18840303 | 大に鉄道を布設するも商業顚滅の来る気遣いなし | (福沢・推定平山) | × |
18840417 | 政府は既成の鉄道を人民に売渡し其代金を以て別に新線路を敷設すべし | × | |
18840423 | 未来の鉄道事業 | × | |
18840429 | 鉄道株券と公債証書(三〇日まで計二回) | × | |
18840514 | 中山道鉄道公債第二回の発行 | × | |
18840625 | 東京高崎間の鉄道開業式 | × | |
18840630 | 三菱郵便汽船港の航路を止む | 香港 日本人某 | 昭 |
18840702 | 中山道鉄道公債証書 | × | |
18840709 | 支那の鉄道 | × | |
18840722 | 鉄道工事捗取らず | × | |
18840806 | 日本に鉄道は無用なり(七日まで計二回) | シモンズ | × |
18850630 | 九州までの鉄道 | × | |
18850826 | 鉄道の賃銭割引の事 | 東京日本橋区一商人 | × |
18851023 | 営業馬車の取締如何 | × | |
18851112 | 交通に内外の別あるを忘るべからず | × | |
18851113 | 日本今日の外国交通は未だ十分ならず | × | |
18851114 | 外国交通を盛にするの法如何 | × | |
18851116 | 人力車夫の取締如何 | × | |
18860118 | 全国の商況を回復するは鉄道を布設するに在り | × | |
18860312 | 日本国の鉄道事業 一(一三日二、一五日三、一六日四、一八日五、一九日六、二二日七、二三日八、二四日九、二六日十、二七日十一、二九日十二、三〇日十三、四月一日十四、二日十五、三日十六、六日十七、七日十八、八日十九、一二日二十、一三日二十一、一四日二十二、一五日二十三) | × | |
18860416 | 米国の鉄道競争を利用すべし | × | |
18860417 | 今の日本の道路は封建制度の遺物なり | 昭 | |
18860515 | 鉄道は必要物と為れり | × | |
18860517 | 民設鉄道論 | × | |
18860521 | 中山道鉄道工事の進むを見て信州人に告ぐ | 東京 信濃の一書生 | × |
18860705 | 鉄道の賃銭如何(六日まで計三回) | × | |
18860709 | 中山東海両道鉄道緩急論(一〇日まで計二回) | × | |
18860720 | 東海道鉄道 | × | |
18861005 | 軍国の交通 | × | |
18861216 | 止むことなくんば鉄道の事を挙げて外人に任す可し | × | |
18861224 | 米国の鉄道建築師を雇う可し | (福沢・平山推定) | × |
18870113 | 日本の鉄道は外国の工師に委托すべし | × | |
18870126 | 鉄道を布設するに政府を煩わす勿れ | × | |
18870201 | 私立鉄道は名の如く私立ならしむべし | × | |
18870322 | 鉄道の流行 | × | |
18870426 | 私設鉄道発起者諸君に告ぐ | × | |
18870506 | 鉄道線路の説 | × | |
18870517 | 官有鉄道を人民に売るの説(一八日まで計二回) | 昭 | |
18870519 | 京浜間の鉄道丈けは速に民有物と為す可し | × | |
18870520 | 私設鉄道条例 | (福沢・平山推定) | × |
18870521 | 九州鉄道会社に質す | (福沢・平山推定) | × |
18870524 | 道路の事を忘る可らず | × | |
18870526 | 九州鉄道を広軌道にするの説 | × | |
18870719 | 鉄道敷設成功後の力役者 | × | |
18870824 | 鉄道営業の利潤は其起工を注意するに在り | × | |
18870901 | 欧亜鉄道計画の三大線路(二日まで計二回) | × | |
18871114 | 英国東洋の航路(一五日まで計二回) | 渡辺生 | × |
18871122 | ヴンクーヴー汽船航路と日本との関係(二三日まで計二回) | 志賀重昂 | × |
18871126 | 倫敦タイムスの英国東洋航路論 | × | |
18871128 | 日本鉄道会社の工事 | × | |
18871202 | 鉄道工事の緩慢なる理由は如何ん(三日まで計二回) | × | |
18880204 | 鉄道乗車切手の改良を望む(六日まで計二回、五日掲載なし) | 横浜本町 一商人 | × |
18880308 | 米国の鉄道家に望む | (福沢・平山推定) | × |
18880519 | 支那の鉄道と日本の鉄道 | × | |
18880619 | 日本米国間の航路 | 昭 | |
18880628 | 日本鉄道論(二九日、七月一日、二日、三日、六日、七日、九日計八回) | 社友某 | × |
18880728 | 世界は広し交通は速なり | ボーストン 某生 | × |
18881029 | 欧人遂に日本に向て行遊列車を発するの日にあうべし | × | |
18881124 | 米国鉄道の実用 | × | |
18881127 | サイベリヤ鉄道は一種の運河鉄道なり | × | |
18890528 | 官設鉄道売払の風説 | (福沢・平山推定) | × |
18890607 | 鉄道会議開くべし | × | |
18890720 | 汽車の魚類運賃 | × | |
18890726 | 北海道鉄道 | × | |
18890903 | 北海道鉄道 | × | |
18890921 | 鉄道の利用を吝む勿れ | × | |
18890930 | 鉄道業に対する政府の機宜 | × | |
18891221 | 汽車乗客の便利を謀る可し | × | |
18900114 | 汽車は速なるを貴ぶ | × | |
18900116 | 鉄道財産(一八日、二〇日計三回) | 昭 | |
18900328 | 鉄道株と整理公債証書 | × | |
18900501 | 上野秋葉間の鉄道線路 | × | |
18900909 | 鉄道水害 | × | |
18900916 | 鉄道政略一新を期す可し(一七日まで計二回) | × | |
18901014 | 鉄道汽車の便利 | × | |
18910121 | 日本鉄道会社命約改正の建議 | 昭 | |
18910610 | 豊筑鉄道と九州炭鉱 | × | |
18910908 | 盛岡青森間鉄道 | × | |
18911010 | 欧羅巴鉄道の瑕瑾 | Chaunoy M.Depew 寄稿抄訳 | × |
18911011 | 三菱社と山陽鉄道 | × | |
18911128 | 鉄道買上 | × | |
18911218 | 議員提出の鉄道拡張案 | × | |
18911219 | 鉄道法案に就て | 昭 | |
18911223 | 再び鉄道案に就て | × | |
18920329 | 炭礦鉄道会社々長 | × | |
18920330 | 山陽鉄道の線路 | × | |
18920419 | 山陽鉄道会社(二〇日まで計二回) | 昭 | |
18920521 | 鉄道法案 | × | |
18920722 | 鉄道庁 | × | |
18920729 | 鉄道株の未来 | 昭 | |
18920816 | 炭礦鉄道の室蘭線開業したり | × | |
18921118 | 電気鉄道と機関車鉄道との比較(一九日までまで計二回) | 独逸工学士ローム、シャテル原文翻訳 | × |
18921122 | 自由党の航路拡張案 | × | |
18921224 | 軍用鉄道商用鉄道(二五日までまで計二回) | 社友 某 | × |
18930530 | 海陸の運輸交通 | (福沢・平山推定) | × |
18930712 | 鉄道拡張(一四日まで計三回) | 昭 | |
18930715 | 山陽鉄道の線路 | 昭 | |
18930825 | 鉄道敷設を妨ること勿れ | × | |
18930912 | 文明世界の道路 | 昭 | |
18930913 | 京浜鉄道 | × | |
18930917 | 日本の鉄道 | × | |
18930926 | 鉄道の効力 | × | |
18930928 | 鉄道営業は甚だ易からず | × | |
18930929 | 鉄道の専権 | × | |
18930930 | 鉄道の競争と専有 | × | |
18931008 | 世界中最も早き列車 | レールロードガゼット記者プラウト原文〔翻訳〕 | × |
18931014 | 鉄道の利益は営業頻繁の間に在り | × | |
18931015 | 鉄道会社の倹約は遂に危険なきを保証す可らず | × | |
18931117 | 中央停車場の敷地を予定す可し | × | |
18940105 | 自転車 | × | |
18940110 | 本軌鉄道と狭軌鉄道 | 理学士福沢捨二郎 | × |
18940202 | 私設鉄道の許可何ぞ遅々たるや | × | |
18940321 | 孟買航路(二二日まで計二回) | × | |
18940404 | 汽車発着時間の改正に就て | × | |
18940405 | 外国航路の保護 | × | |
18940406 | 海外航路に就ての注意 | 昭 | |
18940418 | 山陽鉄道の設計門司海峡の架橋 | 昭 | |
18940516 | 日露両国間の航路 | 昭 | |
18940524 | 官設鉄道払受の計画 | × | |
18940525 | 私設鉄道自由に許す可し | × | |
18940608 | 朝鮮事件と山陽鉄道 | 昭 | |
18940701 | 釜山京城間の鉄道速に着手す可し | × | |
18941226 | 軍事費の始末と官有鉄道払下 | × | |
18950421 | 鉄道会の組織を望む | × | |
18950425 | 京浜間の電気鉄道 | × | |
18950509 | 東京市中の電気鉄道 | × | |
18950511 | 電気鉄道と地価 | × | |
18950512 | 鉄道会に就て | × | |
18950519 | 蒸気鉄道と電気鉄道との競争 | × | |
18950717 | 市内の電気鉄道 | × | |
18950802 | 電気鉄道の計画断行す可し | × | |
18950804 | 鉄道事変に就て | 昭 | |
18950824 | 電気鉄道の哩数に就て | × | |
18950828 | 鉄道の敷設を自由にす可し | × | |
18950926 | 鉄道と電気 | × | |
18951031 | 鉄道営業者の覚悟は如何 | × | |
18951116 | 鉄道役員の撰定に注意す可し | × | |
18951129 | 官設鉄道の不便 | × | |
18951130 | 私設鉄道の便利 | × | |
18951212 | 欧洲航路の開始 | × | |
18951226 | 欧洲航路の補助 | × | |
18960130 | 鉄道改良 | × | |
18960214 | 鉄道改良断行す可し | × | |
18960502 | 台湾の鉄道 | × | |
18960531 | 西伯利鉄道効力の半面 | × | |
18960805 | 官設鉄道の売却 | × | |
18960807 | 私設鉄道の監督 | × | |
18961010 | 鉄道会社の大小 | × | |
18961103 | 京釜鉄道 | × | |
18961215 | 私設鉄道の許否 | × | |
18961216 | 鉄道許否の方針 | × | |
18961223 | 都会附近の鉄道 | × | |
18970305 | 山陽鉄道と阪神間の官線 | × | |
18970320 | 定期航海の特別助成金 | × | |
18970321 | 欧米航路の特定 | × | |
18970416 | 公園の拡張と道路の改良 | × | |
18970417 | 鉄道の公私 | × | |
18970418 | 鉄道の敷設と営業 | × | |
18970512 | 東京市に道路なし | × | |
18970609 | 台湾鉄道の保護 | × | |
18970714 | 此道路を如何せん | × | |
18970829 | 私設鉄道の運賃引上げに就て | × | |
18970831 | 台湾の鉄道 | × | |
18970902 | 台湾鉄道の事業 | × | |
18971118 | 北越鉄道の爆裂事件 | × | |
18980203 | 運輸交通機関の不始末は当局者の責任なり | × | |
18980303 | 日本鉄道会社 | × | |
18980304 | 市内交通の不完全 | × | |
18980309 | 日本鉄道会社の改革を望む | × | |
18980511 | 鉄道論は秋天の朝晴暮雨に似たり | × | |
18980512 | 京釜鉄道は朝鮮文明の先駆なり | (福沢・平山推定) | × |
18980527 | 鉄道国有論の前途 | × | |
18980601 | 鉄道国有の理由如何 | 昭 | |
18980821 | 官有鉄道論 | (石河幹明・明記) | 大 |
18980825 | 鉄道買収の方法如何 | × | |
18980825 | 東京市の電気鉄道 | × | |
18980827 | 世間の鉄道論 | 昭 | |
18980830 | 鉄道買収如何にして行う可きや | × | |
18980831 | 官有とす可きもの豈に啻鉄道のみならんや | 昭 | |
18980901 | 鉄道官有は空論なり | × | |
18980916 | 交通機関の改修 | × |
以上が交通論関連社説194編250日分であるが、福沢健全期5338号のうちおおよそ4.7%を占めている。1か月に1,2回は関連する社説が掲載されていた勘定になるが、全集への収録状況についていうなら、ほとんど収められていない。すなわち明治版全集への採録はなく、大正版でわずか1編「官有鉄道論」(18980821)の収録を見るだけである。この社説が石河幹明の執筆であることは大正版全集に明記されている。昭和版続全集でさらに23編31日分が加わっているが、それでも交通論関連社説全体の13%程度に過ぎない。
全194編250日分中のうち鉄道・海運・道路の各分野に関する社説が占める割合は、まず「運輸交通論」(18820712)で3つの分野すべてが扱われ、残る193編のうち鉄道分野171編・海運分野13編・道路分野9編となっている。交通論関連社説の9割近くが鉄道分野ということになる。
鉄道・海運・道路の3分野のうち大部分が鉄道分野というのは予想できたことだが、全体の9割近くが全集非収録となっている理由について考えてみたい。
すなわちその理由の第1は、福沢の関与度が実際に低かったのではないか、ということである。交通論関連社説に属する福沢の直筆草稿残存社説は1編もない。関与の証拠があるのは全集非収録の「米国来信抜萃(鉄道と仮名の事)」(18831011)1編だけで、これは別人の下書きへの加筆草稿となっている。
井田メソッド(注7)に基づいた論者の判定によっても、「文明の交通法は必ずしも高尚ならず」(18830505)・「江越鉄道敷設に就ての問題」(18830716)・「大に鉄道を布設するも商業転滅の来る気遣ひなし」(18840303)・「米国の鉄道建築師を雇ふ可し」(18861224)・「私設鉄道条例」(18870520)・「九州鉄道会社に質す」(18870521)・「米国の鉄道家に望む」(18880308)・「官設鉄道売払の風説」(18890528)・「海陸の運輸交通」(18930530)・「京釜鉄道は朝鮮文明の先駆なり」(18980512)の全集非収録10編が加わるだけである。
非収録が多くなっている理由の第2は、大正版全集・昭和版正続全集の編纂者である石河幹明が、満州事変直後である1930年代前半の価値意識とでもいうものによって、福沢のものと知りながら、半世紀も前の主に鉄道延伸に関する社説の採録を見送ったのではないか、ということがある。鉄道網を築くというのは、明治中期という時代状況にあっては喫緊の課題だったとしても、すでに完備された1930年代には今更感があった可能性がある。
二つの理由のいずれが重いかの検討は最後にするとして、第4節では福沢が強く関与したと論者が判定した社説の紹介をしたい。
4. 交通論関連全集非収録社説の紹介
先にも触れた通り、交通論関連社説はあらかた全集非収録となっている。ここでは福沢執筆によると論者が判定した社説のうち、交通論全般とも関わるいずれも全集非収録の4編を紹介する。すなわち「文明の交通法は必ずしも高尚ならず」(18830505)・「江越鉄道敷設に就ての問題」(18830716)・「米国の鉄道建築師を雇ふ可し」(18861224)・「官設鉄道売払の風説」(18890528)の4編である。
まず「文明の交通法は必ずしも高尚ならず」であるが、「身躬ら」「然りと雖も」「成跡」「捷徑」「囂々」「視做す」の5つの福沢語彙(注8)の使用により福沢筆と判定した。内容は『民情一新』全体の要約であるため新しい部分はないが、冒頭の部分に「交通」全般に関する興味深い記述がある。すなわち、「交通即ち文明開化なりとは我輩の持論にして、交通とは人の智見を交換し有形無形のものを相互に通することなり。先進の學者が後進の輩を導き、家の父兄が其子弟を敎訓し或は學術の會議討論の如き、或は集會談話の如き皆交通の法にあらざるはなし」(注9)とあって、「交通」を現在通用のtrafficの意味ではなくcommunicationの意味で使っていることである。
そこで交通の用例を探してみると、『福翁百話』にも、「手近き手段は社会交通の道に心を用い、今日にて云えば海陸の汽船、汽車、郵便、電信、電話等は勿論、著書、新聞紙の発行を自由にしてその頒布を速にし」(第八十七話)と、交通に郵便・電信・電話・著書・新聞(紙)を含めていることが分かる。trafficはどうやら「運輸」のほうに含まれているようで、現在の意味であるtransportationに限定されないようだ。こうしたことは百数十年のうちに意味が微妙にずれてきた実例であろう。
次の「江越鉄道敷設に就ての問題」(18830716)で検出できた福沢語彙は、「然りと雖も」「頴敏」「輻輳」の3つである。江越鉄道とは現在では北陸本線の一部となっている福井県の敦賀から滋賀県の長浜までの路線のことであるが、その重要性は、敦賀港を入口として東北地方から山陰地方までの日本海側の物資を琵琶湖を経由して直接京都まで搬入できるところにあった。それまでの北前船はいったん本州西端の下関まで迂回して瀬戸内海を大阪まで向かうという1か月ほどもかかる航路であったが、江越鉄道が開通すれば敦賀で陸揚げ後京都まではわずか1日しかかからないのである。この短縮を社説はスエズ運河の開通による利便性の向上になぞらえている。
社説掲載時には未だ企画の段階だった江越鉄道の「問題」とは、その建設費用でも予想される難工事でもなかった。開通のみぎりに顕在化されるであろう商都大阪の地位低下を予期しての大阪商業会議所の一部勢力による反対運動にあったのである。「江越鉄道の開設は大坂商人の愚眛遲鈍なる者に害ありて頴敏活発なる者に利あり」として商人たちのビジネスマインドに期待を寄せている。鉄道建設が経済にとってかえって悪影響をなす可能性があるという内容の社説は、すでに興業論で紹介した「大に鉄道を布設するも商業転滅の来る気遣ひなし」(18840303)も同様である。
1886年以降の交通論関連推定福沢執筆社説にはある種の傾向性があるようで、鉄道建設にあたっては民間の意向を汲むべきこと、また布設に際して大量に必要となる技術者については米国の協力を仰ぐべきことの2点を指摘しうる。「知る可らず」「繁多」「扨」という3語彙を含む「米国の鉄道建築師を雇ふ可し」(18861224)は後者に属する社説であるが、前者の民活についても触れていて、この時期の交通論関連社説の特徴がよく出ているので全文を紹介したい。
「米国の鉄道建築師を雇ふ可し」(18861224)
日本の鉄道事業は近來漸く進歩の兆を現はし、官設線路の工事を急ぐは申す迄もなく、民設鉄道を計畫するものも亦次第に其數を増し、九州鉄道と云ひ兩毛鉄道と云ひ四日市鉄道、湖東鉄道、大和鉄道、八王子鉄道、水戸鉄道と云ふなど其起工は何の日にあるや豫め知る可らずと雖も、或は資本募集の着手し、或は起業請願に取掛りたるものもある由なれば、今後我國に於ては、官設鉄道と相伴ふて民設鉄道の延長を増す可きや疑ひを容れず。官設鉄道に就ては我政府に於て自から其鉄道畧を存ずることならんなれば、我輩は今敢て之を論せず。唯民設鉄道に就て云へば、其目的は鉄道を營業として利益を占むるより外ならざる可きが故に、成る可く實地經濟を旨として、成る可く廉價の建築法を取り、少しの費用を以て多くの線路を敷設し、小金大利の法を應用せざる可らず。因ては鉄道の摸範を取るにも專ら此點に注目して、廉價なる米國鉄道の建築法に傚ふこと、甚だ肝要ならんと信ず。抑も米國の鉄道事業は其進歩の速なるに、兼ねて實地の利用を專一とし、初めより外觀裝飾を事とせざるが故に、同國鉄道の建築費は一英里間平均五萬三千弗足らずにして、之を英國の平均建築費に比較すれば殆んど四文の一なりと云ふ。斯くて英國の鉄道は米國鉄道よりも四倍の便益ありやと云へば决して左にあらずして、或る點より見れば米國鉄道の簡便なること反つて英國鉄道に駕する所もある可し。但し費用多ければ停車塲も立派に線路堤防の工事も美事にして夫れ相應の價ひはある可きが故に、工事の完全を期して英國鉄道に傚ひたきは我輩の本願なりと雖ども、鐵道工事の急を告ぐる我國の如く資本融通の意の如くならざる我國の如き國柄にては、只管鐵道の便益丈けを目的とし完全なる一英里の英國鐵道を作らんよりも、寧ろ質素を旨として四英里の米國鐵道を作るの覺悟なかる可らず。即ち日本の民設鐵道は其建築法を米國に取りて專はら簡便廉價を旨とすること、我輩の夙に希望する所なり。
日本の民設鐵道は米國風に傚ふ可しとして、扨て今日の實際に於て我國に此建築法を心得たる鐵道建築技師ありやと云ふに、勿論多少は其向きの人もある可しと雖ども、今後鐵道事業の追々に繁多なるに當りては、到る處建築技師の欠乏を告げ、之れが爲めに幾分か其工事を遲延するが如きことなしとも云ふ可らず。現に今日の處にても鐵道技師は甚だ乏しく、窃かに多くの給金を出して互ひに他の鐵道会社の技師を手に入れんとする等の事情もある由なれば、今後の勢ひは推して知る可きなり。此時に當り我國にて新に民設鐵道を計畫する者は、何も遠慮することなく米國の實地建築師を雇ひ來り、其工事を管督指揮せしめて可なり。聞く佛國にて何か大土工を起す時には英國の勤勉なる役夫を雇ふを利とし、往々英國人を使役することありと。况して今の我國の如き事情にては經驗ある米國の鐵道建築技師を雇ふて之れに實地の鐵道敷設を托すること甚だ得策なる可しと信ず。且つ目下米國の形勢にては鐵道事業の盛んなる程に其建築技師も亦隨つて多かる可きが故に、之を雇ふ給料も思ひの外に不廉ならざる所もあらん。我國の民設鐵道を計畫するものは其起工の前に於て豫め此邊の商量ありたきものなり。
福沢の米国びいきとでもいう心性は現行版『福沢全集』の「時事新報論集」に収録されている社説からはさほど強く感じ取れないため、『福翁自伝』中の、米国人が軍艦購入資金を横領するはずがない(「再度米国行」)、などという記述にちょっとした驚きを感じることもあるが、実際のところ非収録の社説にはあからさまな米国びいきのものが複数見られるのである。交通論に限ってもこの「米国の鉄道建築師を雇ふ可し」(18861224)の他にも、「米国の鉄道競争を利用すべし」(18860416)・「米国の鉄道家に望む」(18880308)・「米国鉄道の実用」(18881124)の3編を指摘できるし、陸軍論で紹介した「軍器を米国に需むべし」(18881105)は福沢執筆と推定できる社説である。
最後に紹介する「官設鉄道売払の風説」(18890528)は「冀望」「繁多」「ならんなれども」「竊に」の4語彙の使用により福沢執筆と判定した社説である。その中身を要約するなら、官設鉄道を華族に払い下げるという風説があるが、経営には素人である華族が全面的に所有するような払下げには反対である、そうではなく、まずは私設鉄道の形式を整えることで経営と所有を分離し、所有権の証である株式だけを公正な手続きによって華族に保有させるようにすれば公平性が担保されるし経営上の不安も払拭できるはずである、という提案である。
『民情一新』(1879)では、鉄道の布設は政府が主導して実施されるべきだという意見が述べられていたが、どのような形式で運営されるのかについては曖昧なままとされていた。民間の出資による民設鉄道も福沢も出資していた日本鉄道や甥でもあった中上川彦次郎が社長に就任した山陽鉄道をはじめいくつか開通していて、次なる問題は、官設鉄道と民設鉄道をどのような形で接続するか、ということであった。全国一律でのダイヤグラムを編成するには民設を官設へと移行させなければならない、というのが政府側の思惑で、それは後に1906年の鉄道国有法へと結実することになる。『時事新報』の主張は、それとは逆に、官設鉄道はやがて全て民設へと移行すべき、というものであった。この主張は、ほぼ1世紀を経た後1987年の日本国有鉄道の分割民営化によって実現されるのである。
5. 交通論関連社説の論調の変遷(一) ―1882年から1888年まで
194編250日分の交通論関連社説を一覧すると、比較的コンスタントに掲載がある時期と、数か月にわたる中断期が交互に現れていることが分かる。中断の前後で明確な論調の変化を指摘はできないことが多いが、後に触れるように、扱われている主題の傾向性に違いがある。また、社説の性格に着目してみると、各期全体の目標とでもいうべきものを決めている基準論と、その時々に発生した問題への対応策が書かれた個別論とに大きく類別できる。大枠での基準論が建てられると、次の基準論まではその内容に則った個別論が順次発表されるという展開になっているのである。なお基準論は各期の初め近くに現れるのが通例である。
まずは各期について概観する。交通論関連社説は中断期に着目するならば以下の6期に区分できる。すなわち、
- 第Ⅰ期/問題設定期―「運輸交通論」(18820712)~「鉄道布設」(18821108)・3編7日分
- 第Ⅱ期/基幹線選定期―「鉄道敷設の資金を得ること難きに非ず」(18830427)~「日本に鉄道は無用なり」(18840806)・21編26日分
- 第Ⅲ期/私設鉄道提唱期―「九州までの鉄道」(18850630)~「サイベリヤ鉄道は一種の運河鉄道なり」(18881127)・49編87日分
- 第Ⅳ期/地方鉄道奨励期―「官設鉄道売払の風説」(18890528)~「軍用鉄道商用鉄道」(18921224)・34編40日分
- 第Ⅴ期/私設鉄道奨励期―「海陸の運輸交通」(18930530)~「軍事費の始末と官有鉄道払下」(18941226)・29編32日分
- 第Ⅵ期/鉄道国有化反論期―「鉄道会の組織を望む」(18950421)~「交通機関の改修」(18980916)・58編58日分
の6期であるが、これらはあくまで中断期に着目しての区分であって、期毎の論調の違いに基づくものではない。以下本節では第Ⅰ期・第Ⅱ期・第Ⅲ期(1882年から1888年まで)を概説する。
第Ⅰ期/問題設定期―「運輸交通論」(18820712)~「鉄道布設」(18821108)・3編7日分
最初に指摘できる基準論は、創刊4ヶ月を経過した1882年7月に4日連続で掲載された「運輸交通論」(18820712)である。この社説が福沢執筆ではないことは、福沢語彙がまったく検出できないことからはっきりしている。論者の見たところでは中上川彦次郎主筆でも、当時編集部に所属していた波多野承五郎でもない。そうだとすると須田辰二郎か森下岩楠のどちらかであろうが、いずれにせよ執筆者は重要ではないようだ。というのは、内容は『民間経済録』二編第4章「運輸交通の事」の内容を薄く引き延ばしたものにすぎないからである。中身は「運輸交通の事」と同じとはいえ、その後の交通論関連社説はこの「運輸交通論」を基準にして書かれているので、基準論としては重要とはいえる。
創刊初年にはさらに全集収録の「鉄道論」(18820922)が2日連続で掲載されているが、これも福沢筆ではなく中上川執筆に見える。内容は「運輸交通の事」の鉄道に関する部分をリライトしたもので、これにもまた新しさはほとんどない。また、全集非収録の「鉄道布設」(18821108)では建設費用の調達について外債による募集が提案されている。
創刊初年の交通論は以上の3編であるが、このうち「運輸交通論」は健全期を通しての交通論の基準となっている。その後「鉄道布設」から「鉄道敷設の資金を得ること難きに非ず」(18830427)まで交通論の掲載は5か月間中断している。
第Ⅱ期/基幹線選定期―「鉄道敷設の資金を得ること難きに非ず」(18830427)~「日本に鉄道は無用なり」(18840806)・21編26日分
第Ⅰ期と第Ⅱ期の間に5か月もの中断があるのは、朝鮮で起こった壬午軍乱関係の社説が多く掲載されていたためである。その中断も、再び外債の導入を提唱した「鉄道敷設の資金を得ること難きに非ず」(18830427)を皮切りに月1回のペースで交通論関連社説が掲載されるようになる。次なる基準論として指摘できるのは「大に鉄道を布設するの好時節」(18831201)で、3回連載のうえ後には昭和版続全集に収録されている。
1年半前の「運輸交通論」(18820712)で鉄道・航路・道路のうち鉄道が最優先されるべきことが示され、「鉄道論」(18820922)では、鉄道は物資運搬上の利点ばかりでなく、人口密度の平均化による国土の安定的な発展と陸軍兵員の効率的な移送が可能となることによる軍事費の削減につながることが示されたうえで、「大に鉄道を布設するの好時節」(18831201)は、線路の敷設についてどのような優先順位がとられるべきかを主題としている。
日本における鉄道は1872年の新橋横浜間が最初であった。これは国際港である横浜と東京を結ぶ路線であるが、同じ発想により1874年に大阪神戸間が、さらに東に延伸した大阪京都間は1877年に開業した。そこで次はどこが妥当かとするに、『時事新報』は敦賀(福井県)長浜(滋賀県)間を提唱しているのである。これは現在の北陸本線の一部であり、現在の観点では意外かもしれないが、そうではないことは第4節で紹介した「江越鉄道敷設に就ての問題」(18830716)に説明がある。
一方で東京・京都・大阪を三都と呼ぶのが通例であることから、同時期にはこれらの都市を結ぶ基幹線のルートの選定が大きな課題となっていた。そこで沿岸部をたどる東海道と、内陸部を貫く中山道の2つが検討されていたが、結局政府は中山道ルートを選択した。東海道を選ばなかった理由としては、①東海道は海からの攻撃を受けやすいということ、②すでに海上交通が発達していて物資の輸送が容易となっていること、③大河の河口付近をいくつも通過することになるので長大な架橋工事が必要となること等が挙げられた。中山道を選んだ利点については東海道とちょうど逆になるわけだが、今度は山岳地帯を通過しなければならないためトンネルや路面の緩傾斜化の工事が必要となる、という別の難点が予見された。
鉄道敷設にともなう工事費用の調達については、「政府は既成の鉄道を人民に売渡し其代金を以て別に新線路を敷設すべし」(18840417)というそのものずばりの題名の社説がある。『時事新報』としては、官設による鉄道の運営は常態ではなく、やがては全部が民設鉄道となるべきだという立場をとっていたのである。
第Ⅲ期/私設鉄道提唱期―「九州までの鉄道」(18850630)~「サイベリヤ鉄道は一種の運河鉄道なり」(18881127)・49編87日分
第Ⅱ期と第Ⅲ期の間に10か月もの中断があるのは、1884年8月に激化した清仏戦争とそれに連動して12月に朝鮮で起きた甲申政変に関係する社説が多く掲載されていたためである。第Ⅲ期の最初となる「九州までの鉄道」(18850630)もまた清国や朝鮮で起こった戦争や騒乱と関係していて、兵員や物資の迅速な輸送のために一刻も早く九州までの鉄道の布設が望まれる、という内容の社説である。
この第Ⅲ期の基準論となっているのは、3月12日から4月15日まで23回にもわたって連載された長編社説「日本国の鉄道事業」(18860312)である。内容は日本の鉄道事業の今後の方針を他国と比較しながら論じたもので、最も安上がりでしかも早く鉄道網を築くにはどのようにすればよいかが詳細に記述されている。文体は福沢ではないが、福沢加筆とおぼしき部分もあって、中上川起筆のカテゴリーⅡ社説と拝察する。すなわち、国の文明度は鉄道布設距離によって計られるというところから説き起こし、鉄道開業以来15年の遅々たる歩みを嘆いている。そうなった理由は高コストで手間のかかる英国式を採用したためで、この際4分の1の費用で済む米国式を導入するべきだ、とし、さらに15年で300マイルしか布設されていないのだから、これまでの狭軌から広軌へと軌道も全面的に敷き替えるのが望ましいともし、また、布設のための費用は内債外債のほか、出資者を独自に募って私設鉄道の形式で建設を進めてもよい、としている。同時進行で布設がなされるため多くの技術者が必要となるが、その人材は米国に求めるべきだとしている。
このようにしてどんどん延長された鉄道は、官設と民設のまだら模様となるわけだが、『時事新報』は、第Ⅱ期の「政府は既成の鉄道を人民に売渡し其代金を以て別に新線路を敷設すべし」(18840417)に引き続き、官設で運営を始めた路線の早急な民間への払い下げを促すのである。
第Ⅲ期は約3年半のうちに交通論関連社説が49編87日分も掲載されていて、「日本国の鉄道事業」に書かれていたことが手を替え品を替えて繰り返し提示されている。途中1887年4月に主筆の中上川が山陽鉄道社長に転出するわけだが、交通論に関して方針の転換は見られないので、鉄道建設に関するこうした提言はもともと福沢本人に由来するとみてよいであろう。
1888年7月に工事の難航を理由に中山道線の計画は放棄され、東京(新橋)大阪間はまずは東海道線によって結ばれることが決まった。また、「日本国の鉄道事業」(18860312)にもあったように、もともと『時事新報』は広軌の軌道幅を提唱していたのだが、そのキャンペーンも空しく、東海道線も狭軌で着工され、また北海道で建設が進められていた石炭積出し用の地方路線も狭軌で着々延伸していた。
この期の最後に社友某の筆なる「日本鉄道論」(18880628)が8回の連載となっているが、これまた「日本国の鉄道事業」とほぼ同内容となっている。社友某とは山陽鉄道社長に就任していた中上川彦次郎のことと拝察される。
以上が第Ⅰ期から第Ⅲ期までの交通論関連社説の概説であるが、行論の都合により海運・道路についてまったく触れていない。そこで以下ではそれらに関する社説について簡単に説明したい。
先ずこの時期に掲載された海運関連社説は「東京に新港を築くの方法」(18840124)・
「三菱郵便汽船港の航路を止む」(18840630)・「英国東洋の航路」(18871114)・「ヴンクーヴー汽船航路と日本との関係」(18871122)・「倫敦タイムスの英国東洋航路論」(18871126)の5編である。1884年の2編はいずれも全集収録となっており、「東京に新港を築くの方法」は経済の中心地である東京に国際港を造るべきだという提案、また「三菱郵便汽船港の航路を止む」は香港の日本人某からの三菱郵船が香港への寄港を中止したという書簡を紹介して、三菱はビジネス上の損得は抜きにしても現地日本人の便宜を図るべきだ、と主張している。1887年11月の3編はいずれも、英国が香港とカナダのバンクーバーの間に設定した西回り航路が欧州東アジア間の貿易に大きな影響を与えるであろう、とする社説である。
また道路関連社説は「営業馬車の取締如何」(18851023)・「人力車夫の取締如何」(18851116)・「今の日本の道路は封建制度の遺物なり」(18860417)・「道路の事を忘る可らず」(18870524)の4編がある。題名からもうかがえるように『時事新報』は道路行政を重要視しておらず、ごくわずか現れる道路関連社説の主題もいたって軽いものになっている。
6. 交通論関連社説の論調の変遷(二) ―1889年から1898年まで
本節では第Ⅳ期・第Ⅴ期・第Ⅵ期の交通論関連社説について概説する。
第Ⅳ期/地方鉄道奨励期―「官設鉄道売払の風説」(18890528)~「軍用鉄道商用鉄道」(18921224)・34編40日分
1888年11月から1889年5月までの半年にもわたる中断は、主として1889年2月の大日本帝国憲法発布による立憲君主制への移行に関係する政治分野の社説が多く掲載されていたことによる。そこで1889年7月の東海道線全通直前に始まる第Ⅳ期は、その他の幹線の布設にもめどがついたことから、関心は北海道や中国地方さらに九州の地方路線の延長について向けられることになる。
表題に地方線の名称が使われた社説は「北海道鉄道」(18890726)・「北海道鉄道」(18890903)・「上野秋葉間の鉄道線路」(18900501)・「筑豊鉄道と九州鉱山」(18910610)・「盛岡青森間鉄道」(18910908)・「三菱社と山陽鉄道」(18911011)・「炭礦鉄道会社々長」(18920329)・「山陽鉄道の線路」(18920330)・「山陽鉄道会社」(18920419)・「炭礦鉄道の室蘭線開業したり」(18920816)の10編があるが、このうち全集に収録されているのは「山陽鉄道会社」だけであったため、今までこの時期に『時事新報』が地方鉄道の建設を奨励していたことは知られていなかった。
とかく動きの鈍い官設鉄道に先行して民設鉄道を敷くべきだという考えのもと、国内の石炭需要の増大に呼応して、炭鉱から積出し港までの路線をまずは優先して建設しようというのである。とくに北海道については、かつての開拓使に米国人が多く雇用されていた関係で鉄道建設に米国式が採用されたため、結果として『時事新報』が早くから提唱していた米国式の対費用効果が証明されたのである。
また1892年6月には鉄道網の拡大を後々まで縛る鉄道敷設法が成立しているが、この法律は軍事優先の立場から海岸線からなるべく遠いところに鉄道を通すという方針がとられていた。それは『時事新報』の早く安く鉄道を通すべきだという主張と対立していたため、「鉄道法案」(18920521)・「鉄道庁」(18920729)・「軍用鉄道商用鉄道」(18921224)などで政府の方針に疑義を呈していた。
第Ⅴ期/私設鉄道奨励期―「海陸の運輸交通」(18930530)~「釜山京城間の鉄道速に着手す可し」(18940701)・28編31日分
1893年上半期の中断については、明確な理由は見出しがたい。前年末に始まった第4議会は軍艦建造費をめぐって紛糾し、2月には天皇による政府と議会の融和をはかるための詔書が出されたが、議会はそれを天皇の政治利用と受け取って反発した。さらに朝鮮政府による穀物輸出禁止令(防穀令)が出されて国際関係上の問題も生じていた。
この第Ⅴ期の基準論は、昭和版続全集に収録されている「鉄道拡張」(18930712)で3回連載となっている。その主要な骨子は、前年6月に成立施行されていた鉄道敷設法に反対して、鉄道網の経済流通の観点からの自由な拡張と、現状の官設鉄道を早急に払い下げて全部を民設鉄道に転換するべきことを主眼としていた。
鉄道敷設法では鉄道網の基本計画が定められているだけで、設置者については特に示されていなかったが、同法を推進したのがかねてよりの鉄道国有論者だった鉄道庁長官井上勝であったため、『時事新報』は先手を打って全面国有化にも反対するキャンペーンを論陣を張った。個別論として「鉄道敷設を妨ること勿れ」(18930825)・「日本の鉄道」(18930917)・「鉄道の効力」(18930926)・「鉄道営業は甚だ易からず」(18930928)・「鉄道の専権」(18930929)・「鉄道の競争と専有」(18930930)さらに「私設鉄道の許可何ぞ遅々たるや」(18940202)などが掲載されている。
1894年7月に日清戦争が開始され、その関連社説に「軍事費の始末と官有鉄道払下」(18941226)がある。戦争をきっかけに国有化を推進しようとする政府の一部に対して、官設鉄道を民間に払い下げることで軍事費をまかなうべきだと主張している。戦争の勝敗は決していなかった時期の社説であるから、政府が戦時国債の償還の方法に頭を痛めていると見越して、その解決策として払い下げを進言したわけである。
第Ⅵ期/鉄道国有化反論期―「鉄道会の組織を望む」(18950421)~「交通機関の改修」(18980916)・58編58日分
日清戦争は日本の勝利となり1895年4月の下関条約に基づいて賠償金が得られることになった。政府としては戦時国債の償還のめどがついたわけで、官設鉄道を早急に払い下げる必要性もなくなったのである。鉄道国有化の動きはかえって強められることが予期されたので、『時事新報』は対抗策として鉄道会なる会の組織化を提唱し始めた。
第Ⅵ期は基準論となる社説を抽出しにくいのだが、あえて言えば最初の「鉄道会の組織を望む」(18950421)がそれにあたるようだ。すなわち、鉄道業が旧態依然としているのは「鐡道の役員が自家の業務の性質を解せず、唯一圖に節儉して收入と支出との差を大にせんことを是れ勉め、公衆の便益を思はず、又自家遠大の利害を悟らず、守舊一偏の方針を以て改進世界中の最改進的事業を營まんとするが爲めのみ。左れば我輩は彼等の頭脳より斯る不了簡の妄想を一掃するの手段として、先づ現今の官私鐡道營業者が協議して一の団體を造り、之を鐡道會と名つけて、専ら自家の業務に關する萬般の事抦を研究するの路を開かんことを勸告する者なり」とあって、民設ばかりでなく官設の事業者のトップも参加する業界団体が構想されたもようである。
この鉄道会については「鉄道会に就て」(18950512)で今一度取り上げられたのち、再び触れられることはなかったので、構想は立ち消えとなったらしい。ただ、業界団体とはならなかったものの、その後も鉄道事業の改良の名のもとに民設鉄道の優位性を説くという方針は維持されたのである。
また第Ⅵ期から新たに加わった主題は、新開発の電気鉄道をどのように導入するかという問題であった。電気鉄道について最初に触れた社説は、海外の論文を翻訳した「電気鉄道と機関車鉄道との比較」(18921118)であるが、この1895年には「京浜間の電気鉄道」(18950425)を皮切りに8編の電気鉄道関連の社説が掲載されている。
さらに朝鮮と台湾の鉄道についての社説が増えるのは1896年からである。「台湾の鉄道」(18960502)・「京釜鉄道」(18961103)・「台湾鉄道の保護」(18970609)・「台湾の鉄道」(18970831)・「台湾鉄道の事業」(18970902)・「京釜鉄道は朝鮮文明の先駆なり」(18980512)の各編がある。
『時事新報』は創刊2年後の「政府は既成の鉄道を人民に売渡し其代金を以て別に新線路を敷設すべし」(18840417)から明確に民設鉄道への一本化を図ってきたが、主に軍事上の要請から国有化を主唱する政府の一部の意見も根強かった。その機先を制するため『時事新報』はあの手この手で民設鉄道の優位性を訴えていたのだが、1898年の議会にとうとう国有化法案が上程されることになったのである。そうしたわけで「鉄道国有論の前途」(18980527)・「鉄道国有の理由如何」(18980601)・「官有鉄道論」(18980821)・「鉄道買収の方法如何」(18980825)・「世間の鉄道論」(18980827)・「鉄道買収如何にして行う可きや」(18980830)・「官有とす可きもの豈に啻鉄道のみならんや」(18980831)・「鉄道官有は空論なり」(18980901)と、まさに怒涛の国有化論反対キャンペーンを展開したのであった。
以上が第Ⅳ期から第Ⅵ期までの交通論関連社説の概説であるが、前節と同様行論の都合により海運・道路についてまったく触れていない。以下で海運と道路に関する社説について簡単に説明する。
先ずこの時期に掲載された海運関係社説は、「自由党の航路拡張案」(18921122)・
「孟買航路」(18940321)・「外国航路の保護」(18940405)・「海外航路に就ての注意」(18940406)・「日露両国間の航路」(18940516)・「欧洲航路の開始」(18951212)・「欧洲航路の補助」(18951226)・「欧米航路の特定」(18970321)の8編である。「自由党の航路拡張案」は、自由党が議会に提出した欧州・豪州航路への国庫からの補助案の紹介で、『時事新報』はこの案に賛成している。「孟買航路」は、日本郵船が主として綿花輸入を目的としてインドのムンバイとの航路を開いた、との記事である。「外国航路の保護」と「海外航路に就ての注意」では、航路拡張のため日本の海運会社に国から適切な援助を行うべきことが主張されていて、これは以後の海運関連社説についても同様である。
道路関連社説は、「文明世界の道路」(18930912)・「自転車」(18940105)・「公園の拡張と道路の改良」(18970416)・「東京市に道路なし」(18970512)・「此道路を如何せん」(18970714)の5編である。そのうちの「自転車」は健康増進のために自転車に乗ることを奨励した社説で、1893年中に海外で開催された自転車レースの結果が紹介されていて興味深い。その他は日本の道路の貧弱さを海外と比較して嘆くものである。
7. おわりに
最後に本論文で明らかになったことを項目化する。
(1)福沢健全期の『時事新報』での交通論関連社説は194編250日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中の4.7%弱に相当する。
(2)交通論関連社説の論調は、『民情一新』(1879)・『民間経済録』二編(1881)の内容に相即している。
(3)交通論関連社説群を時期区分するのは難しい。どの時期の主張であっても内容に質的な差がないからである。すなわちその骨子は、①鉄道の国有化はなされるべきではなくやがては民設鉄道に一本化されるべきだ、②軌道については狭軌ではなく広軌が採用されるべきだ、③建設にあたっては高価な英国式ではなく廉価な米国式をとって、技術者も米国から招くべきだ、④建設経費は民間資本・建設公債・外国債いずれでも可能となるようにするべきだ、の4点で、この主張は福沢健全期の間一貫している。
(4)194編250日分のうち現行版全集に収録されているのは24編32日分で、12.3%(編)または12.8%(日分)という低比率である。
(5)交通論関連社説群から福沢名で単行本化された連載はない。大正版全集の「時事論集」に収録されたものが1編1日分あるが、それは石河幹明が執筆したとの注記がある「官有鉄道論」(18980821)である。ただ、全集非収録の交通論関連社説のうち福沢本人の筆によるのは、論者の判定によれば最低でも10編10日分ある。昭和版続全集所収分23編31日分については語彙検索ができないため判定していない。
(6)『時事新報』創刊後については福沢名で単行本化された交通論がないため、交通論関連社説群全般への福沢の直接的関与は不明ということになるが、福沢が『時事新報』社説に強い影響力を有していた1892年以前と以後の関連社説を比較しても、論調に変化を認めることはできない。このことは福沢本人と社説記者(論説委員)たちの間に、鉄道の建設と運営に関して見解の相違がなかったことを意味している。
(7)1893年以降についても、福沢が交通論に関して発言を続けたことはまず間違いがない(注10)。全集編纂者の石河幹明は交通論への福沢の関心の強さを十分に承知していたが、あまりにも同じような社説が続くため採録を見送ったと考えられる。よって、第3節末尾の問いについては理由第2の可能性が高い。
以上。(本文終)
本論文執筆に際し、2018年4月に開始された福沢諭吉協会主宰の研究会「『時事新報』社説を読む」(講師・小室正紀慶應義塾大学名誉教授)での発表と議論が参考にされている。小室氏と出席の協会会員に謝意を表したい。もとより本論文に含まれるであろう欠陥の一切の責任は論者にある。
参考文献(著者等50音順)
- 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
- 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
- 平山洋(2012)『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって』ミネルヴァ書房
- 平山洋(2014)「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定-明治15年3月から明治18年3月まで」『国際関係・比較文化研究』第13巻第1号、静岡県立大学
- 平山洋(2015)「『時事新報』社説の起草者推定-明治18年4月から明治24年9月まで」『国際関係・比較文化研究』第13巻第2号、静岡県立大学
- 平山洋(2017)『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖考から社説真偽判定まで』ミネルヴァ書房
- 平山洋(2020a)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における朝鮮」『日本近代学研究』第67輯、韓国日本近代学会
- 平山洋(2020b)「福沢健全期『時事新報』のキリスト教関連社説」『キリスト教史学』第74集、キリスト教史学会
- 平山洋(2020c)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」『日本近代学研究』第70輯、韓国日本近代学会
- 平山洋(2021a)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における海軍論」『国際関係・比較文化研究』第19巻第2号、静岡県立大学
- 平山洋(2021b)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における陸軍論」『日本近代学研究』第72輯、韓国日本近代学会
- 平山洋(2021c)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における興業論」『国際関係・比較文化研究』第20巻第1号、静岡県立大学
- 福沢諭吉(1898)『福沢全集』時事新報社(明治版)〔福沢本人による編纂〕
- 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書(大正版)〔石河幹明による編纂〕
- 福沢諭吉(1933,1934)『続福沢全集』岩波書店(昭和版)〔石河幹明による編纂〕
- 福沢諭吉(1958~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店(現行版)〔富田正文による編纂〕
脚注
- (1)
- 時事新報』が創刊された1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を起こした直後の1898年9月30日までの期間を示す。全部で5338号分である。
- (2)
- その全タイトルは『福沢諭吉事典』(慶応義塾編・2010)にある。現行版『福沢諭吉全集』(岩波書店刊・1959~1964)にはそのうち約1500編が収録されている。残余はホームページ「平山洋関連」の「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」にある。なお単行本名または個人名に続く丸カッコ内は著作や論文等の刊行年を示す。
- (3)
- 平山洋(2021b)。詳細は論末「参考文献」にある。
- (4)
- 平山洋(2021c)。
- (5)
- 社説に付された8桁の番号は掲載日を示す。これを社説番号と呼ぶ。
- (6)
- 現行版全集第5巻25頁を示す。全集からの引用は歴史的仮名遣い新漢字による表記とする。
- (7)
- 井田メソッドについては平山洋著『福沢諭吉の真実』(文芸春秋刊・2004)、『アジア独立論者福沢諭吉』(ミネルヴァ書房刊・2012)第Ⅱ部「「時事新報」論説の作られ方」等を参照のこと。
- (8)
- 起筆者判定のための重要な手掛かりとなる語彙のことで、福沢語彙3つ以上を含む社説を直筆とする。詳しくは平山洋(2014)・平山洋(2015)を参照のこと。
- (9)
- 社説は歴史的仮名遣い旧漢字での引用とする。ただし句読点は論者が付す。
- (10)
- 論者の判定によれば、「京釜鉄道は朝鮮文明の先駆なり」(18980512)が最後の福沢起筆社説となっている。全集収録社説としては「官有とす可きもの豈に啻鉄道のみならんや」(18980831)が最後である。日清戦争が開戦された1894年7月以降の交通論関連社説の採録はまれなのであるが、それだけに本社説が収録されているのには相応の理由があると推測できる。