福沢健全期『時事新報』社説における海軍論

last updated: 2021-02-15

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平山氏の依頼により、 2020年11月の 日本思想史学会2020年度大会での口頭発表由来の論文 「福沢健全期『時事新報』社説における海軍論」 をアップロードします。

本文

福沢健全期『時事新報』社説における海軍論

平山 洋

1.はじめに

本論文は、福沢健全期(注1)の『時事新報』社説(注2)における海軍論の論調の変化の意義を、現実の海軍力増強の進展との関係から明らかにすることを目的とする。

福沢諭吉研究においてその軍事論の展開の解明が重要であることは言うまでもない。しかし、そのことは予想されるほどには簡単ではない。というのは、福沢の署名著作に独立の海軍論は存在せず、現行版『全集』の「時事新報論集」に収録されている9編の海軍関連社説がどこまで福沢の考えと一致しているかも定かではないからである。

そこで本論文ではとくに福沢の思想研究としてでではなく、『時事新報』社説の研究として海軍論の展開を考察したい。また軍事論としては陸軍論もあるわけだが、今回は海軍のみを扱うことにする。

2.研究史の概観

従来までの福沢研究史では、署名著作である『時事小言』(1881)(注3)の「今我国の陸軍、海軍は、果して我国力に相当して果して我国権を維持するに足るべきものか、我輩万々之を信ぜず」(⑤169頁)(注4)や、『兵論』(1882)の「前月朝鮮の事変に際しても我輩も世人も共に第一着に危懼を抱きたるは海軍薄弱の一事なりき」(⑤320頁)を根拠として、『時事新報』の社説でも一本調子に軍備増強を唱えているとみなされがちであった。

日清戦争の勝利のために福沢が民間の立場から熱心に支援運動を展開したことは、存命中から周知の事実であったし、没後約30年を経て刊行された石河幹明編『福沢諭吉伝』(岩波書店刊・1932)にも、福沢が早くから海軍の増強を主張していたと書いてある。そしてそれを証するかのように、『続全集』(岩波書店刊・1933,34)に収録された海軍関連の社説はどれも正面装備の拡充を声高に唱えるものばかりである。

1945年の敗戦まで伝記や採録社説の記述は、小泉信三(注5)・富田正文(注6)らにより、戦時局に適合的な福沢の見解として、徳富蘇峰(注7)や平泉澄(注8)ら国家主義に基づく福沢批判への反論として利用されたが、敗戦後は一転、同じ記述は服部之総(注9)・遠山茂樹(注10)・安川寿之輔(注11)ら左翼陣営からの批判にさらされることになった。

戦後の福沢擁護者の代表格は丸山真男(注12)であるが、彼は福沢の国民国家論を高く評価する一方、対外積極策・軍拡論についての弁護をしなかったため、戦後の擁護派もその点は認めていると解釈されてきた(注13)。しかしその理解が誤りであったことはすでに論者が指摘している(『福沢諭吉の真実』2004)。

戦前・戦後を問わず、また、福沢擁護・批判を問わず、従来の研究は基礎としている社説の選定が間違っていたことにおいて無意味となった。その点を心得たうえで、まずは海軍論社説全体を一瞥し、次いで問題の指摘をすることにしたい。

3.『時事新報』社説中海軍論の一覧

福沢健全期の『時事新報』における、表題に「海軍」または「艦隊」を含む社説は、以下の50編である。

18830206(注14)日本帝国の海軍(7日、8日、10日、13日、16日、17日、19日計8回)
18840703支那帝国海軍の将来如何(5日まで計3回)
18841208海軍拡張(9日まで計2回)
18860305日本国の海軍略如何
18860715海軍公債募集の好結果は商況の不景気を卜するに足る可し
18900310陸海軍連合大演習
18910804我国海軍の急務
18910805艦隊と生糸
18910827我国海軍の造艦方針
18910930海軍士官養成に就て
18911117海軍大演習の施行
18911117露国海軍の大演習
18911230陸海軍の当局者
18920603海軍省所管(福沢草稿残存・『続全集』非収録)
18920609海軍省
18930304郡司大尉の千島行に就き海軍当局者に望む
18930312海軍の改革と大臣の更迭
18930528海軍
18931110海軍将校の技倆如何
18940922海軍大勝利
18960414海陸並行
18960417海軍の任務
18960423海軍々人の俸給
18960722海軍思想の普及を謀る可し
18960828海軍士官の俸給
18961007軍備は海軍を主とす可し(『続全集』収録)
18961008海軍拡張の急要(『続全集』収録)
18961009海軍拡張の程度と国力(『続全集』収録)
18961013戦時に於ける海軍の効用(『続全集』収録)
18961014列国海軍現在の勢力
18961015世界列国海軍拡張の現状(16日まで計2回)
18961022列国東洋艦隊の勢力
18961024海軍拡張の方針
18961025海軍勢力の維持
18961030軍艦の種類及び用途
18961205海軍々人の養成(8日まで計3回、7日休刊)
18961212海軍軍人の始末
18961217海軍軍人の待遇
18961224海軍々人の端艇競漕
18961231海軍予備員
18970108海軍思想を養う可し
18970109海軍拡張の国是を定む可し
18970211海軍の經理法
18970212海軍の士気を奮励す可し(『続全集』収録)
18970310海軍当局の人物(『続全集』収録)
18980120海軍拡張の外ある可らず(『続全集』収録)
18980130海軍拡張止む可らず(『続全集』収録)
18980201海軍は平和の保証なり
18980226海軍拡張の必要(『続全集』収録)
18980531同盟と海軍

4.石河幹明による社説採録の信憑性

見られるように、福沢健全期に「海軍」(「艦隊」)を表題に含む社説は50編あるが、そのうち石河幹明が『続全集』に採録しているのは、「軍備は海軍を主とす可し」(18961007)、「海軍拡張の急要」(18961008)、「海軍拡張の程度と国力」(18961009)、「戦時に於ける海軍の効用」(18961013)、「海軍の士気を奮励す可し」(18970212)、「海軍当局の人物」(18970310)、「海軍拡張の外ある可らず」(18980120)、「海軍拡張止む可らず」(18980130)、「海軍拡張の必要」(18980226)という、わずか約1年半の間に論文された9編にすぎない(すべて草稿非残存)。石河を信じるならば、福沢は創刊後14年間に論文された表題に「海軍」(「艦隊」)を含む社説25編に無関与だったのに、社長職を次男捨次郎に譲った1896年7月より後の9編にだけ関与したことになる。これは奇妙なことではなかろうか。

石河による社説の全集採録が真実ならば、従来の研究史の定説は適正となる。ところが非収録の社説の中には、「艦隊と生糸」(18910805)など、海軍力の増強を他の事案(例えば産業を育成するための基盤整備など)よりも優先させる必要はない、と主張しているものがある。石河が正しいなら、こうした非収録社説の主張は福沢では「ない」ことになる。

ところがそうではないことははっきりしている。というのも、最近発見され、全集非収録となっている社説「海軍省所管」(18920608)には福沢による草稿が残っているのである(注15)。『福沢諭吉の真実』(2004)で論者が指摘したことだが、1887年4月の中上川退社から1892年頃までの福沢は、中上川主筆の穴を埋めるべく、以前にもまして『時事新報』に強く関与していた。石河は何らかの理由で創刊後14年間の海軍論社説を全集に収めなかったことになる。その場合考えられる理由は以下の3点があげられる。

その第1は、海軍論のいくつかは福沢健全期にすでに別人の作として広く認知されていた、という事実による。佐瀬得三著『当世活人画:一名名士と閏秀、続々』(1900)に、「十余年前時事新報に連載せし日本海軍論の如き支那分割論の如き、読者の耳目を聳動し当時雄篇を以て称せられたるが、孰れも氏の手に成りしものにて間々痛刺骨に入るの文句ありき」(3頁、「中上川彦次郎」の章)とある。この記述から分かるように、中上川主筆時代の海軍論の作者は福沢ではなく中上川であるという認識があったのである。事実としては福沢も関与していたのかもしれないが、いったん中上川と定まった社説を後年『続全集』に収録するのは難しかったのであろう。

その第2は、中上川退社後の紙面で実際に海軍論を書いていた記者が、『続全集』の編纂時点で存命であった可能性があげられる。その社説記者とは菊池武徳(1867~1946)(注16)で、1887年4月に中上川と入れ違いに入社した彼は、福沢から「有望の少年」と高く評価されていた人物であった。菊池の在籍は1894年12月までで、その間に彼が執筆した海軍論を全集に収録した場合、執筆者本人からクレームがつく可能性があったのである。

そして第3は、日清戦争前までの海軍論が『福沢諭吉伝』の記述と背馳する場合に、石河が福沢作と知っていたとしても、あえて採録しなかった可能性がある。日清戦争直前の時期に掲載された草稿残存の朝鮮併合反対論「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(18940705)を石河は『続全集』に採録しなかった。また、全集収録済論説との重複を避けるため、という別の理由によってではあるが、石河が福沢作と知りながら『続全集』への採録を見送った社説があることについては、すでに論者は論文「福沢署名著作の原型について」(2015)(注17)で指摘している。

そうなると全集収録の9編はそれらの問題をクリアした社説ということになるが、それらが福沢の見解と一致していたか否かとはまた別問題である。そのことを考察するに先立って以下では50編ある海軍論全体を概観し、注目すべき社説の内容を紹介したい。

5.福沢健全期の海軍論の概観および注目すべき全集非収録社説

海軍論50編は、2回のはっきりした断絶を挟んで3期に区切ることができる。まず第1期は「日本帝国の海軍」(18830206~0219)から「海軍公債募集の好結果は商況の不景気を卜するに足る可し」(18860715)までの5編である。次の第2期は3年8ヶ月の中断の後の「陸海軍連合大演習」(18900310)から「海軍将校の技倆如何」(18931110)までの14編である。最後の第3期は10ヶ月の中断を経て、日清戦争開戦後となる「海軍大勝利」(18940922)から「同盟と海軍」(18980531)までの31編である。すでに述べたように、『続全集』に収録された社説はすべて第3期からである。

第1期の代表的社説は「日本帝国の海軍」(18830206~0219)である。中上川執筆と認識されている、『時事新報』創刊1年にして表題に「海軍」が使われた最初の社説である。執筆の動機については、本論文冒頭でも引用した『兵論』の「海軍薄弱」の認識が根底にあるものと推察できる。なお、福沢署名著作『兵論』は1882年7月の朝鮮壬午軍乱に際して顕在化した清国軍に対する日本軍の劣勢をもとに書かれた。

8回の連載のうち、最初の5回分は世界の海軍力の概説となっていて、日本海軍については第6回から扱われている。まず日本海軍の現状は、「海軍人の總員は明治十四年の調に九千餘人軍艦の總數は大小二十七艘此内銕艦五艘扶桑、金剛、比叡、龍驤、東の緒艦是なり」(18830216)であるが、日本を取り巻く広い水域にかんがみて、それだけでは不足しているのは明らかである。そこで全国に5鎮守府(海軍基地)を設置して各12隻の軍艦を配備し、さらに予備1艦隊12隻を加えて全部で72隻で構成されている海軍を作る必要がある。

軍艦製造費は1隻平均50万円、全部で3600万円、これを10年計画で実施するとすれば年間3、400万円の建艦費となる。続く第7回ではそれらを国内で作るか海外に発注するかへと議論は移るが、その結論はといえば、現有の横須賀造船所で建造可能な小型艦は国内製造、大型艦は海外に発注するべき、ということである。そうして第8回は大型艦を建造できる造船所の建設が先決問題であるとして、海外の造船所の現状を報告して論は閉じられている。

次節でも触れるが、「日本帝国の海軍」が掲載された1883年は日本最初の計画的軍備増強計画の初年にあたっていた。そのための提案の一つとして「日本帝国の海軍」もあるわけだが、3年後の1886年には海軍省による計画の実現不可能が明らかとなっていた。

そこで「日本国の海軍略如何」(18860305)は、海外の情勢視察のため外遊に出発する西郷従道海軍大臣のはなむけとして書かれたものだが、「海軍擴張は我日本の國と爲りに於て一日も忽にす可らざるが故に、今度海軍大臣の使命は其任最も重しと云はざるを得ず。扨て今海軍擴張と云ふ其意味甚だ漫然たれども、我政府にては今の海軍を何の邊まで擴張するの所存なるにや、先づ以て之を定むること肝要なるべし」とやや厳しい物言いである。というのは、この3年の間に清仏戦争があって、清国海軍の実力が侮れないということが明らかになったうえ、英仏海軍の動向も予断を許さない状況にあると認識されていたからである。

中上川主筆在任時最後の海軍論である「海軍公債募集の好結果は商况の不景氣を卜するに足る可し」(18860715)は、断定はできないものの福沢色が極めて強い社説である。中身は5%の金利で募集された海軍公債に応ずる者が少ないのは、その金利での投資では利益を見込めないという投資家のマインドを示していて、その事実により近い将来の好景気が期待できるというものである。この社説を最後として表題に「海軍」が使われた社説は、3年8か月後に始まる第2期最初の「陸海軍連合大演習」(18900310)まで途絶えることになる。

第2期で海軍に対する実質的な提案を含む社説は、報道記事である「陸海軍連合大演習」からさらに1年半後の「我國海軍の急務」(18910804)までない。内容は海軍力の充実には軍艦の製造だけが重要なのではなく、運用する人材の育成こそ急務である、というものである。また、「艦隊と生糸」(18910805)には、たとえ艦隊の増強が遅れようとも生糸の生産を優先するべきだ、という注目するべき見解が表明されている。

第1期の基調をなしていたのは、乏しい財源のなかでいかに正面装備を整えるかという問題意識だった。ところが第2期となると、主張の中心は、財源難を前提に装備よりも人的資源の質向上を図るべき、というところに移る。「我國海軍の造艦方針」(18910827)は、30年という長い期間を見据えて、当時最新の装備であった甲鉄艦(装甲のある軍艦)で構成される艦隊の配備を進めるべきだ、という内容の社説である。さしあたって財源の裏打ちがない以上それは遠大な計画とも言うべきで、今すぐにできることは人材育成となる。

そのことについて扱っているのが「海軍士官養成に就て」(18910830)で、その主眼は、海軍大学校の入学定員現状「三十の數を二倍もしくは三倍し、講習を終りたる士官は直に遠洋行の軍艦に乗組ましめ、又四年以上も海上勤務に從事したる士官は必ず大學校に入り、講習せしむるの制規を履ましむることゝ爲す可し。斯くの如く順換の法を以て、學術と實地との研究を奬勵することを怠らざるときは、我輩の期するが如く、今より二十五年乃至三十年にして先進諸海軍國に匹敵する士官を得ること敢て難きに非ず」というところにあった。

まず何より必要とされるのは人材の育成である、との考えはいかにも福沢的である、というのは深読みが過ぎるであろうか。最後まで読むと、この社説が誰に宛てられているかがわかる。すなわち、「海軍の當局者は、入りては内閣の一政務官たるものなれば、國權に關する大事には深く注意す可きことにして、單に軍艦構造を主とする武人的の意見のみにては、未だ海軍擴張の精神を盡したるものと云ふ可らず」とあって、甲鉄派の首領たる樺山資紀海軍大臣を主たる対象としていたのである。

ただ、当時の海軍省当局に何でも反対というわけでもなく、福沢本人の草稿が残っている「海軍省所管」(18920603)は、樺山大臣の蛮勇演説(正面装備増強を強硬に主張)に怒った民党(野党)が予算案を否決したことによって軍艦の建造費の支出ができなくなったことに関して、軍備増強は長い目で見なければならないので、一時の立腹で国防を危うくしてはいけない、と民党をいさめている。

この第2期を事実上締めくくっている社説は「海軍」(18930528)で、「今日においては現在の事務に相応して其規模を小にし、其擴張進歩に隨て次第に之を大にするこそ適當の計畫にして、今回の改革に就ては或は其邊の決斷もあることならんと竊に期したるに、實際に其然るを見ざるは我輩の遺憾と爲る所なり」と、現在の事務の規模に相応する規模まで軍縮を行うべきだと提案している。

ところがこの基調は第3期になると大きく変更される。その最初は日清戦争開戦当初9月17日の黄海海戦における日本軍の勝利を伝える「海軍大勝利」(18940922)であるが、実際に海軍論と呼ぶべき社説は約1年半後の「海陸並行」(18960414)から「同盟と海軍」(18980531)までの2年2か月の間に掲載された残り30編である。

これらは積極的軍拡を唱えたものばかりで、福沢が第2期と同様に社説に影響を与えていたとすれば違和感が残るものである。全集に収録されている最初の海軍論である「軍備は海軍を主とす可し」(18961007)には、「今の國民の納税力に訴へて許す限りは多々ますます拡張の必要を認むるものにして、敢えてその数を云はず、一隻にても二隻にても只その多からんことを望むのみ」(⑯522頁)とある。

この時期は日清戦争の結果として締結された下関条約に基づく賠償金2億両の使い道をめぐって様々な意見が表明されていた時期であるから、黄海海戦の勝利を重く見た福沢が急速な海軍拡大の提唱へと意見を替えたという可能性もある。そうではあるが、論者の知る限りでは、演説でも書簡でも福沢がそのような見解を述べている部分はない。全集に収録されている9編を含めて、第3期の社説に福沢が関与した証拠を見つけられずにいるのである。

6.軍事史とのかかわりを探る

50編の海軍論社説群の内容だけを検討していてもらちがあかない。そこで本論文は、『時事新報』における海軍論の展開を正確に把握するために、実際の海軍力増強との関連という視点を導入したい。

この視点にはおおむね2つの方向が考えられる。第1は、朝鮮壬午軍乱(1882)後の清国への警戒感の高まりの中で、海軍内において2つの軍備構想間の対立(大艦重視の甲鉄派対小艦重視の水雷派)が強まっていくのであるが、政府主流派(特に井上馨)が自らの外交・財政政策に親和的な後者の構想を支持することによって、後者の構想を基礎にした海軍軍備計画が確定していった、と主張する大澤博明説(注18)である。第2は、この時期の大蔵省(松方正義)の財政政策に着目し、海軍軍拡が限定的にしか認められなかったという点で緊縮路線を貫くものであった、と主張する高橋秀直説(注19)である。

第1は海軍内部の派閥抗争の影響力を比較的強く捉える見方であるのに対して、第2は初期海軍指導部の発言力をほぼ皆無と見做して、軍備増強を伊藤博文・井上馨ら長州閥文官ともいうべき人々の指導下におく見方である。この2つのいずれが妥当であるのかについて、『時事新報』掲載社説を見渡すなら、第1の見方のほうにより多くの適合点を見出すことができる。

そもそも箱館戦争(1869年)後の海軍増強策は混迷を極めていた。新生日本海軍とはいうものの、実質は旧幕府海軍と旧薩摩海軍の合体であったから、指導部の半分は賊軍くずれである。征台の役(1874年)・江華島事件(1875年)・琉球処分(1879年)の3度清国海軍との衝突の危機があったが、それらは辛くも回避された。ところが1882年の朝鮮壬午軍乱で清国軍に対する日本軍の劣勢がはっきりしてしまい、危機感をもった日本政府は4年計画で大艦6隻・中小艦各12隻・水雷砲艦12隻を製造するための予算を計上したのだった。

第1期の「日本帝国の海軍」はそうした中で書かれたわけだが、内容は建艦にあたり国産化を図るべく、まずは造船所を建設するべきだとの提案をしている。実際には新造船所は作られることはなく、毎年340万円、臨時費300万円の海軍費は主として海外への大艦発注に宛てられた。そうした中で清国とフランスとの間で清仏戦争が勃発(1884年)、清国がベトナムの宗主権を手放す結果とはなったが、清国海軍は相当な実力をもっていることが明らかとなった。ところが日本海軍はといえば1885年にフランスが建造した巡洋艦畝傍が日本への回航途中に行方不明になるという大事件が発生してしまう。結局海外当局との交渉に不慣れな海軍軍人に軍備の拡充を任せたばかりに、4年間が無駄となったのであった。

また、直接の軍事衝突の危機とはならなかったものの、長崎に入港していた清国海軍の大型艦4隻の乗員が上陸乱闘した長崎清国水兵騒乱事件が1886年8月に発生した(注20)。そうした状況下、中上川が編集部を去った後の第2期の基調をなすのは、まずは人材の育成が重要という強いメッセージである。運用に携われる人材もないのに正面装備を整えたところで無意味である、という見解は、財政難に悩む伊藤・井上ら政府主流派にとっても、甲鉄派軍人たちへの牽制として有効だったはずである。わけても維新後一貫して外交に携わっていた井上馨と福沢は主に条約改正のために協同していて、昵懇の仲といってよかった。この時期の『時事新報』は、こと海軍の錬成に関しては政府主流派の見解を広める役割を担っていたように思われる。

第3期は、日清戦争を境に新聞業界が大きく変質した時期でもある。主宰者の言論を重視せず、主に読者の興味を曳くことで大きく部数を伸ばした読売・朝日などの小新聞が躍進して『時事新報』に脅威を与え始めていた。こうした中で時事新報社は経営編集体制を刷新した。すなわち経営については1896年7月に福沢の次男捨次郎が社長に就任し、編集については伊藤欣亮総編集が同年12月に退任、94年4月入社の社説記者北川礼弼が主として仕切ることになった。北川の前職は海軍省職員で、第3期の海軍論の多くは北川と石河が執筆していたと推測できる。

日清戦争前までは活躍の場がなかった海軍ではあるが、黄海海戦の勝利により国内の評価も一変、下関条約に基づく賠償金の獲得によって正面装備購入の資金難も解消されていた。第3期の野放図ともいえる軍備拡大社説はそうした状況下で執筆されているのである。

7.本論文で明らかとなったこと

最後に福沢健全期(1882~1898)の『時事新報』における海軍論社説群から読み取れることを項目化する。

  • (1)福沢健全期の『時事新報』での海軍論は確認できる分だけでも50編62日分ある。これは同期間(5338号分)の全社説中のおおよそ1.2%に相当する。
  • (2)海軍論社説群は3期に分けられる。1883年2月から1886年7月までの第1期(5編)は中上川主筆の持論、すなわち海軍増強には先ず自前の軍艦を建造するための造船所を建設すべきという考えが反映されている。1890年3月から1893年11月までの第2期(14編)は、正面装備の拡充のみを求めるのではなく、人材育成が優先課題であるという主張である。福沢直筆草稿が残されているのは第2期の「海軍省所管」(18920603)だけであるので、最低限福沢はこの時期の海軍論にかかわっていたとまでは言えるであろう。1894年9月から1898年5月までの第3期(31編)は、日清戦争の黄海海戦での勝利を受けて、海軍の正面装備の増強が声高に唱えられていた時期である。賠償金が入ることになったため、第2期の、資金がなくとも人材育成を第一とするというような社説は影を潜めている。
  • (3)現実の海軍増強の経過と対照させるならば、第1期の中上川による造船所建設を優先させるべきという主張は取り上げられることはなく、第2期の人材育成優先の提案は実際の海軍軍人の錬成と対応しているように見え、さらに第3期の正面装備増強の意見は、実現されたとはいえ、果たして『時事新報』の提言がいかほど海軍指導部に影響を与えたかはわからない、ということになる。第3期の提案は実行に移されているのであるが、それを『時事新報』社説の影響によるとは言えないのは、日清戦争によって日本のマスコミ業界は大きく発展して、多くの新聞が同様の早急な正面装備の増強策を唱えていたためである。
  • (4)全集に収録されている9編はすべて第3期からであるが、それらに福沢がかかわっていたのかどうかは判断はつかない。ただ、事実として指摘できることは、「海軍」の語彙を含む日清戦争後の署名著作は『福翁自伝』(1899)(注21)のみであるということである。(論文終)

参考文献(著者等50音順)

  • 大澤博明(2001)『近代日本の東アジア政策と軍事:内閣制と軍備路線の確立』成文堂
  • 小川原正道(2012)『福澤諭吉の政治思想』慶応義塾大学出版会
  • 小泉信三(1944)「徳富蘇峰氏の福沢先生評論について―先生の国権論その他―」『小泉信三全集』第21巻(1968)、文藝春秋
  • 慶応義塾(2010)『福沢諭吉事典』慶応義塾
  • 高橋秀直(1995)『日清戦争への道』東京創元社
  • 遠山茂樹(1951)「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号、福沢研究会
  • 徳富蘇峰(1944)「蘇翁漫談」『言論報国』3月号、言論報国会
  • 富田正文(1940)「戦争と福沢先生」『福沢諭吉の人と思想』岩波書店
  • 服部之総(1952)「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』河出書房
  • 平泉澄(1939)『本邦史教程』陸軍予科士官学校
  • 平山洋(2004)『福沢諭吉の真実』文芸春秋
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  • 平山洋(2020)「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」『日本近代学研究』第70輯、韓国日本近代学会
  • 福沢諭吉(1925,1926)『福沢全集』国民図書
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  • 福沢諭吉(1959~1964)『福沢諭吉全集』岩波書店
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  • 安川寿之輔(2000)『福沢諭吉のアジア認識』高文研
  • 安川寿之輔(2003)『福沢諭吉と丸山真男』高文研
  • 安川寿之輔(2006)『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』高文研

脚注

(1)
『時事新報』が創刊された1882年3月1日から福沢が脳卒中の発作を起こした直後の1898年9月30日までの期間を示す。全部で5338号分である。
(2)
その全タイトルは『福沢諭吉事典』(慶応義塾編・2010)にある。現行版『福沢諭吉全集』(岩波書店刊・1959~1964)にはそのうち約1500編が収録されている。残余はホームページ「平山洋関連」の「福沢健全期『時事新報』社説・漫言一覧及び起草者推定」https://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/the_newspaper_archives_and_conclusion_on_the_writer/ にある。
(3)
単行本名以下丸カッコ内は刊行年を示す。
(4)
現行版『全集』中の所在、この場合は第5巻169頁を示す。
(5)
「徳富蘇峰氏の福沢先生評論について―先生の国権論その他―」『小泉信三全集』第21巻(文藝春秋刊・1968)所収。初出は『三田新聞』546号、1944年5月10日付。
(6)
「戦争と福沢先生」慶応義塾福沢先生研究会編『福沢諭吉の人と思想』(岩波書店刊・1940)所収。
(7)
「蘇翁漫談」『言論報国』1944年3月号(61,62頁)。
(8)
陸軍予科士官学校編『本邦史教程』(1939)。
(9)
「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』(河出書房刊・1952)所収。
(10)
「日清戦争と福沢諭吉」『福沢研究』第6号(福沢研究会刊・1951)所収。
(11)
『福沢諭吉のアジア認識』(高文研刊・2000)等。
(12)
「福沢諭吉選集第四巻解題」『福沢諭吉選集』第4巻(岩波書店刊・1952)等。
(13)
安川寿之輔著『福沢諭吉と丸山真男』(高文研刊・2003)等。
(14)
初日掲載日が1883年2月6日であることを示す。以下この8桁の数字を社説番号と呼ぶ。
(15)
小川原正道著『福澤諭吉の政治思想』(慶応大学出版会刊・2012)による。
(16)
人名の後のこの形式での記載内容は生没年を示す。
(17)
『日本思想史学』第47号(日本思想史学会刊・2015)初出、『「福沢諭吉」とは誰か』(ミネルヴァ書房刊・2017)収録。
(18)
『近代日本の東アジア政策と軍事:内閣制と軍備路線の確立』(成文堂刊・2001)。
(19)
『日清戦争への道』(東京創元社刊・1995)。
(20)
この事件については拙論「福沢健全期(1882~1898)『時事新報』社説における清国」(『日本近代学研究』第70輯(韓国日本近代学会刊・2020))を参照のこと。
(21)
慶応義塾デジタルコレクション「デジタルで読む福沢諭吉」https://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/fukuzawa